虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

教育と学習方法について考えること(息子とおしゃべり)つづき

2016-10-29 08:16:27 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

わたしの話を聞いていた息子は、次のように言いました。

 

息子 「ぼくは言語には欠陥があって、その欠陥に無自覚なままで言語主体の話合いを続ければ、いろいろな誤解が生じてくるのは仕方がないように思うよ。

言語の欠陥を補うために、数学的な考え方や数学の世界の言語を議論に取り入れるといいように思うんだ。」

 

母  「言語の欠陥って?」

 

息子 「言語というのは、物と物と比較する上で勘違いを起こしやすいからね。

たとえば、ある政治家がひとこと言い間違いを犯して、メディアや国民からいっせいに非難を浴びるとするよね。

で、そのひとことの重さというのは、その政策全体の価値に対してどれくらいの汚点にあたるのか、言語はそうした数値的な比較を背景に遠のかせて、人々の関心や感情やメディアのその時期の注目度によってその価値を調整していくじゃんか。

数学の世界で名著と言われているものの場合、それを理解して良し悪しを決定するのは数学について、ある一定の理解の基準を満たしている人々になるから、名著と評されているものが正しく名著である確率は高くなる。

 

でも、国語の世界は母国語であれば、よくわかっていなくても、わかった風なことを言ったり、評価する立場になることは可能だよね。

場合によっちゃ、正しく理解している人が2割、わかっていない人が8割なんて状態で、物の良し悪しが決められることだってあるんだから。」

 

母 「言語は、錯覚や勘違いを含みやすいから、数学の世界の言葉を議論に取り入れるってどういうこと?」

 

息子は紙に一部が重なっている2つの円を描きました。

 

息子 「お母さんが、今、仕事上での考えている上での立ち位置っていうのは、集合のべん図で表すとこの重なっている部分にあたるんだよね。

それか、もうひとつ円を加えて、この3つ目のCの円を含む3つの円が重なる部分を除く、最初のAとBの円が重なっている部分ってことのなるのかもしれない。

つまり、数学の世界の図で描くと、それは当然過ぎるくらい当たり前のある部分なんだ。

 

でも、それが言語主体の話合いだけで進めていると、A派に属することが、そのままB派と重ならないことを意味するような関係しかないように受け取られがちなんだ。

 

数学は同時にいくつかの関係を表現できるけれど、言語はその都度、ひとつを選んで、表現するものだからね。

 

数学の世界ではAの方程式とBの方程式が存在するときに、問題によりけり、条件によりけりで、この場合はAで解くべきか、Bで解くべきか、

AB両方を複合させて解くべきか、AでもBでもダメなのか、AとBをベースにして全く新しいメタな解決法を必要としているのかっていう選択が、ごく当たり前の前提として存在している。

 

そこには流行も人の感情も、時代の空気も、その評価に参加する人々の能力のばらつきというものにも振り回されず客観的に物を考えていく道具としての数学の長所が生かせるんだ。

もちろんそうして全体を把握した上で思考するのも決断するのも人間なんだけど、議論の途中で言語の持っている欠陥によって問題の解決がうやむやになるなんてことはあまり起こらない。

 

ぼくが物を考えるときに、頭の中にマインドマップのようなものを思い浮かべるけれど、よくあるマインドマップのように中心があって、

それから枝葉を広げていくようなものではなくて、相関図のようにたくさんの中心があって、それらのどれが主体となるわけではなく矢印によって関係が示されてイメージなんだ。

そうしてまず、全てを平等に価値のある概念として、イメージ上に配置した上で、それらがどのような関係を創り出しているのか、矢印を行き来させて、考えていくんだよ。

社会学や世界情勢についてや、教育の問題なんかについて考えるときも、そうしや相関図やグラフや表やベん図や線分図なんかで、いったん感情を入れずに全ての情報を洗い出してみてから、

ファジーさや柔軟さを残した状態で、どのように感じて、どのように思うのか、考えを練っていくんだ」

 

夕食を取りながら、わたしは次のような思いを息子にこぼしました。

 

母 「教室で年上の子と年下の子が混ざっているグループを作ると、年下の子たちの親御さんは喜ぶけれど、年上の子の親御さんが不安になって、クラス替えを希望してくることが時々起こるのよ。

レッスンは、多くて4,5人という少人数制なので、学習内容は完全にそれぞれの子の個別の能力に対応しているし、それぞれの子の能力が最大限に伸びるように対応しているのに、それでも不安になる姿を見るとね……。

何でもお金で買える消費の時代になると、自分好みのお金で買うって経験ばかりが増えて、経験の幅が狭まるように思うわ。

 

たとえばね。教室で兄弟姉妹でレッスンに別々に来ている子を見ると、工作をしていると、上の子は誰に何を言われるでなく、上手にできたから妹や弟の分も作ってやりたいからもう一セット材料がほしいといったことを言うの。

