マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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終止符を打った大柳生の太鼓踊りは有終の舞い

2012年10月31日 06時43分33秒 | 奈良市(東部)へ
集会所に集まってきた村の人たち。

この日は最後となった大柳生の太鼓踊り。

会所の前に立てたシナイは11本。

踊り子たちが背中に括りつける飾りだ。

大柳生の太鼓踊りは三つの垣内、それぞれが毎年交替しながら行われてきた。

踊りの演目は上出が「大ジュンヤク(大神踊か)」、「大ゼンオドリ」、「シノビオドリ(忍び踊)」。西は「屋敷踊り」、「山伏踊り」、「若武者踊り」で、塔坂は「大神踊り」、「忍踊り」、「小ジュンヤク」であった。

シナイの形は垣内によって微妙に形が異なる。

この日は6本の西垣内シナイと5本の上出垣内シナイが用意された。

西垣内のシナイはカラフルな切り紙の飾りで、下部を三段組みにしたヒノキの削り。

上出垣内のシナイは紅白の花飾りで二段である。

7月から毎週のように練習してきた太鼓踊り。

最後の演武に磨きを掛ける。

一人の高校生が初参加した太鼓踊り。

最初で最後の演者である。



衣装を身につけた踊り子たちは村人らによって白いサラシでシナイを身体にしばりつける。

出発の支度を整えたころには天空が怪しい雰囲気になってきた。

真っ黒な雲が立ち込める。

雨が降りだした。

今後も降るのか。それとも止むのか。

決断を迫られる。

ピカっと光る稲妻。

ゴロゴロの音も聞こえだした。

昨日も同じような状況であった県内東部。

天気予報は見事にあたり最後の出番は足止めをくらう。



小止みになった状況を判断されて出発した。

道中においても雷が鳴り続ける。

なんとか辿りついた披露の広場。

着いたとたんに雨は激しくなった。

無情の雨は激しさを増す。

最後となった太鼓踊りにやってきた大勢の人たち。

傘をさして拝見するが、演者にはそれがない。

いつものように挨拶と口上を述べられて始まった。



踊り子は背中に大御幣を付けた四人の大太鼓打ち。

その一部の御幣には「第四号 大正拾年五月二日五十三連隊 渡満凱旋記念軍旗祭奉献 なにがし」とある。

調べてみれば、歩兵第五十三連隊は大正8(1919)年4月29日にシベリア出兵。

同年の6月15日にはスリランカで共産ゲリラと戦い、19日には寛城子で支那軍と交戦したとある。

2年後の大正10(1921)年4月5日において歩兵第十七旅団と守備を交代した上で同月の16日に奈良へ凱旋したようだ。

その後に大柳生へ戻ってきた凱旋兵を迎えたのであろう。

記念した御幣を肩に挿していたのである。

戦記と太鼓踊りの関係は判らないが、言い伝えに出陣、凱旋踊りともある大柳生の太鼓踊りには違いない。

胸に「カッコ(鞨鼓)」と呼ばれる小太鼓は「中踊り」とも呼ばれる踊り子だ。



シナイを背中に括りつけて踊る姿は最後の雄姿。

そうして始まった最初の踊りは「ジュンヤク」。

2曲目は「しのび踊り」だ。

雨が降り続けるなかでの披露は小休止もなく連続で行われる。

ピーヒャラリー、ピーヒャラリー、ピーヒャラピーヒャラピーヒャラ、ピーヒャラリーとともに鉦の音も聞こえてくる。

踊り続けた演者も一旦は身体を休めなくてはもたない。



十数分の休憩を挟んで最後の踊りは「ヤシキ踊り」。

羽織姿で棒状のサイハイを振るのは師匠。

踊り全体の調子をとる。

およそ一時間の太鼓踊りは拍手喝さいで会場を退けた。

やり遂げた踊りに笑みがこぼれる演者たち。

記念写真を撮って解散する。

打上花火に「おおやぎゅう」の歓声もあがって幕を閉じた。

(H24. 8.18 EOS40D撮影)