明日の朝には子供念仏講の鉦を受け持ちの子供に配布すると聞いた。
講中の行事を終えればヤクにあたる当番は次に引き渡される。
そうならないうちに調査を済ませなければならない。
緊急を要することになった念仏講の調査項目は文書と鉦などの道具類を詳細に亘って調べねばならない。
今年度の自治会長を任っているN氏を通してヤク家を紹介してもらった。
ヤクの家はN家だ。
白土の念仏講が所有する文書や鉦の調査は、その存在を知ってから3年目。
佳境に入った念仏講の調査である。
子供の念仏講には9枚の六斎鉦が存在する。
その数を見て思い出されたN氏は昭和12年生の75歳。
当時の子供の念仏講は9人で回っていた。
太鼓打ちと太鼓持ちの二人。
鉦叩きは7人だったという。
N氏が子供時代における様相である。
かれこれ65年も前の小学生のころだという。
六斎鉦は足付きが4枚。
破損した鉦が一枚ある。
少し大きめの鉦は一枚。
小型のものは1枚。
足がない鉦は肩からぶら下げたものと考えられる。
その鉦は一枚。
もう一つあるが中央部分が欠損している。
今回の調査には大きさを測るためにサシガネ定規も持参した。
我が息子が学校で学んでいたときに使っていたサシガネである。
卒業してからは使うことがなかったサシガネは父親の私が受け継いでいる。
1.足付き1は刻印に「大佛住天下一西村○道貞利作」が見られる。
縁回りを含めた径は20.5cm。叩き面は18cmだ。
高さは5.5cmで足も含めれば7cm。
内径は17cmで深さは5cmであった。
2.足付き2の刻印は「和添上郡白土村念佛講 室町住出羽大掾宗味作」である。
縁回りを含めた径は21.5cm。叩き面は19cmだ。
高さは5.5cmで足も含めれば7cm。
内径は17cmで深さは5cmである。
先ほどの鉦とは少し大き目である。
3.足付き3には記銘は見られない。
寸法は1.と同様である。
4.足付き4の刻印は「和州添上郡白土村観音堂什物 奉寄進石形壹 施主西覚 ○貞享(じょうきょう」伍ハ辰(1688)七月十五日 室町住出羽大掾宗味作」である。
縁回りを含めた径は21cm。叩き面は18。5cmだ。
高さは5.5cmで足も含めれば7.5cm。
内径は17cmで深さが5cmである。
5.足無1には「昭和三拾参年吉日施主○○○○」の刻印がある。
門口のN氏が寄進したと思われる鉦だ。
縁回りを含めた径は20.5cm。
叩き面が17.5cmで、高さは5cmだ。
内径は15.5cmぐらいで深さは4cmであった。
6.足無小型には「大比村四丁」の刻印がある。
やや小ぶりで、縁回りを含めた径が12cm。
叩き面が10.5cmで、高さは4cmだ。
内径は9.5cmぐらいで深さは3.5cmであった。
7.足無小型には「白土村浄福寺什物施主仲○○○」の刻印がある。
大きさは前述のこぶり鉦と同じだ。
その他に破損した鉦が二枚ある。いずれも記銘は見られない。
8.足付き破損(記銘無)の大きさは、縁回りを含めた径が19cm。
叩き面は16cmだ。
中央にぽっかりと穴が開いている。
足まで測れば17cm。
内径が15.8cmで深さは4.5xmだった。
9.足無破損(記銘無)の大きさは、縁回りを含めた径が20.2cm。
叩き面が18cmである。
叩き面がまったく無い。
抜けたというような感じである。
高さは5cmで内径は17cmぐらい。
深さは4.5xmであった。
鉦の大きさはそれぞれによって少しずつ異なる。
寄進された時期が違うのであろう。
鉦を撮り始めてから1時間20分。
所有する念仏講の道具は他にもある。
一つは太鼓だ。
太鼓は新調されたもので「昭和56年6月吉日 新調 大念佛講」の記銘がある。
記録しなければならない重要なものがある。
講箱に納めている古文書である。
大量にある文書の記録は長時間を要する。
講箱の蓋は墨書文字で「明治拾六年 大念佛講中 書類箱」とある。
太鼓もそうだが「大念佛講」とも呼ばれていたと思われる文字であるが大阪平野の大念佛寺との関係は考えにくい。
融通念仏と思われる史料が見られないのだ。
始めに手掛けたのは巻物形式の古文書。
一般的には帳簿形式がみられるものだが巻物の文書は取り扱いに慎重を期さねばならないし、記録撮りも難しい。
1.巻物に書かれている最初の年代は不明(享保、元文、寛保年間と推定される)だが、延享元年(1744)、二年、三年・・・。
二月と九月のそれぞれに人名が書かれている。
