マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

横柿戸隠神社字宮ノ谷亥の子の山の神

2016年08月24日 08時57分58秒 | 楽しみにしておこうっと
桜井市の山間部。

大字横柿に鎮座する戸隠(とがくし)神社を目指す。

同神社は2年前にも訪れたことがある。

そのころは体力的にも元気だった。

乗ってきた車を里道に停めて林道を歩く。

山道とも思える急な坂道の車は登り辛い。

落ち葉が溜まった林道は雨が降れば濡れ濡れ状態。

泥もあればコケ化も見られる林道にタイヤが滑る。

四輪駆動でなんとか登れる林道であるが、危険を避けて里から登っていった。

30分以上もかかって歩いたことを思いだす。

今回は手術後4ケ月後の身。

歩きでなく、二輪駆動の軽バンを走らせる。

ガードレールもない林道は一つ誤れば崖下行きだ。

恐る、恐るの心境もあるが、途中でタイヤが滑りだしたら戻ることさえできない。

アクセルを踏み込んで一挙に登っていく。

峠になるような山道の先は袋小路。

なんとか辿り着いて安堵するが、膝は何故か震えていた。

さらに奥深い処に整備された坂道がある。

目指す神社に向かう参道は木道。

湿った状態であれば滑りやすい。

右は崖下。

一歩、一歩を踏みしめながら登っていくが2年前より体力が落ちている。

体力が落ちたというよりも術後の不整脈が影響している。

何度かの小休止で繋いで登った先に注連縄を張った朱塗りの鳥居が眼前に現れた。



注連縄は左右二本の竹に掛けてある。

ご神体のイワクラに建てている本殿が戸隠(とがくし)神社。

秋のマツリは10月末の日曜日に行われているようだ。

当屋を含む3人の宮当番ら氏子一同は上の宮さんとも呼ぶ戸隠神社に参拝して祝詞を奏上する。

それから林道を下って下の宮さんと呼ぶ御年(みとし)神社に参る。

両神社のマツリはかつて別々に行われていたが、過疎化した9戸の横柿ではマツリを維持するのが難しくなり行事日を統合したそうだ。

これまでは当屋が一切合切の行事を仕切っていたが、これもまた難しくなり、前年より両隣の2軒とともに協力し合って行動する3人の宮当番制に替えたという。

ひっそりと佇む神社には誰一人いない。

辺りを見渡せば、拝殿前に山の仕事道具を吊り下げていた。



右よりヤ(クサビとも)、ヨキ(オノとも)、ノコギリ、カマ、ヤ(クサビとも)、ナタの6枚は杉板(杉材のベニヤ板)で作った山の仕事道具である。

2年前に拝見したときはクワの歯だと思っていた両端の四角い板。

製作者のUさんにお聞きすれば、それは「ヤ(矢)」だという。

木を伐採する際に打ち込む楔(くさび)である。

打ち込むことで木を倒すことができる山仕事の道具だ。

製作者の話しによれば鳥居に傾けていた注連縄を入れて七つの道具。

これらは「亥の子マツリ」に寄せた山の神へ捧げる「七つ道具」である。

この年が当番当屋のMさんは腕を怪我されて作業をすることができなかった。

当屋の急な頼みに製作を請け負ったUさんが作った「七つ道具」のデキが良い。

秋のマツリを終えた横柿の人たちは場を集会所に移して直会をされる。



集会所はかつてあった宝積寺(ほうじゃくじ)の地。

ご本尊を安置しているようだ。

宝積寺下を下る。

この年81歳になった婦人に出合う。

2年ぶりにお会いした婦人は「あんたのことは忘れもせん、今でも顔は覚えている」と云われた。

その記憶力はすごいものだと思ったのはマツリなどに出る供えものだ。

2年前に話してくださったことを思いだしながらミト川に架かる橋の袂を掃除していた。

ここは通り道。

カッチンの葉が落ちる。

雨が降って濡れたら滑る。

そう云って落ち葉を箒で払って掃除していた老婦人。

カッチンは一般的にホオ(朴)と呼ばれる木だ。

かつてはホオの葉で包んだ俵型のオニギリを作っていた。

山の弁当だと云う御供は神社に供えていたという。

婦人が今年も話してくれた御供の一つ。

かつてはヤマノカミのボタモチがあったそうだ。

サイの目に刻んだトウノイモの頭を「半ゴロシ」に潰す。

ウルチ米・餅米とともに入れて炊く。

こしらえた小豆餡を塗してできあがる。

亥の子の日に作って食べるイモボタのような作り方だ。

亥の日に山の神に供えるから「ヤマノカミのボタモチ」と呼んでいたのであろうか。

(H27.12. 6 EOS40D撮影)