それで、その子の妹や弟が来て工作作品を作ったときに、「上手にできたね~。お家でお姉ちゃんが貸してほしいなって言ったらどうしよう?」ってたずねると、口をとんがらせて、嫌だな~貸すの嫌~!と言うのよね。

いつも下の子の立場で可愛がられたり、もらったりする側しか体験したことがないから、自分が損をしてでも、自分以外の人の気持ちに配慮するなんて思いもよらないのよ。

 

一昔前なら、次々、自分より下のきょうだいは生まれるし、近所に年下の子がいるしで、年下の子と過ごす体験なんてどこにでも当たり前にあったんだけど……。

最近では、ひとりっ子や下の子として生まれたら、大きくなるまで、一度も年下の子たちと接する中で、年長者としての責任感に目覚めてリーダーシップを取ったり、年下の子に配慮したりする経験がないままで過ごす子も増えてきているのよ。

いろんな立場を体験するってね、時々、公園で年下の子と交流するときがあるといった程度では意味がないのよ。

さまざまな役割を体験するなかで、自分の義務や責任や誇りに目覚めてくるのに、今は、経験が買えるだけに、どの子も同年代の子と、自分が~!自分が~!と自分の得になるよう主張することしか体験できないのよね。

それでは、表面的な知能は伸びたように見えても、自分を律していく意欲が育たないわ。

そういうことが最終的には、学力が伸びない原因にもつながってくるはずよ」

そんなわたしの愚痴を聞いて、息子がこんなことを言いました。

 

息子 「うーん、お母さんのしている教室は特殊で、習い事というよりも大学とかの少人数のゼミとか研究室のようなところとか……といってぼくはまだ大学に通ったことがないから、ゼミがどんなものかちゃんと知らないんだけど、そんな特殊な場だからさ。

弓道部とか、美術部みたいな個人個人で能力を磨いていきつつ、集まっているクラブのような場でもあるじゃん。

でも、ごく当たり前の感覚として教室と名のつくところのイメージで、下の年齢の子たちと同じクラスで学ぶことに不安や不満を持つのは当然といえば当然の気持ちなんだと思う。

きっとそこには、学校の行き過ぎた平等主義が背景にあるんじゃないかな?

それが行き過ぎると、上から下に教える経験はあっても、上のものが下のものから学ぶ経験があるなんて想像もつかなくなるはずだよ。

お母さんの教室では、小グループで年上の立場を体験することで、リーダーシップを取ることや、尊敬を集めること、自己肯定感を高めること、

自分の立場を普段とは別の位置に置いて視野を広げること、自己コントロール力をつけること、

責任感に目覚めること、我慢や他者への配慮を学ぶことなんかが、その体験を通して得られるように工夫して、同時に個人的な能力は可能な限り伸びるようにしているんだよね。

その効果に対する実感をお母さんがいくら持っていたとしても、それを他の人に伝えるのは難しいように思うな。

だって、世の中にある教室と名つく場所が、学校のシステムに倣い過ぎていて、それ以外のイメージを想像しようもないところがあるから。

学校では、決まりきった形式を逸脱できないから、それぞれの能力に差がある子たちが集まっていたとしても、その場にいる子らに平等に同じ知識や課題を与えようとするよね。

生徒本位じゃないんだ。

だから、1回の講義で、ここからここまで学ぶと決まっているとすれば、それぞれの子がわかっていてもわかっていなくてもその内容はそれ以上にもならないし、それ以下にもならないよ。

そうした平等が、どこの世界にも浸透しているから、水泳教室のような子供向けの習い事にしても、輪切りにされて集められたクラスで、

もし自分より能力が下の子たちのクラスに入れば、やっぱり損をこうむることになるのは事実だし、リーダーシップの取り方や責任感を学べるわけでもないじゃん」

 

母 「そうね。そうしてどこもかしこも名目は違っても人としては同じような心の体験しかできない場ばかりになっているのは気になるけど……

でも、不安になる気持ちはきちんと理解しないとね」

 

息子 「教育って受けている側の立場から言うとさ、理想の子ども像や自分たちのあり方ってものが、その都度、流行や、メディアの報道や、

その時期の政治のあり方や考え方や事件や、その時期その時期の大人たちの気分のようなもので変わりすぎるからさ……

ほら、やんちゃでガキ大将のような子で冒険好きで面倒見のいい子をよしとしたかと思うと、

翌年には、物静かで読書好きで聞き分けのいい子をよしとして、次には創造力があって自由な発想ができるのがいいんだってしたりね。

そういう大人が子どもに求める像の変化を感じとりながらも、子どもが見ているものって、実際、生きている大人たちの姿でさ。

 

大人になれば勉強が必要ないって思って暮らしている大人が、いくら子どものときにしっかり勉強しないと将来、損をするからと脅したところで、

そこにある矛盾や大人の嘘くらいはどの子も、すぐに見抜いてしまうもんだよ。

大人にとって必要がない勉強が、子どもの自分たちにだけ必要だなんておかしすぎるってさ」


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