おそらく現在に繋がる彼岸の寄合のヤク名だと考えられる。
その後も寛延、宝暦、明和、安永、天明、寛政、享和、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正から昭和19年まで延々と書き記された巻物に當屋の文字が見られる。
明治からは本當屋に加えて預当家もある。
明治40年からは帰當家の名称に替って昭和19年まで記されてきた当家帳と考えられる。
2.表紙に記された『享保二十一年(1736)二月十五日 浄福寺念仏講覚帳』。
帳簿を繰っていくと「宝暦十年(1760)浄福寺念佛講中 白土村 暦二月十六日」があった。
3.表紙が見られない文書は入費勘定帳であろうか、「寛政八年(1796)や十年記、享和二(1802)、三年、文政二(1819)、三、五年・・・安政年期が見られる貸附文書には「圓照寺」らしき文字があった。
講中のN氏の話によれば、白土村にエンショウボリと呼ばれている水路(濠)があるという。
その地から西方は小字寺ノ内。
幹線道路の南は寺ノ前と呼ばれていた。
小字寺ノ内にあったと伝わる圓照寺の名が濠名に残されているのである。
4.同じく表紙がないが、文久三、四年、慶応二、三年・・・明治二年までの文書がある。
おそらく次に続く諸入費勘定帳と思われる文書である。
5.『明治十五年勘定帳 諸入費勘定帳念仏講中』がある。
6.『明治二十九年三月勘定帳 諸入費勘定帳念仏講中』がある。
7.『大正十四年勘定帳 諸入費勘定帳念仏講中』がある。
8.『昭和39年勘定帳 諸入費勘定帳念仏講中』と『昭和43年』の諸入費勘定帳がある。
昭和三十九年参月二日の営講には献立が書かれてあった。
それによれば油揚、かまぼこ板、平、こんにゃく、てしょ取り、野菜したし、清酒、まんじう、汁は豆腐である。
昭和48年には分葱(ワケギ)の文字もあった。
翌年の昭和49年には盛り合わせとある。
献立は料理から寿司盛りに移ったのであろう。
稀には漬物の文字もある。
昭和三十九年の勘定帳には「献立 油揚、かまぼこ、平、こんにゃく、野菜したし」に「汁は豆腐」と書かれてあった。
当時は料理を作って食べていたようだが昭和49年に大きく転換した献立である。
9.『昭和61年勘定帳 諸入費勘定帳念仏講中』は平成14年まで記されていた。
この帳簿を拝見して驚いたのが「盆チャチャンコ」の文字。
昭和61年には子供の念仏講を「チャチャンコ」と呼んでいた証しである。
3年前に知った白土の子供の念仏講は「チャチャンコウ」或いは「チャチャン講」だと認識していたのであった。
言葉で聞いていた「チャチャンコ」が誤りであったのだ。
そういうことだと同行したN自治会長が云った。
3年前に聞いたときは調査ノートに記載して、間違いがないかどうか検証してもらっていたにも拘わらず誤りであったことに気付く。
この日までに掲載していたホームページやブログの記載のすべてを正しく「チャチャンコ」に書き換えたのはいうまでもない。
その後の平成16年からは帳簿をあらためてノートによる記載になった。
子供念仏講の文書は綴じられていないものもあった10.バラバラ文書。
一枚、一枚がバラバラなのである。
一部にはこよりで綴じられているものもあるが開放してみれば一枚ずつだ。
昭和28、9年の鉦タタキもあれば何らかの証文や覚書きもある。
すべてを記録することは困難であるが一部に献立の食材と思われる「ぜんまい」もあった。
この中には先ほど記述した「圓照寺」の文字もある。
ときおり目にする年代に文政、安政、明治、昭和などなどを目にした勘定帳であった。
念仏講の道具が保管されていた木箱がある。
その中には現在の講中の営みでは使われていない道具類があった。
一つは餅米計量枡である。
大きさは一辺が14cmで高さが6cm。
内辺は12cmで深さが6cmほど。
枡はもう一つある。
大きさは一辺が15cmで高さが6.5cm。
内辺は13cmで深さが7.3cmだ。
営みに出されたお米を計量していた枡である。
銅製の湯とうもあった。
上径は20cmで下径が18cm。
深目の湯とうは二つあった。
これは豆腐汁の汁注ぎに使われていたものである。
すべての記録撮影を終えた。
費やした時間は予想をはるかに超えた6時間。
玄関を占有してしまいご迷惑をおかけした。
膨大な史料記録にご協力をいただき感謝する次第だ。
ただ、翌日は膝や腰の痛みが激しく歩くのも困難な状況に陥ったことを付記しておく。