小林町杵築神社の新嘗祭

2016年08月23日 08時26分34秒 | 大和郡山市へ
前月の28日、農小屋に伺ったHさんは、この年の秋のマツリを終えて当屋になる。

そう話していた大和郡山市小林町は旧村。

杵築神社のマツリに古くから伝わる翁面を抱えて男性はお渡りをしていた。

小林町の座は左座と右座がある。

両座とも長老の一老、二老、三老が就く。

男性は左座の三老でもある。

務める二役同時の初行事は収穫したお米を氏神さんに奉納して豊作の実成に感謝する新嘗祭だ。

この年は座中の都合もあって参列者は例年より少なくなったが、小林町では必ずと云っていいほど婦人たちも就く。

就くと云っても神域内には入らずに参籠所中央で待つ。

始めに修祓。

拝殿は神饌所でもある。



献饌前に並べられた御供を祓う。

割り拝殿中央に立っていた座中の婦人らにも祓ってくださる。

小林町の氏神さんを祀る神社は杵築神社。

創建は明らかでないが、杵築神社は平成25年度に造営事業が行われ、本殿、参籠所などはすっかり新しくなった。

それまで掲げていた神社の絵馬のうち、何枚かは修復された。

その一枚は拝殿上に掲げている。



平成3年10月に当家が寄進した絵馬は美しい姿で同じ場所に再掲された。

天の岩戸開き神話を描いた絵馬。

アマテラスオオミカミがお隠れになった岩戸が開かれ、アメノウズメが鈴をもって踊っている様相であるが、絵馬の額にはたくさんのクギがあった。

時期は不明だが、どうやら額を張り替え補修されたようだ。

元々あった額には寄進した年代記銘があったと思われる。

本殿に割拝殿、参籠所などは造営事業によって建物は綺麗になったが、古くからある灯籠は残された。

その灯籠に刻印文字があった。

本殿と参籠所の間に建つ灯籠は「奉寄進 御寶前」、「貞□」の刻印が見られる。

「貞」の文字がある年代はそれほど多くない。

直近であれば「貞享」。

それ以前であれば「貞治」。

1362~年代に遡る。

そこまではいかないと考えるのが妥当な線。

拝殿右に建っていた「奉寄進 御寶前」の刻印がある灯籠は、貞享(1684~1688)年代に寄進・建之されたと考える。

その判断とした推挙は併設する真言宗派の新福寺のことだ。

現在、建て替え中の真言宗豊山派新福寺・観音堂がある。

昭和43年の屋根瓦改修の際に発見された棟札によれば、本堂は元禄九年(1696)に上棟された。

上棟大工小泉六兵衛・新五郎および法隆寺傳兵衛・九兵衛、龍田忠兵衛によって建て替えた証しの上棟札が残されている。

杵築神社に寄進された灯籠年代とほぼ一致するのである。

近い年代に神社・本堂を再築した可能性がある杵築神社とともに位置する神宮寺であろう。

祝詞奏上、玉串奉奠の次は撤饌。

玉串奉奠もそうだったが、宮司の計らいで座中の婦人たちは玉串もするし、撤饌もする。



大きく育った孫まで手伝う村行事にほっこりする。

御供は洗米、お神酒(新穀祭の場合ははシロザケ)、餅、魚、玉子、海藻、野菜、果物、塩、水の十品が基本形。

魚、海藻、野菜、果物は年中行事によって若干異なる。

そのあとは直会。



いつもの通りに左座が座る参籠所に右座も同席してお神酒のシロザケをいただく。

右座が座る参籠所には修復されたうちの三枚の絵馬を掲げている。



一枚は年代不詳の合戦図絵馬。

もう一枚は迫力ある絵で描いた明治21年9月14日に寄進した虎退治絵。



戦国武将の加藤清正による虎退治が描かれ絵馬。

子どもたちのリーダー格とみられる12歳の「童首」以下、数十人の男女が連名で奉納していた絵馬だ。

調査した奈良民俗文化研究所の鹿谷勲代表によれば、旧村小林では、50年ほど前まで「ドウ(童)のあがり」として、12歳の少年が中心となって集落を回り、お金を集めて絵馬を製作。秋祭りに奉納する習慣があった。明治21年の絵馬は現存する最古の事例では・・という。

もう一枚は「奉納御寶前 天保四年癸巳(1833)歳八月九日當邑」の文字がある。



武者の二人が馬に跨っている駆馬。

その状況を見ている数人の姿がある。

その中に童の姿もあった。

(H27.12. 6 EOS40D撮影)

