マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

一週間前に終わっていた亥ノ子行事

2016年08月16日 08時47分56秒 | 桜井市へ
ゲゲゲのきたろうである。亥ノ子行事は一週間前に終わっていたのだ。

平成19年にノグチサン行事を取材した折に拝見した箸中区の資料で知った亥ノ子行事。

場所はといえば度々訪れる桜井市の箸中である。

当時、務めていた総代の話しによれば2、3年に一度は嫁入りの家がある。

そういう目出度い祝いの家があれば・・とのことであるが、当区では亥ノ子行事をしてきたというのだ。

当時からも地区に住む子供は減少していた。

嫁入りの家があれば・・ということだが行事の主役は子供にある。

当区の資料によれば亥ノ子行事は神當祭の一つであるようだ。

稔りの秋に収穫した稲。豊作に感謝し氏神さんに新穀を供える。

村人は秋の労苦を労って一日の農休みをとる。

これが「亥ノ子」と呼んでいた。

この亥ノ子行事は上・下垣内にはなく、中垣内だけにある行事だった。

夕暮れどきである。

嫁さんを貰った家、或は婿養子をとった家があれば、子供がその家に出かける。

家の前で子供たちは地面を藁棒で叩く。

叩くときの台詞がある。

「亥の子の晩に餅のつかん家は煎茶のどんぶり粥、嫁さんと婿さんとさねててかへ、起きててかへ、新米藁を祝たろわ」と囃す台詞だ。

この作法は何度も何度も繰り返す。

そうすれば当該のお家の人が出てきて「ご苦労さん」の言葉をかけながらお菓子を手渡す。

県内の数か所で今も見られる村の亥ノ子行事の作法である。

これまで何度か実施状況について問い合わせしていた。

その資料をあらためて拝見した平成25年。

新婚家庭が何年も続いていないといって実施はされていないようだった。

何年か経てば・・というようなことを聞いていた。

もしかとしたらと思って氏神さんを祀る国津神社に立ち寄った。

ここでは毎月の会合や行事予定が書かれている。

実施されていないときは記入されない。

ノグチサン行事もそうだった。

近づいてみた月間表に「亥ノ子」が書かれていたのである。

新婚の家があったかどうか、不明であるが、どうやら実施されたもようである。

件の亥ノ子を聞いていた元総代家を尋ねる。

久しぶりにお会いする婦人。

奥から旦那さんが現われた。

耳は遠くなったが、矍鑠とされている当主。

畑にハクサイやダイコンがあるから引き抜こうと云われてついていく。

この場から氏神さんが鎮座する地を見渡し眺める。



小山のように見える場はホケノ山古墳が手前にある箸中山古墳だ。

ホケノ山古墳の発掘調査があった時代は16年前の平成12年。

二人の幼き我が子の手をひいて現地説明会に来たことがある。

当時はカメラでなくビデオ撮りだった。

収録したビデオはどこにいったか不明であるが、日差しがキツい春日和に汗が滴り落ちたことだけは覚えている。

別ルートから「今後の数年間は対象年齢の子どもがいなくなるからノグチサン行事は当分の間見られなくなる」。そう、伝えられていた行事日はFIXしていた。

が、である。突如において発症した呼吸困難に入院加療や心臓手術で行けなくなった。

その思いもあって再訪した箸中の現状は今後も気にかけておきたい。

それはともかく当時の発掘に関わった村の代表者が元総代だった。

駐車場からすぐ近くに畑がある。

このころもあんばい身体がようなっていない。

歩きは無理だから軽トラに乗ってき、と云われて同乗する。

そこから直線距離にして200メートル。

真新しい一輪車を操作して畑に向かう。

ここら辺りもイノシシ荒らしが多い。

柵をこしらえていても穴を掘って入りよるという。



引いてくれたのは抱えるのも難儀するぐらいに重たいダイコン。



金時ニンジンに西洋ニンジン、ハクサイまで引いてくれた。



家では食べきれないから、こうして客人が来ればあげているというご主人は出入口にあったブッロコリまで引いてくれた。



ちなみに夫妻はイノコノモチツキと呼んでいた。

嫁さんをもろた家に出かけて藁で叩いていたそうだ。

(H27.11.29 SB932SH撮影)

WIN8.1から強制的に作動したwin10のアップグレード

2016年08月15日 08時45分16秒 | つうしん
現在使用中のシステムはWIN8.1。

PCは今年の3月末に買ったばかりのWIN8.1。

そのころから囁かれていたWIN10。

アップグレードを勧めるメッセージは5月ころより一挙にあがった。

毎日のように催促されるメッセージは常に無視していた。

11月のいつだったか覚えていないが督促するようなメッセージになっていた。

これもまた無視していた。

今月の25日に出力されたメッセージは今すぐダウンロードするか、それとも後でダウンロードするかの2選択。

もちろん今すぐはしたくない。

そう思って「後で」をクリックした。

するとだ自動的にダウンロードが始まってしまった。

夕方の午後5時50分だ。

どれぐらいで終わるのか試しに放っておいた。

夜10時ともなればそろそろ就寝時間。

そのときのダウンロード進捗率は60%だった。

ダウンロードの容量は2620.2MBだ。

このまま進めば夜中になる。

それまで起きて対応しているわけにはいかない。

この時点でダウンロードは中断した。

翌日の26日も自動ダウンロードメッセージが出力されるが対応はしない。

病院検査が入っているからずっとつきっきりの対応はできない。

翌日の27日も出力された。

この日も病院検査があるので対応はできない。

丸一日、仕事も取材も検査もない日。

朝から夕方まで丸一日空いている日でなければアップグレード作業は避けたい。

なぜか、多分にセクションごとに発生する何らかのアクションが発生すると考えられるからだ。

28日は朝から晩まで空いている。

この日に立ち上げたPC。

見慣れた自動ダウンロードに対して「後から」を選んだ午前8時。

数日前と同じように自動ダウンロードが進捗しだした。

10時には12%。

その間に発生したエラー中断。

そこで停止しているが再開すれば続行する。

この症状は2回も発生したがいずれも再開で続行する。

ちなみにダウンロード容量は25日と同じ2620.2MBだ。

午後1時は54%。

午後3時は67%。

このときも途中エラーで中断していたが、再開続行する。

午後4時は81%。

外は暗くなってきた。

午後6時は真っ暗だ。

ようやく100%をクリアーしてインストール準備に移った。

「今から」を選ばなかったにも関わらず、しかも「後で」ということでクリックしたwin10のアップグレードは選ぶこと関係なしに作動したのだ。

午後6時45分にアップグレードに入った。

朝から動きだして10時間45分。

想定どおりの長時間作業はこれで終わることなく次々に発生する対応処置に難儀する。

マイクロソフトウェアライセンス条項について「同意」するか、しないかが出力する。

言うまでもなく「する」をクリックして始まったアップグレードインストール。

ここまでくればやり尽すしかないのだ。

「今すぐアップグレードを開始」クリックしたら「再起動しています」が出た。

ワードとかエクセル処理をしていたのに有無も言わせず始まったアップグレードだ。

「更新を構成しています」は0%から始まってWIN10の全画面になる。

その間は「コンピュータの電源を切らないでください」が出力する。

午後6時59分、「10%まで云分間・・再起動しています」と出た瞬間に画面は真っ黒。

何事かいなと思ったが続けてでた「GATEWAY」画面。

数十秒後に「WINDOWSはアップグレードしています」に「PCは数回再起動します」と出ていた。

午後7時、0%から始まって100%に達するまでは①ファイルをコピーしています、②機能とドライバーをインストールしています、③設定を構成しています、の3段階に分けて進捗する。

