大和郡山市の千日町は新興住宅地。
昭和45年(1970)に造成された住宅地である。
その一角に割塚古墳がある。
古墳がある広場は千日町の憩いの場の古墳公園だ。
古墳は昭和53年(1978)に大和郡山市の史跡文化財に指定されている。
直径が49メートルで高さは5メートルにもおよぶ巨大な円墳だ。
塚の中央辺りがⅤ字方に割れていたことから割塚古墳の名がある。
昭和43年の発掘調査によれば片袖式の横穴式石室(家型石棺)の埋葬施設であった。
6世紀前半の築造というから弥生時代ではなく、その当時の馬具や須惠器が出土したそうだ。
円墳は古墳時代の終末期。
同時期には明日香の石舞台古墳、高松塚古墳、キトラ古墳などが代表例で挙げられる。
平成23年5月に訪れた割塚古墳。
橿原考古学研究所主催の「遺跡と農耕儀礼にふれる」コースに同行した際に拝見した。
そのときに気がついたのが古墳前方にあった祠であった。
古墳を祀っているとすれば何らかの行事があるのではと思っていた。
その年の夏過ぎに聞いた「古墳の法要」。
送迎者のFさんやYさんから伝えられた法要。
実際に行事がされていることを知ったのだ。
それから一年後。
Fさんからこの日に行われることを教えてくださった。
朝から古墳の前でテント張りなどの作業をされている人たち。
千日町第三自治会の役員らである。
主旨を伝えて行事取材の許可を得た。
第三自治会会長ら役員らの話によれば同町が発足した当時から守ってきたという割塚古墳。
同地に住まいすることになった住民。
古墳は盗掘されてはいるものの古代の人を偲んで法要営むようにしたという。
法要を始めたいと申しでたのは長寿会(老人会)。
その人たちが発起人となって祠を建てたという。
昭和45、6年というから同町の全容ができた頃である。
長寿会で運営してきた法要はいつしか自治会の運営に切り替えたという。
それから40年。
銅葺きの祠屋根も傷んできたようだ。
自治会の婦人たちは祠を水拭きするなど奇麗に清掃される。
花を飾ってローソクを立てておく。
自治会長のお許しをいただいて祠内部を拝見した。
内部にはヤカタが二つ。
そこにはお札が納められている。
「大慶月天王」や「武頭大権現」の文字を判別できたお札。
古墳の主は未だ判明していないが、当地を治めていた豪族であったのだろう。
誰であろうが古代人であることには違いない。
1450年前の原住民を偲んで手を合わせる。
この日の午後は自治会運営の金魚すくい大会。
午前中に設営をされた自治会役員。
多くの住民たちが集まって盛りあがったそうだ。
それを済ませた人たちは再び古墳公園に集まってきた。
暑い日差しを避けてテント内の席に座る。
例年なら40人ぐらいだが、この日は特に多くて60人にもなった。
導師を勤めるのは矢田山金剛山寺(あじさいで名高い通称矢田寺)の大門坊。
同寺の行事取材でお世話になっている前川真澄住職だ。
先代住職の時代からお世話をしているという。
子供も参列する古墳の法要。
静かにお経を唱えられる。
およそ30分の法要を終えた後は住職の説法。
隣村の外川から矢田へ抜ける道は狭かった。
舗装もされていない田舎道は坂を登って下って歩いていた。
当時の様相を語る住職の話題に耳を傾ける新住民。
地域の誇り、或いは誉れというべきでしょうか、先人の弔った供養を終えた。
御供のお下がりを貰って帰る子供たちの背には威容を誇る古墳が生きているように見えた。
(H24. 8. 4 EOS40D撮影)
昭和45年(1970)に造成された住宅地である。
その一角に割塚古墳がある。
古墳がある広場は千日町の憩いの場の古墳公園だ。
古墳は昭和53年(1978)に大和郡山市の史跡文化財に指定されている。
直径が49メートルで高さは5メートルにもおよぶ巨大な円墳だ。
塚の中央辺りがⅤ字方に割れていたことから割塚古墳の名がある。
昭和43年の発掘調査によれば片袖式の横穴式石室(家型石棺)の埋葬施設であった。
6世紀前半の築造というから弥生時代ではなく、その当時の馬具や須惠器が出土したそうだ。
円墳は古墳時代の終末期。
同時期には明日香の石舞台古墳、高松塚古墳、キトラ古墳などが代表例で挙げられる。
平成23年5月に訪れた割塚古墳。
橿原考古学研究所主催の「遺跡と農耕儀礼にふれる」コースに同行した際に拝見した。
そのときに気がついたのが古墳前方にあった祠であった。
古墳を祀っているとすれば何らかの行事があるのではと思っていた。
その年の夏過ぎに聞いた「古墳の法要」。
送迎者のFさんやYさんから伝えられた法要。
実際に行事がされていることを知ったのだ。
それから一年後。
Fさんからこの日に行われることを教えてくださった。
朝から古墳の前でテント張りなどの作業をされている人たち。
千日町第三自治会の役員らである。
主旨を伝えて行事取材の許可を得た。
第三自治会会長ら役員らの話によれば同町が発足した当時から守ってきたという割塚古墳。
同地に住まいすることになった住民。
古墳は盗掘されてはいるものの古代の人を偲んで法要営むようにしたという。
法要を始めたいと申しでたのは長寿会(老人会)。
その人たちが発起人となって祠を建てたという。
昭和45、6年というから同町の全容ができた頃である。
長寿会で運営してきた法要はいつしか自治会の運営に切り替えたという。
それから40年。
銅葺きの祠屋根も傷んできたようだ。
自治会の婦人たちは祠を水拭きするなど奇麗に清掃される。
花を飾ってローソクを立てておく。
自治会長のお許しをいただいて祠内部を拝見した。
内部にはヤカタが二つ。
そこにはお札が納められている。
「大慶月天王」や「武頭大権現」の文字を判別できたお札。
古墳の主は未だ判明していないが、当地を治めていた豪族であったのだろう。
誰であろうが古代人であることには違いない。
1450年前の原住民を偲んで手を合わせる。
この日の午後は自治会運営の金魚すくい大会。
午前中に設営をされた自治会役員。
多くの住民たちが集まって盛りあがったそうだ。
それを済ませた人たちは再び古墳公園に集まってきた。
暑い日差しを避けてテント内の席に座る。
例年なら40人ぐらいだが、この日は特に多くて60人にもなった。
導師を勤めるのは矢田山金剛山寺(あじさいで名高い通称矢田寺)の大門坊。
同寺の行事取材でお世話になっている前川真澄住職だ。
先代住職の時代からお世話をしているという。
子供も参列する古墳の法要。
静かにお経を唱えられる。
およそ30分の法要を終えた後は住職の説法。
隣村の外川から矢田へ抜ける道は狭かった。
舗装もされていない田舎道は坂を登って下って歩いていた。
当時の様相を語る住職の話題に耳を傾ける新住民。
地域の誇り、或いは誉れというべきでしょうか、先人の弔った供養を終えた。
御供のお下がりを貰って帰る子供たちの背には威容を誇る古墳が生きているように見えた。
(H24. 8. 4 EOS40D撮影)