荒蒔當家渡しの日

2016年08月22日 08時37分48秒 | 天理市へ
一昨年は3週目辺りの土曜日だった。

昨年は数名が奈良マラソンに参加する関係で7日の日曜日だった。

今年はいつになるのか。

気になっていた。

日程が決まったのは12月初めに行われた「あからがしら」行事のときだ。

行事を終えていつもの直会。

その場で決まった當家渡しの日は5日の土曜日だ。

かつての當家渡しの日は固定日の12日であった。

いつしか集まりやすい土、日曜日に替わったのである。

日の出が昇った数時間後に集まる神社関係者。

勝手神社の清掃作業から始まる。

神社裏側から聞こえるチェーンソーが木材を伐りだす音。

「あからがしら」行事の日までは今回の作業は含まれていなかった。



前日は歩くことも困難な強い風が吹き荒れた。

地域によれば風速に違いはあるものの天気予報が伝える風速は台風並みだったか。

気温は13度。

丸一日が冷たく強い風が吹き荒れる寒い日だった。

荒蒔の神社関係者がいうには赤い実をつけた大木が強風に煽られて倒れたそうだ。

南西から北東に流れた強い風が大木をなぎ倒した。

本来なら倒れることもない大木は何故に倒れたか。

根元辺りが腐っていたというのである。

風向きが逆ならば神社側に倒れる。

本殿などの屋根は破壊されていたことであろう。

倒れた大木はモチの木。

ある程度の長さに切断して神社の森に運ぶ。



大晦日から元日にかけては境内でトンドを燃やす。

その時に使う薪になった。

この写真に写る小さな赤い実がモチノキの実。



大きい方は赤いタマゴではなくカラスウリ。

スズメウリはこれよりもっと小さくて丸型だけど赤くなったものは見たことがない。

神社の清掃は参籠所、本殿、お堂関係の屋根に積もった枯れ葉落としがある。

トユに積もった枯れ葉は少ないようだ。

若い人たちは境内からひっぱりあげたホースを伸ばしていた。

出水したホース水で流す。

詰まってはいなかったようだ。

道路に面する処は掃き掃除。

それぞれが分担して作業を終えた。

それから始まる當家渡し。

以前はここへ次の當家に當家箱・衣装等を引き渡ししていた。

近年は神社に持ち込むことなく現當家から次當家の家から家に運ぶようになったと話す。

當家渡しの日は会計報告の日でもある。

宮座の収支費用の検証は関係者一同で行われる。

次の議案は補修の件だ。

何年か前までは参籠所の前に大杉がそびえていた。

これもまた、今回と同じように根元が腐って倒れた。

その後において狛犬さんを移設した。

年月が経つにつれて西側に建つ狛犬さんは徐々に斜頸するようになった。

原因は埋もれていた大杉の根腐れ。

空洞ができてそこに荷重がかかる。

それで傾いたというのだ。

狛犬さんは、いずれ倒れてしまうであろう。

危険な状態は補修を要する。

事業者に頼んで補修する方向性が決まった。

いっそのこと、である。

これまで懸念していた課題も解消しようということになった。

鳥居下や的場さんの傾いた石段がある。

補修場はそれだけだが、あらたに持ちあがった二本の大木。

今回、倒れた側の反対側。



西に立っている巨木はモチの木に大杉。

この大杉も枯れつつあるらしい。

風向きによっては本殿を破壊するおそれもある。

様々な課題はいずれも神社を守ることだ。

貯めていた神社費用はこういうときに使うものだと承認された。

業者に見積もってもらってから検討するようだ。

その次の議題は年末、年始の神社行事。

決まっている日もあるが、なにかと準備が要る。

それらの作業は神社五人衆の役目。

竹の伐りだしや藁の調達、作業場、「">ドウガイ」注連縄作りに飾り物もあれば年始の弓矢作りもある。



村の初集会にトンド焼きもある。

(H27.12. 5 EOS40D撮影)

