(忘れる前に記録しておきたいので会話記事が続いていますが、月曜には幼児教育の記事を書きますね)
息子の考えはたいてい意見というより、
物を作る側、クリエイター側の目線といったらいいのか……
「ゴミの中にこそ宝がある」という感覚が基本にあります。
ですから、不満といっても、それは「次に世の中が必要としているものは何か」という指針となる「宝のひとつ」にほかならないでしょう。
「そうした日常のゴミ(不満)をどう自分の作りたいものの方へ引き込んで料理するか……」
息子と会話していると、何を話しているときも、そこに焦点があたっているんだなと思います。
「偏差値の高い学校の人たちが集まっている掲示板ものぞいたけど、会話が生産的なわけじゃないんだ。
それがさ、TRPG(テーブルトークアールピージー)をする人同士の会話だと、ネット上でも、かなり生産的な会話が成り立っているんだ。
そうだ、やっぱり、これからは「読む」より「書く」のが大事なのかな?
多読多読って世間では言うけど、いっぱい読んでも理解していない人は多いんじゃないかな。
でもさ、TRPGしている人は、それぞれが自分で小説を作りつつ遊んでいるんで、能動的に「書く」人たちは、途中で会話を混ぜ返したりせずに会話が自然に創造的な流れに乗っているよ」
「そういえば、今日、絵画展の隙間時間に
『ハイコンセプト』って本を読んだら、そこにも物語ることの大切さが書いてあったわ。
そこで注目されていたのは、商品価値を上げる際に、
人の心が理解しやすく感情に訴えることができる物語が重要だって話
だったけど。
自分で小説を作るのって、右脳と左脳を同時に活性化するんじゃないかな?
『ハイコンセプト』では、これまでの時代では軽視されて、取るに足らないとみなされてきた能力、つまり創作力や共感、喜び、意義といった
右脳的な特質が、これからの世の中で大きく飛躍できるか
もがき苦しむことになるかを決める重要な要素だとあるの。」
息子は苦笑いしながら、
「右脳かー!ぼくはどっちかっていうと右脳寄りだし、右脳派を応援したい気はあるよ。でもさ、じゃあ、右脳が大事だって人ばかりでいろいろやり出すと、やっぱり左脳派の人で回っていた時期より悪い状態になって、もとの状態に逆戻りってなるんじゃないかな?」と言いました。
「確かに、右脳的な能力が大事にされる時代が来るって話はうれしいけど、
右脳を得意とする人のダメな部分や弱点って見過ごせないところがあるものね~。自分自身がダメダメだしね……」私もため息。
すると息子がひらめいたようにこう言いました。
「教育の場って、左脳的な訓練ばかりに偏っているけど、まず最初に右脳で理解できる枠組みがあってさ、つまり知識がなくても地頭だけで考えていけば解けるような学習があって、その中に左脳的な知識や訓練が組み込まれているようなものもあっていいと思うんだ。
仕事の現場に近い学習だよね。
それと、お母さんが工作させながらやっている教え方もそうだよね。
お母さんは、よく知らない人から見ると
右脳右脳した教育やってるなって見えるかもしれないけど、物作りの中に左脳的って言われるものを細かく含めているよね。
あ~それにしても、中途半端な言葉だな、右脳的とか左脳的とか……」
そう言って、ちょっと考え込んでいたかと思うと、
さらにひらめいたように、「そうだ!ここでも新しい言葉こそ大事なんだ。右脳的とか左脳的とか言う言葉は、あまりに誤解を生みやすしし、
正確じゃない。
簡単じゃないけど、今の時代がこの言葉に求めている概念に合った新しい言葉が必要だと思うよ」と続けました。
そう言えば、ずいぶん前にも息子は「新しい言葉が必要!」と言ってました。
たかが言葉……されど言葉……なんでしょうね。
言葉のせいで不毛な議論が続いて、変革や改革ができないってこともよくありますから。
↓(以前、新しい言葉の必要性について議論した記事です。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「私が子どもたちに接していると、どの子もいきいきと学んでいるのに、
他の人が教えるとイヤイヤするってことが多いんだけど、
その原因の大方がその日本人の概念とか言葉の問題に由来している気がするのよね」と話し出した私。
「まず、人の欠点や問題点、できないところを指摘する言葉や、今の問題を先の不安に結びつける言葉は、家庭教育であれ、学校教育であれ、
ごろごろしている状態……。
子どもがいれば、たちまち、そうした負の言葉はいくらでも湧いてくる感があるのよね。