ファイルコピーが終わったのは午後7時20分だ。

その段階の進展率は30%。

PCが自動的に立ちあがってドライブスキャンの修復が出力した。

何事もないようだ。

機能・ドライバーインストールが終わったのは午後7時50分だ。

その間はお風呂に浸かって時間稼ぎをしていた。

午後8時ともなればそういうわけにはいかない。

毎晩の夜食タイムである。

食べている最中ににも進捗してどこまで進んでいるか判らないくなるので食事中であるにも関わらずときおり見にくるグレードアップ状況。

午後8時15分に終わった。

「WINDOWS10にようこそ」のメッセージとともに登録していた私の名前が画面にでた。

「次へ」をクリックしたら「すぐに使い始めることができます」、「簡単設定を行う」に移る。

「はじめましてCortanaと申します」が出たが、一体だれなのか。

「コルタナはいつでもあなたのアシスタトだって」さ。

何者か判らないが「Cortana」を使うことにした。

次の画面もこれまた初めて。

WINDOWSからのアプリで「フォト」、「マイクロソフト」、「edge」、「crooveミュージック」、「映画&テレビ」に対してアクテイブせずに「次へ」でスキップする。

「もうすぐ完了です」画面に移った瞬間にまたもや真っ黒。

設定選択もないのに、壁紙が変わった。

これまで見たことのない壁紙だが、何をすればいいのかすぐに判った。

マウスを左クリックすれば、パスワード入力画面に切り替わる。

パニックのときも失念しないように貼り付けてある「パスワード」を入力した。

「ようこそ」の文字が出た時間帯は午後8時20分だった。

それからの5分後、ほぼこれまで通りの画面になった。

が、である。なんとなく違う。

これまで使っていたアイコンが消えているのだ。

そういう状態であるが、ひとまずはこれにて一旦休止。

そのまま放置して食事に専念する。

身体的ガソリン・アルコールを体内投入。

精神的に落ち着ける量しか飲まない。

数杯飲んでPC席に戻った。

これもまた見知らぬアプリと思える何かが出ていた。

「AcerPortl」、「abphote」、「abfilrs」、「abMedia」、「abDoos」などが出たが、アプリは起動せずに、すべてを「×」で対応した。

ここまで午後8時28分。

作業はまだまだ続くようだ。

よくよく見ればOUTOLOOKのアイコンがない。

消えているのだ。

その替わりではないが、マイクロソフトエッジ保護の警告が出力許可されないと問題が起こるらしい。

どうやらこれはノートンの拡張機能に対してのようだが・・・。

見慣れないメッセージが出るたびにオロオロするのである。

とにかくPCはアップグレードしたようだ。

エクスプローラを開く。

これまで書き保存していたデイスクアドレスは変わっていない。

安心するのであるがファイルを開けばマイクロソフトのワードでなくてkingソフトである。

3月に買ったパソコンのofficeはkingソフト。

使いにくいから別途にマイクロソフトのofficeを買ってインストールしていたのである。

グーグルIDを投入して先に進めばグーグルのインストールが始まる。

毎晩アップしているフエースブックにようやく辿り着く。

今夜はここまでだ。

翌朝は疲れもあって遅めの起床。

電源ボタンを押してPCを立ち上げる。

前夜の画面とは違って、これまであったアイコンなどが前回同様の配列で出力していた。

昨夜の画面は幻だったのかどうか判らないが、とにかく戻ったのだ。

しばらくすれば「新しい機能が追加されました」が出た。

「PCの電源は切らないでください」だ。

しかもだ。「WINDOWSの機能向上にために調製を行った」と出るが、何を調製したのかさっぱりわからない。

OUTOLOOKなどが「まもなく完了します」とメッセージする。

ここまでの時間帯は午前8時35分。

「AcerPortlmsg」は無視して続行する。

毎朝のブログアップは「goo」。

idは入力を受け付けるが、パスワードは何故か弾かれる。

これまですっと同じ対応のパスワードコピーに貼り付けをすうるのだが、小文字・記号などがおかしいというような感じで退ける。

どうかしたのか・・調べている時間がない。

取り敢えず取材地に向かう。

取材から戻って自宅で昼食。

再びPC席についた時間帯は午後1時10分。

高額商品の「officepersonal2013」の出番だ。

ネットのセットアップアドレスを投入してプロダクトキーを入力する。

次の画面に移ってマイクロソフトに登録したパスワードを入力する。

「setup」がダウンロードされて「実行」をクリックする。

「ユーザーアカウント制御にマイクロソフトofficeがPCに変更を許可するか」のメッセージに対して「はい」を応える。

「あとわずかの手順で完了です」の表示でofficeの準備中に移った。

「新しいofficeにようこそ」が出る。

バックグラインドでofficeがインストールされていく。

90%辺りで「次へ」が出たころだ。

officeのインストールが終わったメッセージが出たので「次へ」をクリックする。

「こんにちは田中眞人さん」が出た。

背景は指定だ。

「雲」を選んで「次へ」。

「新機能に関する説明をご覧ください」に対して「開始する」をクリックする。

「準備が整いました」に「このファイルを開く方法を選んでください」と出たので「word(デスクトップ)」にOKした。

インストールが終わって「完了」した。

とりあえず昨日、今日のアクションをメモしておこうと思ってファイルを開けるのだが、wordの2013が見当たらない。

PCに出てきた「よく使うアプリ」にあるのはワードもエクセルも2007ばかりだ。

よく判らないがgooブログに入ることができなかったパスワード入力が気になる。

朝はグーグルだった。

ワードはkingソフトだ。

ついさっきに終えたマイクロソフトoffice2013。

パスワードはoffice2013ソフトのワードを使う。

インターネットはマイクロソフトEdgeだ。

gooのログイン・パスワードをしてみる。

すんなり受けつけられた。

朝のエラーは何だったろうか。

試しに今日の日記を書いて見よう。

コメントは書き残しているワードからコピー・ペースト。

画像は予め作成・登録しておいた写真を選択する。

これまでトロトロした動きで画像が出力されていたが、今回はサクサクだ。

マイクロソフトEdgeがいいのか、WIN10のおかげなのか判らない。

ちなみにインターネットがマイクロソフトEdgeになったが、これまで溜めていたお気に入りは消えることなくハブにあった。

ひと安心だ。
また、プリント出力も問題なく印字できている。

あとは画面に慣れるだけだと思う。

(H27.11.28、29 記)