出口は遠くなりにけり

2016年08月21日 08時20分08秒 | むびょうそくさい
数週間前は循環器内科の診療・検査。

来週には処置をするために入院する。

では外科内科は・・。

で、この日も診察。

退院後の通院診察は5回目になった病院の駐車場はグルグル上昇して屋上までになった。

ここの駐車場が指定する「軽」はやすやすとバックで入れられるが、ドアを開けたら側壁にあたる。

キズがつくぐらいの狭さに往生する

。仕方ないから助手席側の幅寄せをぐっと縮めたら運転席側から出られる。

診察前の検査は常に血液検査だ。

今回は何を医師に伝えてくれるのだろうか。

気になる検査の本数は3本。

なんとなくいつもと違うように感じた午後1時50分。

診察呼び出しまで1時間以上も待たなければならない。

その時間はある程度わかる。

血液検査で受け取った受付表に結果が出る時間を書いてあった午後2時18分。

待つしかないのだ。

椅子にもたれてガラケーをいじくっていたらいつの間にか深い眠り。

40分ほどであろうか。

目が覚めてもやはり椅子だった。

あまりに退屈な待ち時間に計測した血圧計は113-68だった。

フツーに戻っているのは血圧だが、脈拍は異常なままの101拍。

家で計測しても3桁脈拍。

なにごともなかった時期からみればおよそ2倍だ。

なんとかしたい。

その思いは来週の入院で結果がでることだろう。

呼び出しがあった時間は午後2時10分過ぎ。

予定より早くなったが、即座ではなく、診察室の前でまだ待つ。

次の診察を受ける人も呼び出された。

その人の顔を見るなり「アレー」である。

親父さんの付き添いで来ていた女優森尾由美似のHさんと顔を合わせるのは実に5年ぶり。

勤務していた市民交流館時代のお客さんだ。

親父さんも存じている。

親子ともども定例的に利用してくださっていた。

私は、といえば5年前にお払い箱になった身。

お会いすることもなかったが、まさか病院で出合うとは・・・である。

ちなみにHさんの印象といえば愛娘を乗せた自転車で走っていた姿だ。

その娘も大きくなって高校生になったという。

母親似の娘さんはたぶんに間違いなく美人になっているだろうと思う。

ゆっくりと話すこともなく呼ばれた診察室に入ったのは午後2時20分だった。

今回の血液検査の目玉はメモグロビン。

しゃれっ気でそう呼んだ・・。

数値が異常に低い7.7。

前回の11月17日に受けた検査結果は8.3だった。

今回はさらに低くなっていた。

お薬は当院の薬剤を服用願いたいと話す医師。

原因は掴めていない。

前回のときは、出血量が少なかった内痔出血。

何年か前に発症したときは歩くことも困難だったヘモグロビン値。

当時の数値は覚えてないが、なんとなくだるいと感じるのはヘモグロビン値の関係だと思うが、出血は見られない。

出血でなければ、何故に低いのか。

医師も判断できないヘモグロビン値を上昇するには薬剤の服用しかないようだ。

薬剤はまたもや増えた。

ヘモ薬剤のフェログラデュメットは朝、晩の食後に鉄分補給薬を服用するが、但し書きがある。

食事の前後1時間は、お茶、コーヒー飲用は厳禁ということだ。

ちなみに前回の血液検査でまだ結果が出ていなかった手術時の血液製剤の影響だ。

前回の結果ではHIV検査結果だけが出ていた。

何も問題は見られなかったとくことだ。

残りはさてさて・・であるが何もない答えにほっとする。

気になるニュースがある。

昨日だったか、気になるニュースが飛び込んできた。

我が家ではなくテレビや新聞報道である。

ニュースによれば「財団法人 化学及血清療法研究所」による血液製剤などの不正製造である。

長年に亘って、国から承認された手順と異なる製法を採用して製造していたというのだ。

私が手術とのきに使われた血液製剤は(略)化血研が製造したものであるのか、ないのか、である。

医師に尋ねても、判らないという。

国内製造の30%が化血研製造とされる情報もあるらしい。

アタリ確率は1/3だ。

なんともいいようのない不正。

いつから始まったのか判らないが、昨今は不正、不正のニュースばかりでうんざりする。

で、次回の診察日は・・。

入院する循環器内科の結果次第だと云う。

退院はいつになるか判らないが、その時に決められる医師に従ってくださいということだ。

めげる診察結果に出口は見つかるのだろうか。

(H27.12. 3 SB932SH撮影)

疋田町三輪神社正月迎えの注連縄作り

2016年08月20日 09時31分41秒 | 奈良市へ
朝8時に集まって正月迎えの注連縄を作っている奈良市疋田町の座中。

一番太い大サイズはご神木と三の鳥居の二組。

長さは4メートルにする。

二番目に太い中サイズは神域入口の一の鳥居(6m)、拝殿前の(右)檜、二の鳥居西側の灯籠、神饌所および拝殿入口のお飾りなど五組。

細縄程度の小サイズは神域内灯籠、神域入口の一の鳥居、神饌所前四つの灯籠、拝殿前二つの灯籠、二体の狛犬、社務所、倉庫、境内杉、手水鉢建屋/灯籠、下馬石、三の鳥居前灯籠、大池川灯籠、旧手水鉢など、14組にもなる。

