まだ息子が受験生だったころ、親子の会話を記事にしたものです。
(会話は、メモに残していたものを、ほぼそのまま載せていますが、話が脱線して長くなったところなど、少しだけ修正した部分があります)
息子といっしょに近所のイタリア料理の店に行った日のことです。
息子は夏の間、苦手科目の足踏み状態が続いていたらしく、焦る様子はないものの本人なりに苦しんでいたようなのですが、9月に入って、清々しいほど明るい表情で受験勉強に向かうようになっていました。
お店に向かう道すがら、こんな話をしました。
息子 「このところ夏の不調がウソみたいに調子がいいよ。あっ、そうだ。忙しくて国語が手つかずになっていたんだけど、久しぶりに赤本に目を通してみたら、急にできるようになっていてさ。
それが勉強とは別の問題でも、お母さんとひとつのことを突き詰めるまで、さんざん議論したのが良かったみたいなんだ。
メタな視点から問題を捉えて、どのように答えをまとめたらいのか見えるようになった。」
母 「そうそう、議論って本当にいいわよね。
今日もレッスンに来ていた年中さんたちと、『少し』とか『ちょっと』ってどれくらいのことなのかって議論をしていたんだけど、どの子も『たくさん』と捉える量は状況によって変わるから、
どれだけを全体量とするかや、誰の視点で『1の量』を捉えるかで、少しやちょっとが相対的に変化することがわかっていて、それを道具を使ってきちんと説明してくれたのよ。
議論をすることって、とっても楽しいし知的ないい刺激になると思うわ」
息子 「そうだね。議論は大事だ。夏の一時期、受験のプランの王道ってのに無理に自分を合わせようとして、やってもやっても確実に伸びている実感が湧かなくて悩んでいたんだけど……。
この数週間で自分なりの方法を確立したら、ようやく勉強が軌道に乗りだしたよ。
自分なりの方法って、自分自身の内面でする議論のようなものなんだけど、問題の数をこなすのではなくて、ひとつのことについて、とことんしゃべるように分析するんだよ。
たとえば、この間、解いていた東大の数学に問題にしても、解答に行きつくまでに100のプロセスを踏まなくてはならないとしても、
そのひとつひとつを分析すれば、要は小学校低学年で学ぶような足し算でさ、最終段階からひとつひとつ遡るとすると、とてつもなく簡単なんだ。
それじゃ、そんな簡単な問題を解くのに何が求められているのかというと、それを導き出す思考のプロセスを思いつく力でね。
それには多量の問題をこなすよりも、ひとつの問題について、最小単位まで条件を分けていきながら分析してみると身についてくるよ。
たとえば、英語の文章を見たときにも、これは不定詞を使っていて、こうとも読み取れるし、こうとも言えるし……と、いった具合に、少量であっても、
これ以上分けれないってところまで分析して見ていけば、どの問題も結局はほとんど同じような構造でできていてさ。
よく考えもせずに、多量に問題をこなすことに気を取られずに、いったんそこに立ち止まることをよしとする気持ちの余裕さえ持てたら、難しい問題なんてただの見せかけなんだよ。
そうはいっても、現実の受験勉強はたやすいことじゃないけどね。時間も努力も能力もまだまだ足りない。」
母 「私もひとつひとつの経験を大切にするようにすると、そのひとつはどの物事にもつながっていくのを日々、実感している。
たとえそれがごっこ遊びでも、工作でも、ひとつの体験に深く自分自身を投じたら、そこから得るものは、何冊分ものワークに勝るわよね」
息子 「あれもしなくちゃ、これもしなくちゃという焦りを手放して、好きな数学に時間をかけてみたら、数学の勉強が他の教科の学習を急に簡単にしてくれるんだ。
最近、思うんだけど、数学って答えを出すものじゃなくて、ややこしく絡み合って見えにくくなって前面しか見えなかったものの背景からそのものを浮き立たせたり、シンプルにして見えやすくするものだなって。
数学は虫眼鏡のような道具にもたとえられるよ。
数学を解くというパズルのような対象ではなく、虫眼鏡のような物事を見えやすくする道具として利用するとさ、どの教科の勉強も急に扱いやすくなるんだ。
この頃、これは図やグラフにできそうもないというようなものも、嘘や適当なものでもいいからとにかく図やグラフや相関図なんかにしてみるようにしているんだ。
すると、これは解決しようもない、これは理解できないというややこしさを持ったものも、数学の言葉を使えば驚くほど簡単に説明できてしまうんだ。
そうなると勉強の敵は、そうした図やグラフにするような時間を無駄な時間として許せないような強迫観念でしかないよ。自由にひとつのことをじっくり考える時間があれば、難しいと感じていたことも一気に易しくなって、突破することはできるんだよ。