でも、子どもを褒めて育てるとやたら言いながら、長所に着目する、良い部分を引き出す、得意分野を引き立てるような言葉も概念もほとんどないとも言えるの……。
私は、いつも子どもたちの良い部分に着目して、それを具体的に表現する方法を模索しているんだけど、
ほとんどの教育に関わる人が、自分のこうであって欲しい形にピッタリ合ってれば、
がんばったな、よくできたね、すごいな程度の言葉で、
子どもを褒めていると錯覚しているように見えるのよ。子どもを思うように誘導するために、掛け声感覚で褒めているようにも見える。
それじゃ、褒めるという行為そのものが、貧相なのよね」
息子もそれを面白そうに聞いていて、こんな返事が返ってきました。
「今の日本語の表現にない言葉や概念を、今もこれからも新しく生み出していく必要があるよね。
最近、現代文の評論で、そういう必要性を訴えているものを読んだところだよ。
日本は、思想にしても哲学にしても、今、主流になっているものを、
自分の文化の中で長い年月かけて育ててきたわけじゃないじゃん。
できあがったものを輸入して、わかった風に使っている、
まだ幼児の状態だよね。
だから、一見、完成度が高いように見えるこの文化にあっても、
既成概念を無限ループさせていくだけじゃいけないってことだよね。
足りなさを自覚して、
文化を育てていく、成長させていく意識がいるんだよね。
特に日頃、感じているのが、無駄って言葉の使い方なんだ。
学校でも会社でも、きまりきった形が重要になりすぎたせいだと思うけど、
無駄が大事、無駄も大事って言葉をよく目にするようなったんだけど……
そこで、ゆとりって言葉も大事になったり、悪者扱いされたりしてるんだろうけどさ、
無駄が大事だから、必要のない無駄なものを増やそうって
発想よりも、
無駄じゃないこれは有意義なものだ、価値あるものだと信じているもの自体が、
もしかして無駄なものかもしれないという発想を転換した見方がいると思うんだよ。
教育現場では、固定概念がありすぎて、そうした見方をせずに、実際、無駄なものを増やして、結局、無駄はやっぱり無駄だったという結果に終わるんだよね。
そうしたことを表現するのは日本語では難しそうだけど。
英語を勉強してて思うんだけど、
外国語を学ぶって、結局は外国の言葉と概念を取り入れることに意味があるんだなって。
だからいずれドイツ語を学んで、ドイツの哲学者の文章とかも原文で読んでみたいと思ってるんだ。
もちろん、今、手にしている翻訳本には、これ以上にないって名訳がついてるのだろうから、もしぼくが原文で読めるようになっても、肌で言語を感じる程度しかできないんだろうけどさ。
話が脱線したけど、お母さんが、他の人が目で見て価値を判定しにくい事柄で、
無駄と捉えられているものに、
無駄ではなく重要性を感じていて、それを使って
子どもたちの学習を楽しいものにしているとして、
お母さんが感覚で捉えている無駄は、無駄という言葉以外のもっと
新しい言葉や概念が必要なんじゃない?」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
息子と議論することで、普段、教室をする中でもやもやくすぶっている問題に答えを得ている私。
息子の方も、会話をするうちに、飛躍的な解決法に行き着くそうです。
だからこそ、ネット上でのさまざまな人たちと交わす会話も、
創造的で生産的な何かを生み出してくれるものになればいいのに……
と感じるんでしょうね。
会話と言えば、娘や息子が幼い頃から、交わした会話をちょこちょこ記録しているのですが、今見ても面白いです。
写真だけでなく、言葉や会話で子どもの今の姿を残しておくのも楽しいですよ。
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息子の考えはたいてい意見というより、
物を作る側、クリエイター側の目線といったらいいのか……
「ゴミの中にこそ宝がある」という感覚が基本にあります。
ですから、不満といっても、それは「次に世の中が必要としているものは何か」という指針となる「宝のひとつ」にほかならないでしょう。
「そうした日常のゴミ(不満)をどう自分の作りたいものの方へ引き込んで料理するか……」
息子と会話していると、何を話しているときも、そこに焦点があたっているんだなと思います。
「偏差値の高い学校の人たちが集まっている掲示板ものぞいたけど、会話が生産的なわけじゃないんだ。
それがさ、TRPG(テーブルトークアールピージー)をする人同士の会話だと、ネット上でも、かなり生産的な会話が成り立っているんだ。
そうだ、やっぱり、これからは「読む」より「書く」のが大事なのかな?