オモロイ形のクラマダイコン

2016年08月14日 07時40分16秒 | 大和郡山市へ
二日前に電話があった。

大和郡山市小林町に住むS婦人からだった。

田畑でいつも一緒にいる隣家のご主人が面白い形のダイコンを引いたから見においで、というお誘いの電話だった。

ご主人はネギとともに翁面が天から降ってきた面塚の所有者。

誘いの電話を架けた婦人とは神社や寺行事など、なにかとお世話になっている。

稲作、畑作しているHさんからは、こんなオモロイもんが採れたでと、これまで何度か急行したことがある。

一つはオモロイトマト。

もう一つはオモロイナスビ。

もう一つがオモロイカボチャだった。

今度はダイコン。

どんな形に仕上がったのか、拝見したくビニールハウス傍にある農小屋に向かった。

農小屋に顔をだしたら早速動きだしたご主人。

ダイコンは路地栽培。

そこでオモロイ形のダイコンを引いてきた。



ダイコンの正式名称はクラマダイコン。

オモロイダイコンはたんまにこういう形ができる。

畑の中にあった小石を避けようとするダイコンの習性。

それだったというご主人。

その場はあんばいように小石が混ざっていたようだと話す。

これでは商品にならないが、我が家で食べるにはまったく問題はない。

ありがたく貰った。



「こんなんも栽培してるんや」と、ビニールハウス内で栽培していたコマツナも引いてくれた。

コマツナは中央卸売市場に出荷している。

午前中に引いたコマツナは翌朝の4時に間にあうように卸売市場に運ぶと話していた。

(H27.11.28 EOS40D撮影)

再訪葉本邸

2016年08月13日 06時37分00秒 | 大和郡山市へ
前夜のことだ。

自宅で入浴しているときに客人が来られたようだ。

何かを伝えようとした男性は住まいする地元自治会住民のFさん。

何事かと思って、電話をすれば、是非行って見てほしい家があるという。

その家は国の登録有形文化財に指定されている葉本邸である。

Fさんの話しによれば、蔵を整理したら古いものが出てきたという。

それらはあまりにも多い数々の宝物。

何度かは入れ替えて展示をしているから見たほうがいいと云うのである。

私の名前を告げて紹介したそうだ。

大和郡山市観音寺町の筋に入って、すぐの処に建つ葉本邸は「大和な雛まつり」会場の一つ。

平成24年の3月初旬に訪れていた

その晩に電話をするにはご迷惑をかけると思って翌朝にした。

朝、と云っても午前10時ぐらいだ。

久しぶりの訪問願いに電話した葉本家。

訪問の件を伝えたら、「是非、来てください」だ。

葉本邸が建つ街道はかつてのバス通り。

奈良交通バスのボンネットバスが運行していたと聞く。

今では懐かしいボンネットバスは走っていないが、乗用車や運搬車は頻繁に通過する北行き一方通行の街道である。

待っておられたのは母親と当家で生まれた娘さんの現当主婦人。

嫁ぐ前から生まれ育った大和郡山の暮らし一筋の生活だと云う。

ほぼ4年ぶりにおとずれた葉本邸。

当主は用事で外出中。

不在であったが、当主婦人と母親が迎えてくれた。



煙出し付きの瓦屋根をもつ切妻造りの2階建て。

分銅を象った文様を中央に配した細長の虫籠窓が見られる。

葉本邸の目玉は明治初期だとされる屋形造りの雛人形。

それ以外にもたくさんのモノモノのお宝がある。

玄関を開けて拝見した本日の飾り物は黒塗り、朱塗りの脚膳付の椀。

懐かしい瀬戸物の椀もあって目はキョロキョロと動き回る。



これらは最近になって蔵出ししたモノだそうだ。

椀を解説していた二人の婦人がふっと吐いた「フクガユ」。

何のことである。「フクガユ」を充てる漢字は「福粥」だ。

一月二日の朝に炊いて作る「フクガユ」は正月祝いの料理。

朱塗りの椀に入れて食べるらしい。

是非とも取材させていただきたいと申し出た。

別称が「福沸かし」の「福粥」については昭和28年4月1日に添上郡帯解町郷土研究会が編集・発行した『解町郷土誌』に書かれてあった。

正月二日は福沸かしの日。

粥の準備や調理は元日同様に、かつては当主がしていた。

最近では少なくなったという表記もあることから、戦後の数年後には衰退の方向に向かっていたようだ。

「福粥」は雑煮と同じように餅を入れる地域もあったが、だいたいが茶粥に小豆を入れて炊いたようだ。

作った「福粥」は神さん(ここでいう神さんは家の神棚であろう)や先祖さん(家の仏壇であろう)に供えていたらしい。

ちなみに、大和郡山市商工会が主催する第5回「大和な雛まつり」は平成28年2月20日(土)から3月6日(日)まで開催される。

この場に、どでーんと、屋形造りの雛飾りが並ぶことだろう。



葉本家はかつて両替商だった。

その後は肥料商を営んでいたという。

当時は田んぼで菜種を栽培していたと思うが、農地解放によって消滅したようだ。

肥料商の営みは「純正菜種油粕」と表記された看板が残されていることで判る。

製造元は堺の吉原製油。葉本肥料店は油を販売していたことを物語る看板だった。

「菜種粕 眞粉粕」の文字がある大阪平野製油会社の特約販売店の看板の看板もある。

肥料商だったころ話しはさておいて、両替商および肥料商にまつわるモノモノがある。

金屏風ならぬ銀屏風の前は引き戸の戸棚。

商売に必須の大福帳は明治36年。



手前に並べた帳簿は右から明治時代の「小作米取場」、天保七年の「□入用帳」、明治31年の「経費日記帳」、明治時代の「金銭日記帳」。

上段に並べた帳簿は明治33年の「経費日記帳」、明治36年の「肥料差引帳」、明治45年の「現品差引帳」、「葉本肥料飼料商店」、天保拾癸卯年(1843)の「田畑名寄帳」がある。