(H24. 8. 3 EOS40D撮影)
講中の行事を終えればヤクにあたる当番は次に引き渡される。
そうならないうちに調査を済ませなければならない。
緊急を要することになった念仏講の調査項目は文書と鉦などの道具類を詳細に亘って調べねばならない。
今年度の自治会長を任っているN氏を通してヤク家を紹介してもらった。
ヤクの家はN家だ。
白土の念仏講が所有する文書や鉦の調査は、その存在を知ってから3年目。
佳境に入った念仏講の調査である。
子供の念仏講には9枚の六斎鉦が存在する。
その数を見て思い出されたN氏は昭和12年生の75歳。
当時の子供の念仏講は9人で回っていた。
太鼓打ちと太鼓持ちの二人。
鉦叩きは7人だったという。
N氏が子供時代における様相である。
かれこれ65年も前の小学生のころだという。
六斎鉦は足付きが4枚。
破損した鉦が一枚ある。
少し大きめの鉦は一枚。
小型のものは1枚。
足がない鉦は肩からぶら下げたものと考えられる。
その鉦は一枚。
もう一つあるが中央部分が欠損している。
今回の調査には大きさを測るためにサシガネ定規も持参した。
我が息子が学校で学んでいたときに使っていたサシガネである。
卒業してからは使うことがなかったサシガネは父親の私が受け継いでいる。
1.足付き1は刻印に「大佛住天下一西村○道貞利作」が見られる。
縁回りを含めた径は20.5cm。叩き面は18cmだ。
高さは5.5cmで足も含めれば7cm。
内径は17cmで深さは5cmであった。
2.足付き2の刻印は「和添上郡白土村念佛講 室町住出羽大掾宗味作」である。
縁回りを含めた径は21.5cm。叩き面は19cmだ。
高さは5.5cmで足も含めれば7cm。
内径は17cmで深さは5cmである。
先ほどの鉦とは少し大き目である。
3.足付き3には記銘は見られない。
寸法は1.と同様である。
4.足付き4の刻印は「和州添上郡白土村観音堂什物 奉寄進石形壹 施主西覚 ○貞享(じょうきょう」伍ハ辰(1688)七月十五日 室町住出羽大掾宗味作」である。
縁回りを含めた径は21cm。叩き面は18。5cmだ。
高さは5.5cmで足も含めれば7.5cm。
内径は17cmで深さが5cmである。
5.足無1には「昭和三拾参年吉日施主○○○○」の刻印がある。
門口のN氏が寄進したと思われる鉦だ。
縁回りを含めた径は20.5cm。
叩き面が17.5cmで、高さは5cmだ。
内径は15.5cmぐらいで深さは4cmであった。
6.足無小型には「大比村四丁」の刻印がある。
やや小ぶりで、縁回りを含めた径が12cm。
叩き面が10.5cmで、高さは4cmだ。
内径は9.5cmぐらいで深さは3.5cmであった。
7.足無小型には「白土村浄福寺什物施主仲○○○」の刻印がある。
大きさは前述のこぶり鉦と同じだ。
その他に破損した鉦が二枚ある。いずれも記銘は見られない。
8.足付き破損(記銘無)の大きさは、縁回りを含めた径が19cm。
叩き面は16cmだ。
中央にぽっかりと穴が開いている。
足まで測れば17cm。
内径が15.8cmで深さは4.5xmだった。
9.足無破損(記銘無)の大きさは、縁回りを含めた径が20.2cm。
叩き面が18cmである。
叩き面がまったく無い。
抜けたというような感じである。
高さは5cmで内径は17cmぐらい。
深さは4.5xmであった。
鉦の大きさはそれぞれによって少しずつ異なる。
寄進された時期が違うのであろう。
鉦を撮り始めてから1時間20分。
所有する念仏講の道具は他にもある。
一つは太鼓だ。
太鼓は新調されたもので「昭和56年6月吉日 新調 大念佛講」の記銘がある。
記録しなければならない重要なものがある。
講箱に納めている古文書である。
大量にある文書の記録は長時間を要する。
講箱の蓋は墨書文字で「明治拾六年 大念佛講中 書類箱」とある。
太鼓もそうだが「大念佛講」とも呼ばれていたと思われる文字であるが大阪平野の大念佛寺との関係は考えにくい。
融通念仏と思われる史料が見られないのだ。
始めに手掛けたのは巻物形式の古文書。
一般的には帳簿形式がみられるものだが巻物の文書は取り扱いに慎重を期さねばならないし、記録撮りも難しい。
1.巻物に書かれている最初の年代は不明(享保、元文、寛保年間と推定される)だが、延享元年(1744)、二年、三年・・・。
二月と九月のそれぞれに人名が書かれている。
おそらく現在に繋がる彼岸の寄合のヤク名だと考えられる。
