大昔、研修医のころ、上の先生が手術した胃がんの患者が退院し、その数年後転移再発で入院した。その先生は転勤してすでにいなかったので、当時手術に立ち会った自分が受け持ちになった。
娘に病状を説明した時に「あの時の〇〇先生からは、『大丈夫』だっていわれたのに、なぜこんなことになるのか」とさんざん嫌味を言われた。
そしてその患者さんは亡くなったが、最後までその娘から「『大丈夫』っていわれたのに騙された」と会うたびに文句を言われた。
この時「大丈夫」という言葉は100%確実な場合以外では絶対使ってはいけない言葉なのだと強烈に叩きこまれたのである。以来、自分は患者さんを安心させる手立てとしての「大丈夫」という言葉は1回も使っていない。この時の強烈な刷り込みがあるのでこの言葉にトラウマがあるのかもしれない。
なので最近の会話の中で頻出する意味不明な使われ方をみるといわゆるアレルギー反応をおこしているのだろう。時に「どっちなんだよ、はっきり返事しろよぉ~」と言いたくなってしまうのだが、ぐっと噛みしめて、まあ、せいぜい「美しい日本語は守りましょう」程度の気持ちにとどめておく。
そうなると結局、大昔、母親の詭弁である説教も、今の自分のような物言いでしか表現できなかったのかもしれない。
娘に病状を説明した時に「あの時の〇〇先生からは、『大丈夫』だっていわれたのに、なぜこんなことになるのか」とさんざん嫌味を言われた。
そしてその患者さんは亡くなったが、最後までその娘から「『大丈夫』っていわれたのに騙された」と会うたびに文句を言われた。
この時「大丈夫」という言葉は100%確実な場合以外では絶対使ってはいけない言葉なのだと強烈に叩きこまれたのである。以来、自分は患者さんを安心させる手立てとしての「大丈夫」という言葉は1回も使っていない。この時の強烈な刷り込みがあるのでこの言葉にトラウマがあるのかもしれない。
なので最近の会話の中で頻出する意味不明な使われ方をみるといわゆるアレルギー反応をおこしているのだろう。時に「どっちなんだよ、はっきり返事しろよぉ~」と言いたくなってしまうのだが、ぐっと噛みしめて、まあ、せいぜい「美しい日本語は守りましょう」程度の気持ちにとどめておく。
そうなると結局、大昔、母親の詭弁である説教も、今の自分のような物言いでしか表現できなかったのかもしれない。