両替商必携の小銭を数える道具の「銭枡」もあれば、目方を量る分銅もある。



「銭枡」のひと枡は正方形ではなく長方形。

ということは古いモノなのか。

江戸時代であれば、二朱銀8枚で1両になるから横一列で8枚並び。

ところがこれは横一列の5枚並び。

近代のモノなのかな。近代であれば間違いなく正方形。

明治6年制定の銅貨は丸型だった。

以降の年代、すべてが丸型。

これは長方形の枡。

明治6年以前の朱銀のような気がする。

ちなみに段重ねした分銅は拾貫、五貫の刻印があった。

葉本邸玄関を入った壁に飾っている諸々の道具がある。



目方を量る天秤もあれば、大きなうねりをもつ弓もある。

なんと、袖搦(そでがらみ)など暴れる犯罪者を捕まえる道具もあれば、鳶口のような出火した際に建物を引き倒す町の火消道具もある。

ここは大和郡山城下の外堀の向こう側。

葉本邸が建つ観音寺町の西側にかつて外堀だった広島池がある。

池の北側に武家屋敷があった。

江戸時代の町名は旧広島丁だった。

ときの城主となった第二次本多家時代より家臣団が増えつつあった。

丁(町)名の広島は、広島からやってきた家臣団の居住地であることからその名がついた。

シンシバリ(伸子張り)が見つかったことから、当時に使っていたであろうと思われる生地を探し出して張ったという。



シンシバリは洗った布や染物を乾かす際に布を張って皺を伸ばす道具だ。

張ったシンシバリは弓なりになる。

糊を刷毛で塗った生地を乾かす。

端っこは一本の紐で結んでいた。

宙ぶらりんになったシンシバリは、空を泳いで「かーぜに揺られてぶーら、ぶら」だ。

私が子供のころ、明治生まれの婆さんはいつもこうしていた。その光景は今でも思いだす。



この日に撮らせていただいた葉本家に残る江戸時代から昭和の時代まで続く数々の品物は広く見ていただこうと一般公開された。

平成28年7月のことだ。

市の広報誌に紹介された個人公開の小さな博物館の「ハモト プチ ミュージアム」。

葉本家の歩みと町屋の生活を知る貴重な史料が拝見できる。

開館日は12月26日から1月15日間の休館日を除く毎週の土曜、日曜と祝祭日だ。

公開時間帯は午前10時から午後の4時までだが、入館は午後3時まで。

入館料は300円をお願いされている。

生憎、個人の民家につき、駐車場やトイレの設備はないのでご留意いただきたい。

(H27.11.28 EOS40D撮影)

福住別所下之坊の庫裏解体作業

2016年08月12日 08時30分41秒 | 民俗あれこれ
わたしから電話をしたのか、それとも架かってきたのか思いだせないが、急遽出かけることになった行先は天理市の山間部。

これまで取材した民俗行事に「御誓(ごせ)」という呼び名のオコナイ行事や新しく建築された地蔵堂の落慶法要に市指定無形文化財の「さる祭り」がある福住町別所の永照寺下之坊だ。

別所では住民が正月初めに行うイタダキの膳とかカンマツリも取材させてもらったことがある。

下之坊は真言宗豊山派の古刹。

推定800年とされるバラモン大杉を求める旅人が来訪する坊でもあるが、普段は扉も開いていない。

かつては上之坊、中之坊に現存する下之坊など六坊があった長谷寺末寺。

延享元年(1744)の大火災によって消失。

翌年に下之坊が唯一再建され、

本堂の修復に庫裏を建てた。

本堂はやがて文化五年(1808)および明治22年ころに修理された。

庫裏の解体作業が行われている場は通行止め。

下之坊の看板が立つ地より迂回する里道を歩く。

坂道であるが急坂でもない。

ところが、この頃の私の身体では急ぐこともできない。

足があがらず一歩、一歩を踏みしめるように登っていく。



小雨に濡れた美しいサザンカの花が目に入った。

人家があるわけでもない処に一般的なサザンカが植わっていた。



ここは最近になって整備された墓石が建つ。

雨に打たれて散り落ちた花が愛おしい。

小雨であるが、雨は止まない。



登ってきた道は円を描く。

稲田も合わせて円を描く。

刈り取った田に伐採した竹。

何に使うのだろうか。

そんなことを思いながら坂を登ってきた。

緩やかな坂のように見えるが、私にとっては堪える坂だった。



濡れた樹木に侘びを感じる。

ツタが絡まった桜の木でもなさそうな樹木の老齢に何を物語るのか・・。

業者の手によって解体作業される庫裏の姿に思いをだぶらせる。

解体作業の邪魔にならないように一歩、二歩下がって佇んでいた電話の主。

カメラを肩から下げたままだった。

この場で大きな声をあげては作業する人たちに迷惑をかける。

作業をそっと見守るように立ち尽くす。

しばらくすれば、休憩ではないが、やや小休止。



その間を見計らって下之坊前の境内に移動する。

翌月の12月23日は別所のさる祭り

村の人たちはこの場の境内で綱を結う。

架かってきた電話の主のお誘いに急行した理由がある。

キリンちゃん重機で屋根を解体する。

解体が済めば、その作業は二度と見ることがない。

少しでもカメラに収めて記録しておきたい。

そう思って急行する。

作業は午後3時半になっても終わっていなかった。

着いたときは、終わりかけの屋根の解体作業中。

なんとか間に合った。



油圧式ショベルカーのキリンちゃん重機の先は首振り。

解体した部位を首振り爪(グラップル)で掴んで下ろす。



廃材は木材、金属などに分別して大型ダンプトラックに積み込んでいた。

庫裏の解体と聞いて確かめたかった屋根の部材がある。

茅葺であればススダケがあるはずだ。



下之坊の庫裏の内部は若干であるが、拝見したことがある。

御誓(ごせ)」という呼び名のオコナイ行事を取材したおりに拝見した扉の向こう側。

庫裏座敷に住職を迎えた村の人たちがおられた。

土間だったことは覚えている。

竃はなかったように思える。

座敷は上がっていないから囲炉裏があったかどうか判らない。

大屋根の解体に金属物があった。

たぶんにトタン板であろう。

むき出しになった屋根の支柱に古いものもあれば新しい材のように見えるものもある。

藁綱で編んだ割り竹もあるが、ススダケは見当たらない。



延享元年(1744)の大火災によって消失した翌年に下之坊本堂の修復の際に庫裏を建てた記録があるようだ。

本堂は文化五年(1808)および明治22年ころに修理されたという記録もあるが、庫裏については判らない。

材の様相から延享二年(1745)築と思われる庫裏は、その後のいつか判らないが、何度か修理されたようようだ。

むき出しになった真新しい材が見える。

その状態から推定するに昭和の時代のように思えた。

(H27.11.25 EOS40D撮影)

二条町亀畑佐紀神社新嘗祭

2016年08月11日 10時19分45秒 | 奈良市へ
神事を終えた氏子たちは座小屋で御供下げしたヒトギを食べると聞いていた。

訪れた地は度々お伺いする奈良市佐紀町の小字亀畑に鎮座する佐紀神社行事。

ヒトギはシトギが訛ったようだ。

シトギを充てる漢字は粢である。

亀畑佐紀神社の氏子は二条町の住民。

住まいはすぐ近くの神社寄りの西側に位置する。

氏子らが云うにはかつて神社は超昇寺があった山の上の方であったと伝わるらしい。

おそらくは鎮守社であったろう。

拝殿前に建之された狛犬に「文久三年(1863)九月吉日」とある。

天正六年(1578)、兵火に焼失しその後に再建したそうだが、そのときに移転したのかどうか、私は存知しない。

県内事例ではそれほど多くないシトギ御供・喰い。

同神社で行われているシトギ御供・喰いの年中行事は新嘗祭の他、祈年祭、宵祭、マツリがある。

私が拝見したシトギを食する県内事例は奈良市池田町・熊野神社(月並祭御田植祭八朔祭)、大和郡山市満願寺町・古田神社(お盆祭の住吉祭り・宵宮座・マツリ・新穀感謝祭)、天理市杣之内町木堂の八王子彼岸講のトヤ渡し)や奈良市柳生町山脇垣内の山の神(バラン)、御所市西佐味水野垣内の山の神がある。

