虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 続きの続き

2016-10-30 18:05:15 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

息子が学校の平等主義を批判していたのを受けて、わたしは息子に自分が小学校時代に体験したことと、それによって起こった自分の心に内部の体験と、それと関連する最近読んだ雑誌の記事について話しました。

 

小学6年生の時、ハンディーキャップを持っているひとりの女の子と同じクラスになったのです。

その子はたびたび教室を飛び出していき、担任の女の先生は、わたしたちに自習をするよう言い渡して、その子を追いかけていくことがありました。

わたしはその先生の担任になるまで、授業中に手遊びしているか、窓の外を眺めているか、ぼんやり空想に浸っているか、そんな困った生徒でした。

まぁ、その先生が担任の時も、クラスの友だち数名といっしょに授業中に交換日記を回していた容疑で『終わりの会』の裁判にかけられていたくらいですから、きちんとしているとは言い難かったのですが……。

 

その先生はただ教科書を教えるのではなくて、みなが自分の頭で考えるように促すように教える先生だったので、わたしなりにはちょっとはしゃんとして、夢中になって授業に参加するときが増えていました。

それはクラスの他の子らも同じで、クラスの中には勉強に対する、能動的にかかわろうとする態度や愛情のようなものが、満ちているように感じられました。

 

それで学力という面では、当時の親たちはおそらく不満を抱いてはいなかったはずですが、自習が増えている点へのクレームはたくさん出ていたようです。

何度か親たちと先生の意見交換の場や子どももいっしょに参加する形の説明会が持たれていました。

子どもたちも参加している説明会で、先生は黒板に2つの鍋の絵を描き、一方を塩の足りないスープ、もう一方を順調に煮立っている味が整っているスープなのだと言いました。

それから、わたしは一人ひとりの子を大切に思うし、一人ひとりの子の成長をていねいに見ていて、そこで、味が足りないものがあれば塩を足し、

おいしくできているものには塩は足さずに見守るようにしているのだと言いました。

先生がスープの比喩で、誰のことをどのように説明しようとしているのか、子どものわたしにもよくわかりました。

確かに授業は自習になることはあっても、放課後になると先生は、何だかしゃべりたい気持ちが溜まっている子がいるとそこに行ってゆっくり話を聞いていましたし、わたしたちが口げんかをして揉めると、どちらの言い分にも耳を傾けてくれました。

 

そんなわけで、わたしがその体験の中で考えていたことというのは、

「先生っていうのは、うちのお母さんとかより自分の考えとか信念ってものがあるんだな。灰谷健次郎のお話に出てくる人みたいだから。

うちのお母さんは、○さんのお母さん(自分の子を学校の劇の主役にするために、少しこすい手を使ったとうわさされていたクラスの子のお母さん)よりずっと普通のお母さんだと思っていたけど、ちょっと馬鹿なところがあるんだな。

その馬鹿ってどんな馬鹿かというと、「井の中の蛙大海を知らず」っていうことわざの蛙みたいな種類のお馬鹿加減で、いつも団地の前に集まってそこから見える世界が全ての世界のように思ってるから、あんな風に考えるんだな。

だって、学校に講演会に来た植村直己さんみたいに世界の果てまで冒険に出かけたとしたら、授業中に誰かが飛び出して行ったとか、自習が少し増えたくらいであんな大騒ぎするはずないもの。

先生が見ていないところで自習しているときも、みんなきちんと勉強しているのに。

わたしたちはもう6年生で、教科書を見れば字も読めるし、計算問題を解いていくくらい自分たちでできるのに。

それにきちんとしていなければ、クラス委員の子が騒いで学級会でみんなから責められるだろうに」

 

わたしは担任の先生が好きだったので、先生の肩を持つようなところがあったし、ちょうど思春期に差し掛かる時期で、それまで完全ですばらしい人のように見えた母の魅力が急に色あせて感じられるときでもあったので、そんな辛口批評が心に湧いたのでしょう。

 

ひと昔前のことでもあるので、先生が正しいのか親たちが正しいのか、賛否のほどは脇に置いておいて、この体験のなかで、わたしは、他人が見ていないところでもきちんと自分の義務を果たそうと思う責任感のようなものを意識しました。

また、少し視野や世界が広がったような気もしました。

 

親たちが危惧していたように、ハンディーキャップがある子がいっしょにいると、いっしょになって遊んだり怠けたりしたがるようなことはありませんでした。

先生のわたしたちに対する信頼感や期待にきちんと応えていこうとする気持ちがありましたから。

むしろ、わたしたち子どもにはそんな心など存在しなくて、人が見ていないところでは、まるでしつけのなっていない犬のように振舞うだろうと疑っている親たちに対して、ちょっと幻滅していました。

「じゃあ、わたしたちが国語の教科書で習っているものは何なんだろう?