注連縄の原材料は藁結いがし易いモチワラ。

品種は早稲のアサヒモチ。

アカモチの5束もある。

餅米のアカモチは穂先が赤いからその名がついているという。

いずれも座中一番の長老の一老が耕している田の稲を刈り取って用立てをしている。

大量に持ち込まれた藁束。



作業は藁打ちから始まる。

横槌で叩いて藁を柔らかくする。

それからシビを取り払いのける。

藁打ちと並行して作業も始まった縄結い。

年齢で分けているわけでもなく、できる作業をめいめいが判断して分担しているという。

疋田町を始めて訪れたのは平成26年12月25日だった。

県内事例の簾型注連縄調査に立ち寄った。

拝殿前に門松を立てて、その中央に簾型の注連縄を飾っていた。

その注連縄は「御前飾り」。

神さんの前に架けることからそう呼んでいると話してくれたのは最長老の一老だった。

「御前飾り」など、その他、多数の注連縄は12月2日に行っていると聞いていた。

その言葉を頼りに再訪すれば顔を覚えておられた。



ベテランの人たちがベテランの技で縄を結う。

昨年に作った注連縄の見本もあったが、「ワシが見本や」と云ったのは昭和元年生まれの一老だ。



一年ぶりにお会いした一老は、そう云いながら縄結いに熱中していた。

一本の縄が出来上がれば飛び出した細かい藁を拭い取って綺麗にする。

手にしたのはシビ取りしたシビだ。



一束のシビを掴んで縄面を上から撫でるように下ろす。

利用したシビは袋に入れる。

シビで膨らんだ袋は座布団にする。

この座布団に座ればお尻が温かい。

技やコツもあるが、無駄にしない再利用までを教えてくださる一老の作業っぷり。

いつまでも元気な姿で座中の十人衆のお手本になる動きを見せてくださる。



結った細縄は七・五・三の脚を付けて、昔懐かしい五徳のような形にする。

県内でこうした注連縄はどこでもしているわけではない。

私が訪れた処でもごくわずかだ。

細い縄で作るからゴンボという呼び名もあるが、五徳のような形をしているのは、だいたいがコジメと呼んでいるような・・・。

藁束を継ぎ足す方からみて「の」の字のように・・・。

受け手の方からみれば、これもまた「の」の字だ。

逆方向に捩じるので「ヨリ」は戻らない。



そう云って受け手になった一老は指示もしながら力を込める作業もある。

「ここをこうして「の」の字に拠っていくんや。それでな、拠った綱をな、こう曲げていくんや。1回、2回、3回、4回・・これぐらいでいい。そうしたらな、藁束をここに継ぎ足すんや」と作業の仕方を二人の継ぎ手に伝える一老。

「継ぎ足すのんはな、ここを割って、ここに挿し込むんや。それから「の」の字に何度も捩って強くするんや」と、細かい部分までも指導される。

綱を捩る際には三人の呼吸合わせがいる。



「せーの、よっ」、もひとついこか、と「せーの、よっ」でもう一回。

継ぎ手からみれば太くした綱は「の」の字に撚りながら反時計廻りに交差させて相方の継ぎ手に廻す。

これの繰り返しであるが、調子がでるまで若干の時間がかかる。

どこでもそうだが、始まりはいつも思いだせずに難儀する。

何度か休憩を挟んで太い注連縄がほぼできあがった。

これは一の鳥居に架ける長さが6メートルもある注連縄だ。

藁打ち、シビ取り、縄結い、綱結いなど身体をつかう作業であっても冷める。



トンドの火で暖めて再び作業に移る。

太い綱で二本撚りした注連縄はさらに太くする。

もう一本の藁束を挿し込んで撚っていくのだ。



残りの作業を経て作った太い注連縄は鋏で刈り込んで綺麗にする。

最後に仕掛けた作業が「門前飾り」と呼んでいる簾型の注連縄作りである。

適当な長さで伐ってきた青竹は実態に合わせて切断する。

飾る場所は拝殿前の両狛犬の場である。

狛犬の土台中央辺りに印を入れる。

垂らす縄の長さも実測する。

測った青竹は境内に移動して水平に保つ。

藁は5本ずつ。

縄結いの人に手渡して巻き付けていく。

当初は5本ずつであったが、なんとなくしっくりしない。

こうして、あーして、巻いて、締めつけて、次の5本・・・となるのだが、調子づかないのだ。

こんなもんやったかなと云いながら作業をすすめるが、しっくりこない。

ちょっとおかしい。

疑問が湧く縄結い。

昨年は偶然にできたのかどうか判らないが、なんとも思わず進展していた。



今年の縄結いに違和感をもった座中は長老の一老に助けを呼んだ。

「だいたい、こんな高い処でやったら感が狂う。垂れの長さがあるので、座ってできるぐらいの位置が良い」ともいう。

「それより、本数は5本でなくて3本や」という。

5本であれば巻く距離があるので早く済む。

効率を考えて、そうされたが一老のアドバイスは3本。

隙間があった方が良いという。

「他にもいろいろあるが、おまえらがそれでやり易いというなら、そんでえぇ、経験がものをいうことだ」と語りかける。

調子を掴めばあとは順調に進んでいく縄結いである。



門前飾りの垂れの長さは30cmと決まっている。

縄結いするときはその長さを考慮しておよそ40cmにしておく。

長さを測るモノサシは木製だ。

木製といっても正味の枝である。

垂れに沿ってモノサシをあてるが、その場では先端をまだ切らない。

トンドの火にあたって座っていた長椅子の処に運ぶ。

長椅子の端に合わせてモノサシをあてる。

長さ30cmのところに鋏を入れる。

向こうの反対側もモノサシをあてて鋏を入れる。

切った両端を長椅子の辺に合わせる。



動かないように青竹で抑えて鋏でジョキジョキ。

こうして出来上がった門前飾りは、雨に当たらないように倉庫の軒下に吊るして保管しておく。



門前飾りの最中に話してくれた他所の簾型注連縄がある。

生駒市の乙田町、新興住宅地の萩の台があるところの神社に同じような注連縄があるらしい。

話しの様相から、壱分町の往馬大社のようでもあるような、ないような。

乙田町であれば金毘羅神社(※かつては中尾神社と呼ばれていた)であるかもしれない。

朝8時ころから始めた疋田の注連縄作り。

4時間かけてようやく出来上がった時間帯は丁度の正午。

拝殿の間に設けた場で慰労の食事会。



乾杯を済ませて美味しい食事をいただく。

(H27.12. 2 EOS40D撮影)