食はしないが、御供する地域に天理市荒蒔町・勝手神社(神縄掛)、桜井市萱森・高龗神社(頭屋祭)がある。

ヒトギ(シトギ)はバランの葉の上に乗せて供える。

ヒトギは6、7年で廻ってくる3軒当番の人が作る。

昔は石臼で粳米を挽いていたが、今はするところがない。

お店で購入した上新粉をボールに入れて、沸かしたお湯を注ぐ。

温度はお風呂と同じぐらいというから43度辺りだろうか。

混ぜた上新粉を手でこねる。

耳たぶ程度の柔らかさになれば小判型に調えてバランに乗せる。

残った上新粉は団子にして食べるという。

数年前に訪れた際、長老らが話した作り方は「家で米を挽いて粉にする。水に浸して塗りの椀に盛って供える」だった。



この日は小雨だった。

神事が始まるころには降りも強くなってきた。

本来なら祓戸社で祓の儀を行うのであるが、雨を避けてとりやめた。



座小屋に掛けた幕は昭和拾年一月に新調されたもの。

白抜き染めの紋は下がり藤。

春日大社と同じような形式をもつ紋である。

この日の行事は正装のスーツ姿。

座入りした男性は拝殿に上がれるが、女性は拝殿下で見守る。

いつもそうしている。

かつては一老と呼ぶ長老を筆頭に、二老、三老・・・八老までの八人衆と下に六人衆からなる宮座があった。

50年ほど前のことだと話していたことを覚えている。



座小屋に一枚の記念写真があった。

「昭和13年4月神社八人衆連名祈念」とあるから80年余り前の様相を示す記録写真だ。

当時は、一老が村神主を勤めていたと話していたことも判る写真である。



神事は修祓、献饌、祝詞奏上、長老の玉串奉奠。



撤饌をし終えたら場を移動する。

石段、鳥居下に建つ弁財天社に於いても神事が行われる。



神饌を献じて玉串奉奠。

そして、神社に戻るかと思って石段を登りかけたが、そうではなかった。

雨がしとしと降るなか神職を先頭に氏子らは並んで佐紀神社より離れる。

北に向けて100mほど。

森の中に入っていく。

そこにあった社はゴマンドウ。

充てる漢字は護摩堂だ。

平成14年9月28日に屋形を新築した護摩堂は「二条の宮さん」とも呼ばれている。



境内にある石碑は永禄十一年(1568)の建之。

どうやら前期超昇寺(後期は廃佐紀幼稚園南側)の遺構になる護摩堂である。



ここでも神饌を供えて神事が行われた。

雨が降りやまない。

傘もささずに往復したのであった。

神事が終われば座中は座小屋にあがる。

座は西の座、東の座に分かれて座る。

初めに年番の人が折敷を席に置く。



お神酒は上座の神職、次に東の座の長老、西の座の長老の年齢順についた座中一人ずつにお神酒を注ぐ。

乾杯をすることなく、注がれた順にお神酒を飲み干す。

まずは一献ということだ。

ひと回りすれば熱燗に替わる。

これもまたひと回りして酒を注ぐ二献目。

こうして「献」の儀が終われば、御供下げしたヒトギ(※シトギ)を箸で摘まんで席に配る。



次にお重詰めしていた酒の肴を配る。

西大寺駅すぐ近くの近鉄百貨店・大寅蒲鉾奈良店で買った上等のヒラテン、キクラゲテン、ネギ焼きテンなどの魚練りテンを皿に盛る。

肴は主に上等もんの練りテン。

それを口にする直会は酒が進む。

「貴方も食べてみんと判らんやろ」と云われて、ヒトギ(※シトギ)と練りテンをいただく。



練りテンは以前に伺った節分の日によばれたから味は覚えている。

さすがに上等もんは美味しい。

肝心かなめのシトギの味である。

箸で摘まんで口に入れる。

柔らかく、粉っぽいシトギは粘り気がある。

米の味ではなく、どちらかと云えば団子の味に近い。

そりゃそうだと思った。

シトギの原材料は上新粉である。

かつて大和郡山市の満願寺町・古田神社の新穀感謝祭でシトギを口にしたことがある。

御供下げしたシトギは素焼きのカワラケにあった。

カラカラに乾いたシトギはカタクリのように思えたが、味は米の味そのものだった。

すり鉢に一握りの粳米を入れて水を足す。

ドロドロになるまでスリコギで擦り潰してカワラケに盛る。

そして平らに浸して一晩おく。

水分がなくなったシトギは型崩れもしない固さになる。

材料もそうだが、作り方も違うから味も違うということだ。

(H27.11.23 EOS40D撮影)