わたしたちは、幼稚園のころ読んだ『ひとりでおるすばん』なんて絵本よりずっと複雑な心を扱った物語を習っているというのに……」

 

わたしは息子に、そんな子ども時代の体験と心で感じたことを話した後で、こんなエピソードも聞かせました。

「雑誌でこんな話を目にしたのよ。親の事情で病院での診断は受けていないものの、自閉症と読み障がいが重なっていると思われる子がいて、

養護教員が1年生のときから、教科書にふりがなをふる対応を続けていたそうなの。

それで、その子は4年生まで続けていたその対応のおかげで、何とか戸惑うことなく学校生活を続けていたんだって。

でも、それまで他の保護者から、どうしてその子だけ、ふりがなをふってもらえるのか? という苦情が届いていたらしくて、悪い対応例なんだけど、

特別支援教育コーディネーターの判断で、医療診断がないから特別な支援の打ち切り……ということになったらしいのよ。

診断がない子同士、不公平があっちゃいけないとかなんとか。

どんな平等感かって驚いてしまうんだけど。

 

同じ紙面に、生徒の学び合いを大事にしていた教師が授業中に解けた生徒が解けない生徒にわかりやすく教え合うという授業をしたところ、

他クラスより学習進度が遅れたそうで、親たちから、わからない子どもは放っておいて、授業を進めてほしい、と言われて辞職した話も載っていて、

勉強って、個別に他人より先に進むことなのか、子ども時代に学ぶことって、それだけなのかって、自分の子ども時代の親たちに

してもやっぱり心が狭かったな~と思いだして悲しくなったわ」

 

息子 「ぼくが小学生の頃、学校の先生たちは、勉強をさせたり、規則を守らせたりするために、年がら年中、損得勘定を刺激するようなことばかり口にしていてさ。

勉強しないければ……規則を守らなければ……将来、どんなに悪いことが起こり、他人から迫害されるような人生を歩むのか、繰り返し洗脳するように言い続けていたわけだけどさ。

そうして強迫概念を刷り込まれて成長していけば、そういう考えをする大人になるだろうし、そういう考え方をする大人に囲まれていれば、

勉強ができない人や規則を守れない人は迫害したっていい、切り捨てていけばいいと思うようになるよ。

でも、子どもって学校で習得する学習過程をこなしていく存在ってだけじゃなく、人間の活動全てに関わる無限の存在でもあるんだよね。

ひとことで子どもといったって、人間としての全ての要素を持っているんだから。

どんなに小さくたって、死ぬ苦しみも、生きるってことも、何が良くて何が悪いかと道徳的に判断していくことも、音楽も映画も、お金に関わることも、人とのつながりも、環境とのかかわりにしても……

そのどれもひとりの子どもに含まれているからね」

 

息子と話しこむうちに、息子自身はどのような学校教育を受けたいと感じてきたのか、どのようであればいいと考えているのか知りたくなって、それについてたずねました。

 

息子 「一度、勉強を損得勘定とつないでしまうと、そこから勉強自体の面白さ……つまりパズルを解くような学ぶ楽しさに気づいていくのは難しいもんだよ。

大人は、勉強しないと将来、こんな困ったことになる、こんな損をするといった損得勘定を刺激するような安易な動機付けをして、生徒たちを机に向かわせようとするけれど……

ぼくが学校で出会った先生たちのほとんどが、口を開けばそうした脅し文句を繰り返していたけれどさ。

 

現実に社会を見渡せば、頭がよくなることがそのまま幸福な人生を保障してくれるわけじゃないことくらい小学生にも見えているんだよ。

実際、かしこくなればなるほど厭世的な思いにとらわれて、無気力になっている人は多いよ。偉人の伝記を読んでも、ネットでの発言を見てもそれは顕著。

人と関わるのが億劫になったり、ささやかな善意を素直に喜べなかったり、日々の営みをつまらなくてくだらないことのように感じて、より単純なもので楽しめなくなっているんだ。

だからって頭がよくならない方がいいってわけじゃないけど、教える側や教育する側に、脅し文句に変わるもっと確かな教育のための哲学が必要だってことじゃないかな?」

 

母 「それなら、実際の教育現場はどのようになればいいと思うの?

現実に足りないものや改善点は何だと思うの?」

 

息子 「小学生って、足し算習って、かけ算習って……と、次々、新しい知識を教えられていくけれど、後から振り返ると、そうして6年間に何がどこまでできるようになったかなんて進歩よりも、

本当は習う内容なんてどうでもよくて、それを通して自分なりの勉強のやり方をきちんと身につけることができたかってことが、その後の出来不出来を決めていくと思うんだよ。

ぼくは小学校であれほど漢字を大量に書かされてもいっこうに覚えることができなかったのに、ある時から漢字を覚えるのが簡単になったときに気づいたんだけど。

たとえ100回書いて苦しい訓練を積んだところで無駄な努力は無駄なままで、それよりも1個の漢字を、ああ、こうしたら覚えられる、こうやってできるようになるんだってことを、

1回のプロセスの成功から身体で学ぶことが必要だとわかったんだ。

1個覚えるときに、どういう手順で、どういうプロセスで覚えたかわかったのかということを、あいまいなままにせず、きちんと自分で了解すれば、その後は急速に勉強が楽になる。

もし、教育の現場で、ひとつだけなおしたらいいことを挙げるとすれば、自分自身で学ぶ内面のプロセスに関する情報を増やすってことかな。

教える側も、子ども自身も。

たとえば、足し算、引き算を大量に計算カードで練習している子たちは、足し算ってどういう意味なのか、引き算ってどんなことなのか、

どういうときに成り立って、どのような不思議さや不可解さが含まれているのか、足すことと引くことでどんな可能性が生まれてくるのかといった

「1+1」というひとつの数式に関する情報をほとんど与えられていないよね。

考える機会すらない。

そんなにも情報が少ないままに、大量に覚えていくことで、自分でそれをわかるってプロセスがつかめないままでいる子は多いと思うよ。

そこに、なぜ、という問いが入り込む余白がないから」


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