荒蒔勝手神社のあからがしら

2016年08月19日 10時19分53秒 | 天理市へ
「あからがしら」と呼ぶ行事がある天理市の荒蒔。

祭事の場は勝手神社だ。

奇妙で不思議な呼び名の「あからがしら」とは一体、何ぞえ、である。

度々、訪れる荒蒔の村行事に村人誰一人も知らないとう謎めいた神事は午後1時から始まる。

集まる人たちは神社五人衆に當家、氏子衆。

この行事のお供えは予め神饌所に並べられていた。

始まる直前に無理を云って撮らせてもらった。

前列は6枚の折敷に盛った蒸し餅米。

小豆を入れて作った蒸し餅米はセキハンと呼んでいる。

うち4枚それぞれには柳の枝で作った箸を添えている。

蒸し餅米は10月1日の朔日座にも供えるが、セキハンではなく白飯だ。

また、1月12日に行われるケイチンの御供も蒸し飯ではなく、粳米の炊きご飯である。

もしかとすれば、このセキハン御供の蒸し餅米が「あからがしら」と呼ぶのだろうか。

お供えは巻き昆布、スルメ、チクワもあるが、もう2品ある。

一つはクロメである。

クロメは1月10日のカンジョウカケや1月12日のケイチン、10月1日の朔日座にも登場する。



もう一品は皮を剥いだ生のサトイモに白大豆を煮てすり潰したものをちょこんと乗せている。

このすり潰した白大豆を「ユキ」と呼んでいる。

もしかとすればこれが「あからがしら」ではないだろうか。

荒蒔の年中行事のなかで、この日の「あからがしら」行事にしか登場しない御供である。

シリーズ「てんりの昔ばなし」に天理市岩屋町の「あからがしら」がある。

要約すれば「その昔、岩屋町の山奥に「あから」と呼ぶ不思議な獣がいた。ある年の旧暦11月1日(現在の12月1日)、山奥に住んでいた「あから」が里に下りてきた。「あから」は、岩屋から石上(いそのかみ)の川を下って櫟本(いちのもと)から田部、上総(かんさ)、指柳(さしやなぎ)、喜殿(きどの)、六条、八条を越えて大和郡山市の額田部まで。川筋にあった野のものを食べ尽した。そんなことがあった村々では、「あから」が暴れないように「あから」の頭(かしら)などを供えて祭っていた」である。

荒蒔のお供えにサトイモがあった。

サトイモはカシライモとも呼ばれることが多い。

大きなカシラライモ(頭芋)に子株がたくさんつく。

子孫繁栄を願って御供にする地域がある。

サトイモの茎はズイキの呼び名がある。

そのズイキには色から云って赤ズイキと青ズイキがある。

推測であるが、この「赤ズイキ」のカシライモが「あからがしら」ではないだろうか。

そういえば顔が火照ってほっぺが赤い顔を「あから顔」と云う場合がある。

暴れる獣と「あから顔」とは一切の関係はない。

とにかく何?である「あからがしら」。

昔話に登場する襲った獣は何である。

村々が育てたカシライモを食い荒らしまわった獣はたぶんにイノシシ。

決して顔は赤くはないが、「赤いカシライモ」が植わっている畑を食い荒らす名人を例えてイノシシをそういう名で呼んだのだろうか。

「あからがしら」行事に特別な所作はない。



神職は登場せず、村神主が参籠所に座っている村人に修祓をするだけだ。

尤も、神饌は順番に並んだ氏子たちが手渡しで社殿に供える。

勝手神社は四社ある。

二社が坐ます中央本殿。

東ノ大宮が勝手社。

左の西ノ大宮は子守社である。

本殿の他にも小社がある。

東ノ小宮は石上社。

左手の西ノ小宮は葛社。



本社、小宮のそれぞれにセキハンと呼ぶ蒸し餅米を供える。

小宮には見られないが、本社には柳の木で作った箸を添えてある。

一方、同時並行で供える処がある。

参籠所の左手に建つ観音堂。



拝殿前に建つ「ジュウラク(ジュラシキの名もある)」にも供える。



「ジュウラク」は「ジュラクサン」とも呼んでいる。

「ジュウラク」の言い回しから推定するに「じゅうらせつにょ」であると考えられる。

奈良市中畑町に毘沙門堂がある。

本尊が安置されている本堂に脇侍仏がある。

村の人が云うには、それは子供の守り神として信仰される「ジュラクサン」だ。

鬼子母神とともに仏説法に接し、法華行者を守る眷属として仕えた十羅刹女である。

中畑の「ジュラクサン」から類推するに、荒蒔の「ジュウラク」も十羅刹女とするのが妥当ではないかと考えたが・・・知る人はこの場にいない。

献饌はされたものの、しばらくの間は御供下げをしない。



頃合いを見計らって下げるのである。

一同揃っての拝礼もなく神事を終えたら直会に移る。

いつもと同じようにスルメ一匹にチクワのセット。

昆布は鋏で切り分ける。

お神酒を注いで乾杯だ。



「あからがしら」行事を終えた後日に近々の行事がある。

一年間も當家の役目を務めた家は次の當家に受け継がれる。

それを「當家渡し」と呼ぶ。

いつにするかは皆で決める。

この年は土曜日の12月5日に決まった。

その日も直会がある。

年に一度は豪華に直会をしてみてはどうかと意見が出て協議する。

結果は大和郡山市八条町にある鰻料理で有名な「綿宗(わたそう)」だ。

「綿宗」は天理市の二階堂の街道(古来は下ツ道)沿いにある老舗店。

意見が決まれば早速の手配。

次の當家になるご仁は電話を架けてセッテイングされた。

(H27.12. 1 EOS40D撮影)