額田部南町元往診医師家の神農さん

2016年08月10日 08時43分13秒 | 大和郡山市へ
高取町下土佐の神農薬祖神祭では神農図を拝見することはなかった。

消化不良の境地だ。

久しぶりに拝見したくなった神農図。

掲げているお家は元往診医師家。

住まいは大和郡山市の額田部南町だ。

自宅で往診医師を勤めていた先代は61歳で亡くなった。

戦前は大阪・上六の日赤病院の内科医勤務だった。

戦時中は軍医。母国に戻って自宅開業した。

当初は、雇った人力車夫が引っ張る人力車に乗って往診していた。

その後は自転車に跨って行くようになったという夫妻。

離れの門屋に畳を敷いた処に車夫を住まわせていたという。

かつてはカンピョウ干しをしていた同家。

ご主人曰く、「カッシャ(滑車)」装置で揚げていたという。

カンピョウを栽培していた畑は現大和中央道にあったそうだ。

婦人が云うには、「畑をしてくれはる人がおった。男の人もおれば女の人もいた」だった。

畑は西名阪高速道の処だったというからニカ所にあったのだろう。

そこらあたりは額田部の桃畑。

戦時下は空襲に見舞われたと話していた。

初めて元往診医師家の神農図を拝見したのは平成23年12月3日だった。

その日は額田部町・融通念仏宗融通寺の十夜であった。

その場に居られた婦人が自宅に神農図を掲げているから是非来てくださいと云われて訪問した。

そのときの衝撃は忘れもしない。

眼光鋭く睨みを利かせる神農さんは、角を生やしてなんらかの葉付きの草木の枝を口に銜えている。

銜えているのか、それとも舐めているのか・・・。

左手に、これもまた判別がつかない葉っぱを持っている。

薬草であるのかどうか見分けている医薬の神さん姿とされる神農さんが着る衣装も葉っぱで覆われている。

まるで襟付きボアのような上着に見えた。

その神農図。



ご主人が子供のころ、角が生えているし、白髪で髭もある神農像が怖くて見られなかったと話す。

神農図には裏書きはない。

装丁も古くはないが、作者名があった。

「龍岳斎寫」だ。

小さな落款が二つ。

やや大きめの落款は「□女庄田」。

詠みは判らない。

家人が云うには、先代が大阪・道修町の少彦名神社で買ったのではないかと話す。



元往診医師家の神農さんは特別な日を設けるわけでもなく、ローソクも立てず、お供えもしない。

同家は融通念仏宗派。

如来さんが終わった翌日の11月1日に神農図を床の間に掲げる。

掲げる期間は11月いっぱい。

毎年、そうしているという。

一方、市内城下町の雑穀町に住む元藩医家は特定日の12月22日に掲げる。

その日は冬至の日だ。

寛政時代(1789~)の古図にも載っている同家は神農さんの日にお頭つきの魚、ナンキン・ダイコン・ニンジンに二杯の洗い米を供える。

神農さんを祭る行事に神社行事がある。

大阪市中央区道修町の少名彦神社や大阪府堺市堺区戎町の菅原神社末社の堺薬祖神社、奈良県高取町の土佐恵比寿神社は神農社である。

少名彦神社は11月22日、23日。

堺薬祖神社は11月23日。

土佐の神農社は11月22日。

新暦、旧暦の違いであるのかどうか判らないが、22日、若しくは23日のようだ。

他府県はどうなのであろうか。

ネットで調べてみた。

愛媛県生涯学習センターがインターネットで公開している『えひめの記憶-ふるさと愛媛学-』のなかに「神農さんをお祀りする」記事がある。

その記事の一節に、漢方医家では冬至の日に神農神を祭る風習があり、旧暦にあたる11月22、23日を神農神の祭日としているところが多いとあった。

『うち(芝道子)は薬屋ですから、床の間には薬の神様の神農(しんのう)さんの像を置き、神農さんの掛軸を掛けていました。神農さんは、昔は真ちゅう製だったように思うんですが、戦時中に供出してからは陶器製のものを飾りよりました。それもいつやら割ってしまって、今は掛軸だけになっています。うちでは、1月8日にお鏡開きをします。ぜんざいを作って、それにお鏡を切って入れて神農さんにお供えするんです。なんで8日にするのかというと、8日が神農さんの祭りだというだけで、根拠とかは知らんのです。』などの聞取り書きもある。

1月8日に鏡開きの餅は神農さんにお供えをするという愛媛県の風習である。

1月8日の事例は新潟県長岡市城下の神農講にも見られる。

8日といえば、薬師さんの縁日。

売薬さんと呼ばれる置き薬販売業者が多く見られる富山県では1月8日に神農さんの掛図や置物を床の間に飾る神農祭(薬師祭とも)がある。

1月8日は初薬師だと思うが、神農さんとの繋がりは判然としない。

昔の漢方医の家では冬至の日に神農神を祭る風習があり、今も11月22、23日(旧暦の冬至)を神農神の祭日としているところが多い。

したがってここで「なぜ8日なのか」については不詳であるが、関西では旧暦の12月8日を「こと八日」とよんでコトハジメの日としていたことや、万病を癒してくれる仏として広く信仰されているお薬師さん(薬師如来)の縁日が8日であることなどとの関連が考えられるかもしれない。

神農さんについて取材させていただいたK家の座敷に六斎鉦とおぼしき伏し鉦があった。



これもまたご家族のお許しをいただいて現物を拝見する。

裏を返せば刻印があった。



「室町住出羽大掾宗味作」である。

大きさは外径が21cmで内径は17cmだった。

同家は融通念仏宗派。

大阪平野の大念仏から如来さんがやってくる。

同町から北町。

そして融通寺までを駆け巡る如来さんのご回在を拝見したことがある。

平成23年10月31日のことだ。

早朝に到着した一行はここら辺りから回在し始めた。

時間帯は7時半前だった。

待っていた家から鉦を打つ人を先頭に如来さんや僧侶が続いて門屋を潜る。

どうやら同家はご一統さんのように思えた。

ご夫妻が話すにかつては同家でカンピョウ干しをしていたそうだ。

カンピョウを栽培していた畑は現大和中央道辺り。

3坪もあった畑で栽培していたカンピョウは刃付きの道具で皮を剥いでいた。

その内側が白い肌のカンピョウ。

長く切ったカンピョウを滑車で上げる棒に垂らして干した。

大量に作るのでご夫妻だけでなく、雇いの人も。男女それぞれの何人かを雇っていた。

畑にいたときだと思うような話しがある。

あるときに空襲があった。

今では名阪高速道になっている付近にあった桃畑に爆弾が落ちたと話す。

(H27.11.22 EOS40D撮影)

西椎木出雲寺の十夜会

2016年08月09日 09時27分00秒 | 大和郡山市へ
節会(村ではセチと呼ぶ)、春・秋彼岸会、涅槃会、施餓鬼、如来さん、十夜会など一年に8回の年中行事がある出雲寺(しつうんじ)。

在所は大和郡山市椎木町の西垣内である。

檀家は西垣内が全戸。

東垣内(文禄四年に記された郡山藩和州河州御領郷鑑によれば西垣内の枝郷)は10戸からなる両垣内の融通念仏衆派・檀家たちの営み。

お寺さんは同市横田町の西興寺住職。

幾度となく、お世話になったことがある。

出雲寺のご本尊は阿弥陀如来座像。

別棟の薬師堂に安置しているのは木造薬師如来座像。

毎月の八日は観音講(尼講)が務めているようだ。

また、旧辻堂にあった地蔵石仏は現在出雲寺の門脇に移され地蔵盆を営んでいる。

出雲寺の南側に隣接する神社は弁天さんの愛称がある厳島神社。

その神社行事を務めているのは西の弁天講にある。



カーン カーン カン、カン・・・十夜会は釣鐘撞きから始まる。

本堂に参集した人たちは14人。

圧倒的に女性が多い。



十夜に家内安全、身体堅固。

本日の十夜会につき塔婆願主・・・なーむあんみだー。

先祖供養は追善。菩提のためになーむあみだぶつー、なーむあみだぶつー。

三界万霊、平等利益・・なーむあみだーぶー。

ゆうずうねんぶつ、くどくひゃくまん・・なーあみだーぶー、なーむあみあぶーつ。



手を合わせて念仏を唱える檀家たち。

最後に般若心経をも唱えて、ガンニシクドク。

およそ50分間のお勤めだった。

法会が終わって気になっていた伏し鉦を拝見した。



鉦は二つある。

左の鉦が「和刕椎木村出雲寺 現住春願代 大坂高津住大谷模掾藤原正次作」で、右は「京大住 西村左近宗春作」の刻印があるものの年代記銘はなかった。



西興寺住職が云うには、伏し鉦は融通念仏宗派の特徴で、京都・男山石清水八幡神社から淀川へ。

そして大阪湾に流れ、しかも流れに流れて大阪・堺に流れ着いたカメガネ(亀鉦)が起源譚になるそうだ。

融通念仏宗派の総本山は大阪・平野の大念仏寺。

同寺では10月15日に「亀鉦まつり」があるらしい。

浦島太郎が跨っていたような緑毛の亀の形。

宝物・亀の背中に伏し鉦を載せている亀鉦の姿が拝見できるようだ。

県内各地で拝見した各寺の十夜会につきもののお料理にアズキカユがある。

出雲寺もそうであるのかと思っていたが、そうではなかった。

年配の婦人が云うにはかつては団子だった。

いつのころか判らないが、アズキメシになった。

アズキメシはアカゴハンとも呼んでいた。

空の重箱を寺に持っていって十夜の振る舞いのアカゴハンを詰めてもらって帰った。

子供のころの楽しみだったというから、ずいぶん前のことのようだ。



手間がかかる料理はいつしか中断することになり、今ではお店屋さんが作って販売しているオハギになった。

ちなみに僧侶が在住の横田町・西興寺では檀家当番が大鍋で炊いたアズキカユを振る舞うと聞いている。

平野大念仏寺の上人が勧進(かんじん=仏道をすすめること)のために難波津より船出したときのこと。

突然の大時化(おおしけ)に逢い、荒れ狂う海に「鏡鉦(かがみがね)」を投じて海を鎮められた。

勧進を終えて復路の途上、波間より突然現れた大海亀の頭上にはなんとその鏡鉦は、こうして一度は海の底深く沈んだ鏡鉦は、再び上人の手に戻った。

亀のおかげで戻ってきた鏡鉦は「亀鉦」と呼ばれるようになり、今も平野大念仏寺に眠っているようである。

住職の友人が三郷町にいるそうだ。30年前のことだと前置きした話しは龍田大社のダンジリだ。

当時は若かった。

神社の前に住む友人の家に遊びに行った。

そのときに頼まれてダンジリを担ぐことになったと笑いながら話してくださった。

(H27.11.18 EOS40D撮影)