多読多読って世間では言うけど、いっぱい読んでも理解していない人は多いんじゃないかな。
でもさ、TRPGしている人は、それぞれが自分で小説を作りつつ遊んでいるんで、能動的に「書く」人たちは、途中で会話を混ぜ返したりせずに会話が自然に創造的な流れに乗っているよ」
「そういえば、今日、絵画展の隙間時間に
『ハイコンセプト』って本を読んだら、そこにも物語ることの大切さが書いてあったわ。
そこで注目されていたのは、商品価値を上げる際に、
人の心が理解しやすく感情に訴えることができる物語が重要だって話
だったけど。
自分で小説を作るのって、右脳と左脳を同時に活性化するんじゃないかな?
『ハイコンセプト』では、これまでの時代では軽視されて、取るに足らないとみなされてきた能力、つまり創作力や共感、喜び、意義といった
右脳的な特質が、これからの世の中で大きく飛躍できるか
もがき苦しむことになるかを決める重要な要素だとあるの。」
息子は苦笑いしながら、
「右脳かー!ぼくはどっちかっていうと右脳寄りだし、右脳派を応援したい気はあるよ。でもさ、じゃあ、右脳が大事だって人ばかりでいろいろやり出すと、やっぱり左脳派の人で回っていた時期より悪い状態になって、もとの状態に逆戻りってなるんじゃないかな?」と言いました。
「確かに、右脳的な能力が大事にされる時代が来るって話はうれしいけど、
右脳を得意とする人のダメな部分や弱点って見過ごせないところがあるものね~。自分自身がダメダメだしね……」私もため息。
すると息子がひらめいたようにこう言いました。
「教育の場って、左脳的な訓練ばかりに偏っているけど、まず最初に右脳で理解できる枠組みがあってさ、つまり知識がなくても地頭だけで考えていけば解けるような学習があって、その中に左脳的な知識や訓練が組み込まれているようなものもあっていいと思うんだ。
仕事の現場に近い学習だよね。
それと、お母さんが工作させながらやっている教え方もそうだよね。
お母さんは、よく知らない人から見ると
右脳右脳した教育やってるなって見えるかもしれないけど、物作りの中に左脳的って言われるものを細かく含めているよね。
あ~それにしても、中途半端な言葉だな、右脳的とか左脳的とか……」
そう言って、ちょっと考え込んでいたかと思うと、
さらにひらめいたように、「そうだ!ここでも新しい言葉こそ大事なんだ。右脳的とか左脳的とか言う言葉は、あまりに誤解を生みやすしし、
正確じゃない。
簡単じゃないけど、今の時代がこの言葉に求めている概念に合った新しい言葉が必要だと思うよ」と続けました。
そう言えば、ずいぶん前にも息子は「新しい言葉が必要!」と言ってました。
たかが言葉……されど言葉……なんでしょうね。
言葉のせいで不毛な議論が続いて、変革や改革ができないってこともよくありますから。
↓(以前、新しい言葉の必要性について議論した記事です。)
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「私が子どもたちに接していると、どの子もいきいきと学んでいるのに、
他の人が教えるとイヤイヤするってことが多いんだけど、
その原因の大方がその日本人の概念とか言葉の問題に由来している気がするのよね」と話し出した私。
「まず、人の欠点や問題点、できないところを指摘する言葉や、今の問題を先の不安に結びつける言葉は、家庭教育であれ、学校教育であれ、
ごろごろしている状態……。
子どもがいれば、たちまち、そうした負の言葉はいくらでも湧いてくる感があるのよね。
でも、子どもを褒めて育てるとやたら言いながら、長所に着目する、良い部分を引き出す、得意分野を引き立てるような言葉も概念もほとんどないとも言えるの……。
私は、いつも子どもたちの良い部分に着目して、それを具体的に表現する方法を模索しているんだけど、
ほとんどの教育に関わる人が、自分のこうであって欲しい形にピッタリ合ってれば、
がんばったな、よくできたね、すごいな程度の言葉で、
子どもを褒めていると錯覚しているように見えるのよ。子どもを思うように誘導するために、掛け声感覚で褒めているようにも見える。
それじゃ、褒めるという行為そのものが、貧相なのよね」
息子もそれを面白そうに聞いていて、こんな返事が返ってきました。