大起水産サービス券で寿司を食べる

2016年08月18日 10時28分22秒 | あれこれテイクアウト
年末が近づくころになると顧客登録されている大起水産からサービス券が送付される。

今回もまた、500円券が2枚。

合わせたら千円になる。

引換券みたいなものだからお店に出かける。

お目当ては500円ぐらいのパック詰めにぎり寿司。

500円なら2杯も買える。

「買える」というよりも「換える」漢字を充てるほうが正しい言葉遣いのように思える。

品定めのなかにはお目当てのパック詰めにぎり寿司は商品棚になかった。

諦めかけようとしたが千円ジャストのにぎり寿司がある。

あなご、エビ、生イカゲソ、サーモン、タコ、イカ、マグロの7種類。

いずれも3個ずつ入っている。

我が家は3人。

丁度いい数量である。

それだけでは足らないかもしれないと思って追加のお寿司はどれにするか。

真っ先に選んだのは巻き寿司。

いろいろな種類があったが350円のマグロ巻きにした。

もう一つの追加は150円のいなり寿司。



合計締めて税込1500円。

お安いにぎり寿司は我が家の昼飯。

テーブルに広げて「いただきます」だ。

どれもこれも美味しかったがタコだけはアカン。

乾燥しているのだろうか、シガシガだった。

若干の不満はあるが、大起水産の年末贈りものはいつもありがたくいただいている。

なお、この日に買った大きな大きなかき揚げ。

特別に作ったようなかき揚げ。

初めて見たときは驚いたものだった。

大起水産に来ればついつい買ってしまう大きなかき揚げは翌日の我が家の昼食メニュー。



どんぶりいっぱいなったかき揚げ丼が旨いのである。

(H27.12. 4 SB932SH撮影)
(H27.12. 5 SB932SH撮影)

プライスカット天理北店のお値打ち!和風満喫弁当

2016年08月18日 10時23分52秒 | あれこれテイクアウト
高樋町の取材を終えて荒蒔へ着く間に昼食を摂る。

始まる時間までに着きたい。

そう思って高樋町の直会の様相を撮ることは諦めて天理街道を目指す。

どこでもいいのだが買いやすい、食べやすいスーパーは幾度も利用するプライスカット天理北店。

とにかくお安い弁当で、素早く食べられる弁当を選ぶ。

いきなり目に入るのはお値段だ。

その弁当の値段は税抜きで281円。

中途半端な値段である。

弁当の名前が面白い。

そう思って即決した弁当は「お値打ち!和風満喫弁当」だ。

停めていたプライスカット天理北店の駐車場でいただく。

蓋を開けたらすぐに箸で摘まむ。

味付け山菜を盛った鶏ごぼうご飯を手始めにおかずもいただく。

チーンをしている時間がなかったからご飯は冷たい。

箸で摘まめば塊で上がってくる。

口に入れる。

冷たいが味は好みである。

最初のおかずはどれにするか。

ためらうことなく煮物のニンジン。

なんと一切れしか入っていない。

なんとか味が判る程度に煮物だった。

その下にあるのはうずら豆。

これも煮物であるが甘煮だった。

甘煮ではあるが、ゆるーい甘さなので食べやすい。

うずら豆の数は3粒だった。

次も煮物の四角く切ったコンニャクの塊。

しっかりとした味である。

次はチクワの磯辺揚げ。

天ぷらのように見えるが天ぷらのようとも思えない複雑な味。

とはいっても美味しくないというわけではない。

要するに冷たいのである。

次は焼き鮭だ。

塩気はまったくない鮭は脂がのっている。

小骨があるからガツンと口に入れるのは危険だ。

一口、一口を確かめながら食べる焼き鮭。

舌の先に感じた骨を取り出す。

その間に食べた味付け山菜。

じわっと口のなかで感じる味に満足しながら次のおかずに移る。

白身魚のフライである。

これもまた冷たいから味が判らない。

ほかほか弁当の鮭弁とは比べようがない白身魚は不満。

比較したうえでの味加減なので申し訳ない。

玉子焼きはぱくりと一口。

生姜味が利いた鶏団子で〆た。

食べ終わってもう一度商品名を見た。

たしかにお値打ち品であるが、満喫はしなかった。

ちなみにこの弁当は和歌山件岩出市にある藤本食品製。

オークワ系列はここに委託しているようだ。

本社工場で製造した弁当は関西各地のオークワ若しくは系列店のプライスカットに配送される。

できることならチーンしたほうが望ましい。

ところで貼ってあった商品シールには食品表示があった。

特に気にしなくてはならないのが食塩含有量だ。

この商品はNa1644mgの表記だった。

塩分量に換算すれば4.1g。

ざっと、の数値である。

これの計算方法は単純計算。

ナトリウム表記であれば400で割ればだいたいが判る。

(H27.12. 1 SB932SH撮影)

