たいせいくんは小学校6年生。
今年を最後に子供の念仏講の営みを卒業する。
上級生がいなかったから4年間も太鼓打ちを勤めた。
今年も始まった白土町の子供念仏。
8月7日から14日までの毎日だ。
K婦人の話によれば長男(現在20歳)がしていたころは14時とか15時に始めていたという。
その時間帯はカンカン照り。
とても暑かったと述懐する。
町内の辻などを巡って太鼓を打つ。
その音に合わせて鉦を叩く年少者。
この日のお勤めをするのは5人。
明日は6人になるという子どもたちが集まる場所は浄福寺の門下だ。
予め子供が決めておいた開始時間は全日とも17時。
「せぇのっ」の一声が掛かって打ちだした。
太鼓と鉦を打ち鳴らす場所は決まっている。
浄福寺山門下、浄福寺本堂下、旧仲家の玄関があったとされる町内の中心の辻、北のフダワ(札場が訛った)、西のセセンボ(先祖墓が訛った)、南の辻である。
そこで打つ太鼓の拍子はドンチャンドンチャンドンドンチャチャチャン。
それに合わして鉦をチャンチャンチャチャチャンと打ち鳴らす。
これを9回ぐらい繰り返したあとは、すかさず両手にバチを持ってボテボテボテボテスッテントンと3回連打する。
早打ちの連打の音色は先ほどの打ち方とはうって変わる。
「ドンチャン」とか「ボテボテスッテントン」の擬音はそのように聞こえると云ったのはかつての経験者や子どもの親たちだ。
擬音はともかく、念仏の鉦音はチャンチャン、チャチャチャンと打ち鳴らす。
その音色から子供の念仏講を「チャチャンコ」と呼ばれているのである。
かつては3回も繰り返していた。
いつしか2回の繰り返しになったようだ。
講中のN氏によれば打つリズムが決まっているという。
最初はチャン(鉦)(胴縁)チャン(鉦)(胴縁)チャ(鉦)(胴縁)チャ(鉦)(胴縁)チャン(鉦)(胴縁)である。
鉦とともに太鼓打ちはバチで胴縁を叩く。
次の2番目は、ドン(胴腹革)チャン(鉦)(胴縁)ドン(胴腹革)チャン(鉦)(胴縁)ドン(胴腹革)ドン(胴腹革)チャ(鉦)(胴縁)チャ(鉦)(胴縁)チャン(鉦)(胴縁)となる。
3番目に連打の太鼓打ち。
ボ(右手胴腹革)テ(左手胴腹革)ボ(右手胴腹革)テ(左手胴腹革)ボ(右手胴腹革)テ(左手胴腹革)ボ(右手胴腹革)テ(左手胴腹革)スッ(両手胴縁)テン(右手胴腹革)トン(左手胴腹革)である。
1、2、3番とも10回ほど繰り返すと話す。
子供の念仏講は新仏の家へ寄って打つタナ参りもある。
そこでは休憩を挟んで2度行われる。
この年は3軒もあった新仏のタナ参り。
南の廊下側に吊るされた白い燈籠。
上部が平面四角形で、その下は四方型と三角型を組み合わせた吊り燈籠だ。
組み合わした木の枠を白地で装飾された吊り燈籠である。
下部には長い四角の垂れ。
そこには切り抜いた「南無阿弥陀佛」などの文様がみられる。
先祖の霊とされる吊り燈籠を作っているのは、かつて白土町に住んでいた天理市櫟本の「シラツチヤ」。
ザルや瀬戸物を売っている店だそうだ。
型が決まっている燈籠は近辺の旧村には見られないもので、「白土だけにある」という
新仏の家は村内に2軒。
もう一軒は外れの出屋敷とされる千束(せんぞく)の地。
隣村の石川町との境界線は古来の街道だ。
かつての中ツ道は後世に橘街道と名を替えた街道。
今でも地元の人たちがそう呼ぶ千束の地の街道であるが、当地に属する家の吊り燈籠は吊ることがない。
中断しているという。
そういうわけで千束の家では座敷に上がって太鼓と鉦を打ち鳴らす。
こうして新仏のタナ参りを済ませば再び浄福寺に戻ってくる。
始まりと同じように門下と本堂下で行われて終えた初日は1時間20分。
新仏の家人から貰ったお菓子を手にして帰っていった。
(H24. 8. 7 EOS40D撮影)
(H24. 8. 8 EOS40D撮影)