下土佐神農薬祖神祭

2016年08月08日 10時31分45秒 | 高取町へ
神農さんの掛図を掲げる「家」の行事を取材したことがある。

取材地は大和郡山市内在住の元藩医家元往診内科医師家だった。

角を生やせて薬になるかどうかを確かめる草を口に銜えている神農さんのお姿を初めて拝見したときは感動したものだ。

同じように神農図を掲げる神社行事があるのか、ないのか・・。

それを確かめたくて高取町の下土佐に向かった。

話しを聞かせてくださった男性は高取町の元観光協会会長。

高取町に住む知人が紹介してくださった。

話しの内容は薬の町始まりだった。

昭和50年前後に高取町観光協会・高取製薬工業組合が連名で発行した「高取町の名所旧跡のしおり」がある。

当時、組合だった製薬会社の数は28社だった。

製薬製造会社はGMP、つまり厚生省基準発令によって衛生面の考え方を取りいれた製造基準の見直しがあった。

薬の製造は辞めたが、許可した別の会社に委託製造をすることになった。

その場合においても許可は取り直しをしなければならない。

製造しなくなった製造会社名は使えない。

薬の商品名は替わっていなくとも成分・分量は同じ。

試料を厚生省に提出して許可を得る。

卸し業者として転換した会社もある。

製造を辞めて販売会社として継承した会社もある。

5年に一度は許可を得なければならない。

その都度において基準が高くなる。

やむを得ず、事業を辞める会社が続出して11社になった。

町を離れた会社もあるが、製薬工業組合の一員として存続した会社を入れたら12社になるなど、諸事情、経緯について話してくださった。

歴史は判然としないが、推古天皇の時代に薬猟をしたのが始まりだという下土佐の薬製造。

猟場は高取町の大字羽内(ほうち)の地。

波多甕井(はたみかい)神社の周辺、612年に推古天皇が薬狩りをしたと日本書紀に書いてあるという元観光協会会長の話しである。

前年の611年。宇陀にも薬狩りをした。

薬草採取であるが、「狩り」の文字があることから薬になる動物狩りであったと考える。

鹿のツノや熊のキモ、ガマガエルのセンソ、などなど。イノシシも狩っていたのだろう。

鹿のツノは若い生えかけのツノである。

奈良公園で行われている鹿の角切りは古い角。

それではなく、生えたての若い角が薬になる。

牛の胆のう石はゴオウ。

抽出して乾燥する。

これを粉末状にして薬になる。

江戸時代、役行者は全国を行脚した。

天川村・洞川に陀羅尼助の名をもつ薬がある。

キハダ(オオバク:黄柏)をドロドロに溶かして乾かし薬化する。

古来より作られ、販売されてきた陀羅尼助丸(だらにすけがん)は役行者が立役者になって配置薬を始めたとか・・・諸々を長々と話される。

明治維新、刀を下ろした武士が薬を作り始めたと思うという元観光協会会長(現在は顧問)。

全国に売り歩いて産業が発達した高取町。

大正、昭和の時代を経て現在に至る。

天誅組・土佐の吉村寅太郎と関係があった高取町。

関係と云うのは町を襲ったことだ。

五條を襲った勢いで、京都・大和行幸を旗印として大義名分を得て五條の代官所を襲った寅太郎は高取城を乗っ取り、町を襲った。

その当時の古戦場は高取町役場付近。

「鳥が峰」の名が残った処だという。

そういう関係で天誅組顕彰会の副会長を務めていたという。

下土佐の神農さんは土佐街道沿い。

恵比寿神社境内にある小社がそうだ。

神農薬祖神祭の行事日は11月22日であった。

いつしか祭日の23日に移行した。

ところが、町は高取城まつりを23日に行うことにした。

祭りの日程は重なった。

これを避けるには他の日にしなければならない。

ということで、神農薬祖神祭は基本的に23日直前の平日とした。

ところがだ。

23日が祝日の月曜日になれば、日曜、土曜を外した前週の金曜日になる。

23日が祝日の火曜日であれば前日の22日に行う。

実にややこしい日程決めである。

その日が本日だった。

高取町は製薬会社や配置薬会社が軒を連ねる。

薬に関係する会社の代表者が参集して神農薬祖神祭が行われる。

が、である。

「くすり資料館」がある高取町観光案内所「夢創舘」で話し込んで行事が始まる時間を失念してしまった。



大慌てで恵比寿神社へ駆けつけたが間に合わなかった。

下土佐の神農薬祖神祭はいつごろから始められたのか。

参拝されていた薬関係者に尋ねる。

恵比寿神社の境内社になる神農社は明治40年、桜井市三輪の大神神社末社にある磐座神社(神農社)から分霊を遷して祀っていたと伝わるが、それがどこだったかは不明のようだ。