高樋町春日神社新嘗祭の注連縄掛け

2016年08月17日 09時30分03秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
毎年の12月1日に新しく注連縄を架けると聞いていた奈良市高樋町。

架ける場は春日神社の拝殿である。

この日の早朝に集まった神社役員、自治会役員らが隅から隅まで綺麗に清掃する。

落葉が激しい銀杏の大木。

下にある大師堂の屋根に積もる。

氏子たちは屋根に登って丹念に掃いていく。

場合にとってはブロアーで吹き飛ばす。

昨今はこうした清掃道具を用いることが多い。

一方、社務所の屋根に積もった落ち葉は土混ざりで掃き落とすのも力が要る。



滑らないように足場を固めるが、恐る恐る、だ。

湿り気がある落ち葉に足をおけば、つるっと滑るから慎重さが求められる。

落下した黄色い葉っぱに埋もれた樹木周り。

びっしり積もった葉っぱをブロアーで吹き飛ばす。



地面だけではなく、杉の葉が伸びた垣根に積もった黄色い葉っぱは侘しくも美しい。

その場は近寄るだけで、その存在が判る銀杏の実がある。



独特な匂いが境内に漂う。

12月初旬のころから落ち始めた銀杏の実を拾い集める人はだれもいない。

この日もそうだった。

高い処で伸びる葉っぱは高枝鋏を用いて伐りとる。

力は要るし、腕や顎も怠くなる。

長時間の作業は耐えられない。

この高枝鋏はアタッチメント式。

先にある鋏を鋸に切り替えた。



頭上あたりから飛び出している枝を伐採する。

鋸の刃はキレが良い。

太い枝であっても、すぱっと切れる。

切れ味抜群が心地いいから、何度も何度も伐りたくなる。

もっと美しくと思って作業は休むことを知らない。

持ち込んだ稲藁はモチワラ。



注連縄など結う材は必ずといっていいほどモチワラである。

粳米の藁の場合は柔らかさがないし、硬い。

結い難いから嫌われる、ということだ。

それはともかく神社清掃中に注連縄作りが始まった。

何人かは細縄を結う。

藁打ち、シビ取りは予めしていたモチワラは細縄で括って束にする。



手前左手にある太い注連縄はこの日の朝まで掲げていた。

一年間に亘って守ってきた注連縄を参考に今年の注連縄を作っていくのである。



注連縄を作り始めてから1時間。



ようやくできあがった。

結った注連縄は荒々しい。

飛び出している藁は鋏で刈りとって綺麗にする。

ここまではどこでも見かける鋏刈りだが、高樋町はそうではなかった。

抱えた注連縄は集めた塵などを燃やしていたトンドの真上に翳したのだ。

作りたての注連縄は燃やしてしまうのか。

そうではない。

鋏で刈り取った注連縄は、さらに磨きをかける。



もっと美しく、ということで飛び出た細かい髭のような藁を焼くのである。

この日から一年間に亘って守り続ける注連縄ができあがった。



見本の役目を終えた古い注連縄はそれこそほんまにトンドに投げ入れて焼納される。

そして、だ。

紙垂れを4カ所。

挟みこんでから割拝殿に吊るす。



これぐらいでえーかとか云いながら、みんなに見てもらって調製した。

新しく架け替えた注連縄を潜って本殿前に上がる高樋町の氏子たち。

つい30分ほど前までは注連縄作りをしていた。

服装は着替えることもなく、作業をしていたときの服装で参拝する。



この日の神事は新嘗祭。



特徴といえばお供えの新酒である。

この年に収穫された酒米で醸造したシロザケ(にごり酒)は神社庁指定の白酒。

平成13年度より神社庁が委託された蔵元は御所市の葛城酒造。

奈良県内神社はどことも同じだと思う。

新嘗祭に相応しい白酒は商品名が「百楽門(濁酒)」の名で一般販売されている。

春日神社の本殿下に建つ灯籠(左)に「今宮大明神 奉 寛文拾二年(1672)十一月吉日 □□」の刻印がある。

寄進年代は見られないが、この場にもう一本の石塔にも「今宮大明神 常夜燈」があった。

現在は春日神社の名になっているが、300年前は「今宮大明神」だった。

右の灯籠は「□□(※寛文であろうか)壬子八月吉日」だ。

「壬子」から推定するに寛文十二年に違いない。



さらに一段下がった処にも灯籠が建つ。

灯籠は丸支柱。

「雨願成就村中」の刻印がある。

その横に建つ灯籠(右)に「大□(正)十三年八月 春日神社 祈雨満願」の刻印があった。

2塔は刻印が物語るように雨乞いに祈りを捧げた結果、雨が降った満願成就を記念に建てた碑である。

(H27.12. 1 EOS40D撮影)