その後も寛延、宝暦、明和、安永、天明、寛政、享和、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正から昭和19年まで延々と書き記された巻物に當屋の文字が見られる。
明治からは本當屋に加えて預当家もある。
明治40年からは帰當家の名称に替って昭和19年まで記されてきた当家帳と考えられる。
2.表紙に記された『享保二十一年(1736)二月十五日 浄福寺念仏講覚帳』。
帳簿を繰っていくと「宝暦十年(1760)浄福寺念佛講中 白土村 暦二月十六日」があった。
3.表紙が見られない文書は入費勘定帳であろうか、「寛政八年(1796)や十年記、享和二(1802)、三年、文政二(1819)、三、五年・・・安政年期が見られる貸附文書には「圓照寺」らしき文字があった。
講中のN氏の話によれば、白土村にエンショウボリと呼ばれている水路(濠)があるという。
その地から西方は小字寺ノ内。
幹線道路の南は寺ノ前と呼ばれていた。
小字寺ノ内にあったと伝わる圓照寺の名が濠名に残されているのである。
4.同じく表紙がないが、文久三、四年、慶応二、三年・・・明治二年までの文書がある。
おそらく次に続く諸入費勘定帳と思われる文書である。
5.『明治十五年勘定帳 諸入費勘定帳念仏講中』がある。
6.『明治二十九年三月勘定帳 諸入費勘定帳念仏講中』がある。
7.『大正十四年勘定帳 諸入費勘定帳念仏講中』がある。
8.『昭和39年勘定帳 諸入費勘定帳念仏講中』と『昭和43年』の諸入費勘定帳がある。
昭和三十九年参月二日の営講には献立が書かれてあった。
それによれば油揚、かまぼこ板、平、こんにゃく、てしょ取り、野菜したし、清酒、まんじう、汁は豆腐である。
昭和48年には分葱(ワケギ)の文字もあった。
翌年の昭和49年には盛り合わせとある。
献立は料理から寿司盛りに移ったのであろう。
稀には漬物の文字もある。
昭和三十九年の勘定帳には「献立 油揚、かまぼこ、平、こんにゃく、野菜したし」に「汁は豆腐」と書かれてあった。
当時は料理を作って食べていたようだが昭和49年に大きく転換した献立である。
9.『昭和61年勘定帳 諸入費勘定帳念仏講中』は平成14年まで記されていた。
この帳簿を拝見して驚いたのが「盆チャチャンコ」の文字。
昭和61年には子供の念仏講を「チャチャンコ」と呼んでいた証しである。
3年前に知った白土の子供の念仏講は「チャチャンコウ」或いは「チャチャン講」だと認識していたのであった。
言葉で聞いていた「チャチャンコ」が誤りであったのだ。
そういうことだと同行したN自治会長が云った。
3年前に聞いたときは調査ノートに記載して、間違いがないかどうか検証してもらっていたにも拘わらず誤りであったことに気付く。
この日までに掲載していたホームページやブログの記載のすべてを正しく「チャチャンコ」に書き換えたのはいうまでもない。
その後の平成16年からは帳簿をあらためてノートによる記載になった。
子供念仏講の文書は綴じられていないものもあった10.バラバラ文書。
一枚、一枚がバラバラなのである。
一部にはこよりで綴じられているものもあるが開放してみれば一枚ずつだ。
昭和28、9年の鉦タタキもあれば何らかの証文や覚書きもある。
すべてを記録することは困難であるが一部に献立の食材と思われる「ぜんまい」もあった。
この中には先ほど記述した「圓照寺」の文字もある。
ときおり目にする年代に文政、安政、明治、昭和などなどを目にした勘定帳であった。
念仏講の道具が保管されていた木箱がある。
その中には現在の講中の営みでは使われていない道具類があった。
一つは餅米計量枡である。
大きさは一辺が14cmで高さが6cm。
内辺は12cmで深さが6cmほど。
枡はもう一つある。
大きさは一辺が15cmで高さが6.5cm。
内辺は13cmで深さが7.3cmだ。
営みに出されたお米を計量していた枡である。
銅製の湯とうもあった。
上径は20cmで下径が18cm。
深目の湯とうは二つあった。
これは豆腐汁の汁注ぎに使われていたものである。
すべての記録撮影を終えた。
費やした時間は予想をはるかに超えた6時間。
玄関を占有してしまいご迷惑をおかけした。
膨大な史料記録にご協力をいただき感謝する次第だ。
ただ、翌日は膝や腰の痛みが激しく歩くのも困難な状況に陥ったことを付記しておく。
(H24. 8. 3 EOS40D撮影)