今年を最後に子供の念仏講の営みを卒業する。
上級生がいなかったから4年間も太鼓打ちを勤めた。
今年も始まった白土町の子供念仏。
8月7日から14日までの毎日だ。
K婦人の話によれば長男(現在20歳)がしていたころは14時とか15時に始めていたという。
その時間帯はカンカン照り。
とても暑かったと述懐する。
町内の辻などを巡って太鼓を打つ。
その音に合わせて鉦を叩く年少者。
この日のお勤めをするのは5人。
明日は6人になるという子どもたちが集まる場所は浄福寺の門下だ。
予め子供が決めておいた開始時間は全日とも17時。
「せぇのっ」の一声が掛かって打ちだした。
太鼓と鉦を打ち鳴らす場所は決まっている。
浄福寺山門下、浄福寺本堂下、旧仲家の玄関があったとされる町内の中心の辻、北のフダワ(札場が訛った)、西のセセンボ(先祖墓が訛った)、南の辻である。
そこで打つ太鼓の拍子はドンチャンドンチャンドンドンチャチャチャン。
それに合わして鉦をチャンチャンチャチャチャンと打ち鳴らす。
これを9回ぐらい繰り返したあとは、すかさず両手にバチを持ってボテボテボテボテスッテントンと3回連打する。
早打ちの連打の音色は先ほどの打ち方とはうって変わる。
「ドンチャン」とか「ボテボテスッテントン」の擬音はそのように聞こえると云ったのはかつての経験者や子どもの親たちだ。
擬音はともかく、念仏の鉦音はチャンチャン、チャチャチャンと打ち鳴らす。
その音色から子供の念仏講を「チャチャンコ」と呼ばれているのである。
かつては3回も繰り返していた。
いつしか2回の繰り返しになったようだ。
講中のN氏によれば打つリズムが決まっているという。
最初はチャン(鉦)(胴縁)チャン(鉦)(胴縁)チャ(鉦)(胴縁)チャ(鉦)(胴縁)チャン(鉦)(胴縁)である。
鉦とともに太鼓打ちはバチで胴縁を叩く。
次の2番目は、ドン(胴腹革)チャン(鉦)(胴縁)ドン(胴腹革)チャン(鉦)(胴縁)ドン(胴腹革)ドン(胴腹革)チャ(鉦)(胴縁)チャ(鉦)(胴縁)チャン(鉦)(胴縁)となる。
3番目に連打の太鼓打ち。
ボ(右手胴腹革)テ(左手胴腹革)ボ(右手胴腹革)テ(左手胴腹革)ボ(右手胴腹革)テ(左手胴腹革)ボ(右手胴腹革)テ(左手胴腹革)スッ(両手胴縁)テン(右手胴腹革)トン(左手胴腹革)である。
1、2、3番とも10回ほど繰り返すと話す。
子供の念仏講は新仏の家へ寄って打つタナ参りもある。
そこでは休憩を挟んで2度行われる。
この年は3軒もあった新仏のタナ参り。
南の廊下側に吊るされた白い燈籠。
上部が平面四角形で、その下は四方型と三角型を組み合わせた吊り燈籠だ。
組み合わした木の枠を白地で装飾された吊り燈籠である。
下部には長い四角の垂れ。
そこには切り抜いた「南無阿弥陀佛」などの文様がみられる。
先祖の霊とされる吊り燈籠を作っているのは、かつて白土町に住んでいた天理市櫟本の「シラツチヤ」。
ザルや瀬戸物を売っている店だそうだ。
型が決まっている燈籠は近辺の旧村には見られないもので、「白土だけにある」という
新仏の家は村内に2軒。
もう一軒は外れの出屋敷とされる千束(せんぞく)の地。
隣村の石川町との境界線は古来の街道だ。
かつての中ツ道は後世に橘街道と名を替えた街道。
今でも地元の人たちがそう呼ぶ千束の地の街道であるが、当地に属する家の吊り燈籠は吊ることがない。
中断しているという。
そういうわけで千束の家では座敷に上がって太鼓と鉦を打ち鳴らす。
こうして新仏のタナ参りを済ませば再び浄福寺に戻ってくる。
始まりと同じように門下と本堂下で行われて終えた初日は1時間20分。
新仏の家人から貰ったお菓子を手にして帰っていった。
(H24. 8. 7 EOS40D撮影)
(H24. 8. 8 EOS40D撮影)