「今の日本語の表現にない言葉や概念を、今もこれからも新しく生み出していく必要があるよね。
最近、現代文の評論で、そういう必要性を訴えているものを読んだところだよ。
日本は、思想にしても哲学にしても、今、主流になっているものを、
自分の文化の中で長い年月かけて育ててきたわけじゃないじゃん。
できあがったものを輸入して、わかった風に使っている、
まだ幼児の状態だよね。
だから、一見、完成度が高いように見えるこの文化にあっても、
既成概念を無限ループさせていくだけじゃいけないってことだよね。
足りなさを自覚して、
文化を育てていく、成長させていく意識がいるんだよね。
特に日頃、感じているのが、無駄って言葉の使い方なんだ。
学校でも会社でも、きまりきった形が重要になりすぎたせいだと思うけど、
無駄が大事、無駄も大事って言葉をよく目にするようなったんだけど……
そこで、ゆとりって言葉も大事になったり、悪者扱いされたりしてるんだろうけどさ、
無駄が大事だから、必要のない無駄なものを増やそうって
発想よりも、
無駄じゃないこれは有意義なものだ、価値あるものだと信じているもの自体が、
もしかして無駄なものかもしれないという発想を転換した見方がいると思うんだよ。
教育現場では、固定概念がありすぎて、そうした見方をせずに、実際、無駄なものを増やして、結局、無駄はやっぱり無駄だったという結果に終わるんだよね。
そうしたことを表現するのは日本語では難しそうだけど。
英語を勉強してて思うんだけど、
外国語を学ぶって、結局は外国の言葉と概念を取り入れることに意味があるんだなって。
だからいずれドイツ語を学んで、ドイツの哲学者の文章とかも原文で読んでみたいと思ってるんだ。
もちろん、今、手にしている翻訳本には、これ以上にないって名訳がついてるのだろうから、もしぼくが原文で読めるようになっても、肌で言語を感じる程度しかできないんだろうけどさ。
話が脱線したけど、お母さんが、他の人が目で見て価値を判定しにくい事柄で、
無駄と捉えられているものに、
無駄ではなく重要性を感じていて、それを使って
子どもたちの学習を楽しいものにしているとして、
お母さんが感覚で捉えている無駄は、無駄という言葉以外のもっと
新しい言葉や概念が必要なんじゃない?」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
息子と議論することで、普段、教室をする中でもやもやくすぶっている問題に答えを得ている私。
息子の方も、会話をするうちに、飛躍的な解決法に行き着くそうです。
だからこそ、ネット上でのさまざまな人たちと交わす会話も、
創造的で生産的な何かを生み出してくれるものになればいいのに……
と感じるんでしょうね。
会話と言えば、娘や息子が幼い頃から、交わした会話をちょこちょこ記録しているのですが、今見ても面白いです。
写真だけでなく、言葉や会話で子どもの今の姿を残しておくのも楽しいですよ。
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ここにも新しい言葉や概念の必要性が出てきましたが、“使い古された言葉にも、現在世間で使っているニュアンスではなく、一旦原点に返って言葉の意味を考えることが今の時代必要だ”と言う内容の本を読んでいました。
また「持つ」教育「ある」教育の記事も、SQに付いての記事も、今まさに考える必要があるなと感じていた内容です。
今後時間を見つけて少しずつ過去にさかのぼり、読ませて頂こうと思っています。宝の山ですね。
私は対談集を読むのが好きですが、先生と息子さんとの会話もいつも興味深く感じています。対話には、化学反応というか、大きく思考が広がる瞬間があって、そこに面白さを感じているのだと思っています(先生の記事や本等を読むことは作者との対話だと考えています。一方通行のようでいて対話していると感じています)。それと、今私は子供たちとの会話が面白くなってきていると感じています。まだまだ初歩で、全員が、本音で、全力で、考えていることを出すというところまでは至っていませんが、ひとりひとりのちょっとしたアイデアや考えを聞いていると面白いのです。これからですね。もっともっと時間を取って、豊かなものにしたいです。