下土佐の神農社はその後の昭和44年に建之したと聞いたが、そうでもないようだ。



割拝殿に掲げていた幕がある。

染め抜いた紋は「薬」の文字。

「昭和五年四月吉日 高取薬業會」とあるので創建年と一致しない。

さらに、である。

恵比寿神社ともども神農社は平成24年10月に改築した。

玉垣なども替えてすっかり新しくなった。

話しによれば、改築するまでの神農社は街道沿い近くの恵比寿神社境内にあった。

正確にいえば現在の鳥居の左側である。

その付近に手水鉢があった。



目を凝らしてみれば人物名の刻印があった。

「奉納 安政五午(1858)十二月吉日 米商人中 世話人東山村喜三□ 阿部山村利右ヱ□ 土佐町甚太郎 岡村弥兵ヱ 松山村伊右ヱ門 稲淵村五兵ヱ」である。

薬業者曰く、これらはここ土佐の高取町や明日香村の人たちであろうといいう。

薬業は明日香村もある。

この日の参拝も明日香製薬工業組合が参集されていた。

刻印から推定するに寄進者は米商人中とあることから恵比寿神社に対してであろう。

高取・明日香製薬工業組合の人たちが参拝する神農薬祖神祭。

およそ30人にもなる参拝者のなかには奈良県庁の薬関係職員も居るそうだ。

平日開催の理由はここにあった。



祭りの賑わいにエビスさんの福笹吊りと同じような笹がある。

エビスさんは縁起物の福笹であるが、神農薬祖神祭の笹吊りは薬や配置薬の箱である。

神社玉垣内の両端に立てた2本の笹には数多くの薬箱が見られる。



玉垣には「薬」の文字をあしらった紋に白抜き染めの「神農祭 高取薬業連合会」旗もある。

ちなみに鴨都波神社内の少名彦神社に神農さんを祀る神社がある。

その名も神農神社。

祭神は神農薬祖神こと少名毘古那神だ。

神農さんの祭りは11月20日のようだ。

祭りは終わっていたが、お供えがどういうものであったのか、片づける前に拝見させてもらった。



神饌は二段の鏡餅にレンコン、ハクサイ、ダイコン、サツマイモに果物。

これらは一般的だが薬業の高取町に相応しい薬箱が大量にあった。



懐かしい配置薬に懐かしい紙風船もある。

30歳まで住んでいた大阪住之江の実家に配置薬の箱があった。

箱の中にある薬は高取町製。

そのなかに紙風船もあった。

配置薬をもってきた男性が子どもさんにはこれをと云ってもらったもの。

当時の情景を思いだす。

お供えはもう一つある。



親しみを込めて神農さんと呼ばれている大阪市中央区道修町に鎮座する少彦名神社で賜った、というか、代金を支払って分けてもらった張子の虎の「神虎」である。

文政五年(1822)、大阪でコレラが流行った。

道修町の薬業者が疫病除けに「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)」丸薬を作り、併せてお守りの「神虎」を捧げて祈願し、無料で配布したのが始まり・由来とされる。

道修町・少彦名神社の神農祭は11月22日、23日の両日。

薬関係者の参拝でいっぱいになるそうだ。

高取町の製薬工業組合の人たちはこのお供えを「ササドラ(笹虎)」祭りと呼んでいる。

大量に分けてもらった「ササドラ」は一般参拝者に配られる。

待ち望んでいた人たちがやってきて参拝。

祭りの役員が手渡しして配られる。



町内に住む女性が手にした「ササドラ」を撮らせてもらったが、顔出しは厳禁ということだ。

ところで、神農さんに「農」の文字があるが、決して農業を意味する文字でもない。

神農さんは農業の神さんではなく、古来、中国から伝わる薬祖神の「炎帝神農氏」に由来するものである。

結局のところ、下土佐の神農薬祖神祭には神農図が見られなかった。

その件については高取町の薬業に詳しい観光協会顧問に聞いてみた。

昔から神農図は見たことがないという。

もしかとすれば、高取町製薬工業の事務所にあるかもしれないという。

あくまで、かも、であるが、祭りの日でなく、年中において掲げているかもしれないという。

観光協会顧問の現業は薬製造業者。

同社では掲げていないようだ。

ところで土佐街道沿いに並ぶ建物に杉の葉を飾っているのはご存じだろうか。



家の軒先、というか屋根瓦とトユの間に挿し込んだ葉付きの杉の小枝だ。

それには「高取土佐時代行列保存会」や「たかとり城まつり」の文字を書いた短冊でぶら下げていた。

数日後の23日に開催される高取城まつりを知らせる飾り物だ。

春には同じく葉付きの杉の小枝が再び登場するが、そのときは「町家の雛めぐり」になる。

民俗的要素かと思ったが、観光客を歓迎する印であった。

(H27.11.20 EOS40D撮影)

下土佐の神農祭を電話で聞く

2016年08月08日 09時24分20秒 | 高取町へ
前日に神農祭の日程を知っているか教えてもらおうと思って高取町案内人のNさんに電話した。

教えてもらおうと思った2点。

一つは船倉弁天さんの亥の日御供の栗飯であるが、聞いたこともないようだ。

もう一つが下土佐の恵比寿神社で行われる神農祭である。

神農祭に詳しいのは薬屋さんのNさん。

神農祭を始められた人だというNさんを紹介してくださった。

高取町案内人のNさんは入院中にもかかわらずすぐさま手配してくださったが入院中の身。

連絡がついたのは翌日。

榛原檜牧や北椿尾の現地調査を終えて戻ったのは午後だった。

取材メモを整理してようやく落ち着いた時間帯に教えてもらった電話番号を打って架けた。

薬屋さんのNさんは元観光協会長。

長年に亘って高取町の城まつりとか新しいイベントを起こしてこられたそうだ。

始めて拝見した城まつりは十数年前の平成14年11月23日だった。

大道芸・南京玉すだれを披露しながら行列する八房師匠とお会いしたことは今でも覚えている。

それはともかく薬屋さんのNさんが云うには下土佐の恵比寿神社で行わっている神農祭は23日直前の平日になるそうだ。

城まつりを開催するまでは例年の11月23日だった。

日程が重なるようになり23日直前の平日。

23日が祝日月曜日であれば、日曜、土曜を外した金曜日になるという。

また、23日が火曜の祝日になれば前日の22日の月曜日が神農祭の行事日になるという。

大阪の道修町は薬の街。

12月23日に神農祭が行われている。

高取町の神農祭は一か月前の11月である。

おそらく、であるが、両町ともかつては同じ旧暦の12月23日であったかも知れない。

新暦が制度化されて11月23日になったかもしれない。

逆もありえる話しである。

高取町は製薬会社や配置薬会社が軒を連ねる。

薬に関係する会社の十数名の代表者が参集されて神農祭が行われる。

笹に薬とか配置薬の箱をぶら下げて町内に飾るようだ。笹にぶら下げるのはエビスさんの福笹行為と同じような様相だと思った。

神農さんは農業の神さん。

薬になるもの、薬にならないものを試された。

試薬はそういう時代から始まったかも・・・。

下土佐の神農さんは恵比寿神社境内にある小社らしい。

いつごろから始められたのか、歴史は判っていないが、推古天皇の時代に薬狩りをしたと日本書紀に書いてあるという。

薬狩りの場は高取町の大字羽内(ほうち)の地。

ハタミカイ神社の周辺になるが、612年に推古天皇が薬狩りをしたと日本書紀に書いてあるという。

前年の611年。宇陀にも薬狩りをした。

薬草採取であるが、「狩り」の文字があることから薬になる動物狩りであったと考える。

鹿のツノや熊のキモ、ガマガエルのセンソ・・・などなど。

イノシシも狩っていたのだろう。

鹿のツノは若い生えかけのツノである。

奈良公園で行われている鹿の角切りをする古いツノではなく生えたての若いツノが薬になる。

牛の胆のう石はゴオウ。

抽出して乾燥する。

これを粉末状にして薬になる。

江戸時代、役行者は全国を行脚した。

洞川の陀羅尼祐名をもつ薬がある。

木肌をドロドロに溶かして乾かし薬化する。

古来より作られ、販売されてきた陀羅尼助丸(だらにすけがん)は役行者が立役者になって配置薬を始めたとか・・。

明治維新、刀を下ろした武士が薬を作り始めたと思うという薬屋さんのNさん。

全国に売り歩いて産業が発達した高取町。

大正、昭和の時代を経て現在に至る。

私が大阪に住んでいたころもあった配置薬。

思いだす風薬がある。

たしか、高取町にあった製薬会社製だったと思う。

大淀町に向けて通る高取町の国道筋にある建物にキズリバーテープの大きな看板が目に入る。

(H27.11.15 記)