数学は勉強すればするほどいろんなことが見えてきて、本当に面白いよ。」
我が家の性格タイプを大きくふたつに分けると、主人と娘は似たところがずいぶんあって、私と息子は物を考えるときのプロセスや好きなものとの関わり方など共通点がたくさんあります。
主人も娘の社会に適応するのが上手で、多数派と楽しく、一方できちんと自己主張しながら渡り合えるタイプで、私と息子は人づきあいは苦手じゃないけど、たいがいが少数派に属していて、マイペースで何でも自己流にするのが好きなタイプです。
主人も娘も目的や目標が決まると、その達成に向けて、情報を集めて、それを見比べて、テキパキと選択していって、そこで浮上した問題点について話し合い、即座に判断して解決するやいなや、実行に移すためにさっさとその場を立ち去る……という忙しい方々。
その素早い動きに噛み合ったためしがない私と息子は、どう転んでも大差がないような話題で延々と議論しあって、行き着く答えが、息子の言葉を借りると、
「あらゆる物事に、ファジーさとか柔軟さといった不確かさを含めておく態度が大事だと思うよ」なんて、スパッと決断したい人々からすると『ふりだし』に戻ったような結論。
そんな不毛とも見える議論も、現代国語の成績アップにつながったというのなら、あながち無駄ではないのでしょう。
息子とわたしはユングのタイプ論で分類するなら、おそらく「内向的直観型」と思われますが、私はどちらかというと思考を使うよりも、感情で捉えたことを実践の場で使うのが得意なので、内向的直観型の感情寄りなんじゃないかと思っています。
息子は物事を直観で捉えると同時に、それらを思考で分析して、それを苦もなく言葉で言い表すことができるので、おそらく内向的直観型の思考寄りの子ではないかと思っています。
息子が、「あらゆる物事に、ファジーさとか柔軟さといった不確かさを含めておく態度が大事だと思うよ」と感じるようになったのは、受験で地理の勉強を進めるうちに、強くそう思うようになったのだとか。
息子 「地理を勉強しているとね、ルワンダとかナイジェリアとか……戦争が絶えず起こっている理由に、正しいか正しくないかひとつの答えを正しいものとして決定してしまうこと、
つまりAの民族には得になるけれど、Bの民族には損することが確定するような政策を正解として置いてしまうことにあると思うんだ。
正しさはある物差しを使えば確実に思えるものも、視点や立ち位置が変われば、その正誤のほどがあいまいになるものだよ。
お母さんもそうだろうけど、たとえば、UFOについての大発見があったとして、その情報の正しさに納得ができたとしても、それに対しての自分の考えはあいまいにしておきたい、
もう少し不安定がグラグラした部分で経過を眺めていきたいと思うんじゃないかな。
これはこうと決めつけずに、傍観者の立場でいたいときがあるんだよ。」
母 「それ、お母さんの仕事で今まさに感じていることよ。
お母さんは教育や子育てや療育の世界が、個体能力を伸ばそうとする発達促進の考え方傾き過ぎているために多くの問題が生じていると思っている側の人間よ。
関わりをキーワードにして、根本的な大人の子どもに対する構えや眼差しの見直しが必要だと思っている。
でも同時に固体の発達促進や子どもの社会に出てからの幸福のために、真剣に悩みつつ仕事をしてこられた方々の考え方を尊敬しているし、
私自身が子どもと1対1で接するときには、その潜在的な能力が最大限に開花することを願ってもいるの。
そんなお母さんの態度は、どちらを支持する方にとっても優柔不断で反対派と融合しすぎているように映るでしょうけど、お母さんの中にはひとつの物事に対する自分なりの態度があって、
いつも相反するふたつのものを微妙な加減で調整をしているの。可逆性ってわかる?」
息子 「うん、だいたい。矢印で言うと、こうでこう?」と息子は手で矢印を行き来させました。
母親 「お母さんは数学や物理の世界で、可逆性という言葉を捉えているわけじゃなくて、メルロ・ポンティーの本で可逆性とか両義性って言葉に触れて、想像を膨らませてその世界にひたっているとき、
あくまでも雰囲気で考えているんだけど、物事のどちらかひとつに賛成して、それと同時に別の立場を全否定してしまうってどうなのかなって思えてくるのよ。
現実はそんなに簡単に線引きできることばかりじゃないから」
次回に続きます。
分析してみると身についてくるよ。”
息子さんの考え方、私自身の受験勉強では用いることはなかったですが、今の情報化社会を乗り切るのに必要な考え方だと考えています。
私も、必要に迫られてですが、逃げずに、自分のこととして一つの問題を突き詰めて考えたことが、別の問題に応用できるなと実感したことがあります。