彼は、双極障害の薬を内服していたのである。多くの(ほとんどの)抗精神薬の類は内服しての運転を禁止している。特に彼の場合は「運転する時は内服していなかった」と報道された。ということは裏を返せばやはり普段は運転禁止薬を内服していたことになる。疑問に思うのは「運転しない時に内服する、運転する時は内服しない」と処方医が指示をしていたかどうかである。これがもし医師の指示ならば不適当である。あるいはそうでなければ自己判断で勝手にそうしていたのかもしれない。たとえばこれら抗精神薬は長期連用していた場合、たった1回内服をしなかったからといって、体内から薬効成分がすべてなくなるなんてことはあり得ない。血中半減期がわずか3時間程度の睡眠導入剤ですら連用していたなら「持越し作用」(翌午前中の判断力低下など)がみられるのである。ましてそれより強力である抗精神薬を連用していたなら、たった1回内服中止しただけで正常に車を運転できる判断力にまで回復することなどはありえないのである。そんなことは医師として常識である。そこを承知で「運転する時だけ飲まないで」などと指示していたとしたらこの医師はアウトである。
まず前項でもふれたが、バイク事故は、①二輪なので不安定で転倒しやすいこと ②生身の身体が高速移動することの2点から一度事故を起こせば運転手の損傷が甚大であることは自明の理である。ある意味、転倒した場合のケガの大きさは(死亡することも含めて)覚悟がいるのである。もちろんバイクは手軽であり、街中での渋滞中でも時間が短縮できる機動性から有形無形のメリットがある。そのためその存在自体を否定するものではない。しかし事故を起こした時の「覚悟」は4輪の比ではないことも二輪運転者は承知しておくべきである。その上で今回の事故であるが彼は双極障害で抗精神薬を服用していたとのこと。疾病の中で、てんかんは運転制限があるものの、双極性障害自体が制限対象にされているかは自分は知らない。しかし・・・。
4月22日、俳優の萩原流行さんがバイク事故で亡くなった。TVの報道では彼はずっと双極障害(躁うつ病)で加療していたらしい。彼は大型バイクで転倒し、そこを後続車にひかれたらしい。死因は心房破裂とのこと。ということはまあ損傷程度にもよるが、もし即死でなかったとしたら心タンポナーデで医療機関に搬送されたのであろう。自分も救急室開胸にて心房破裂の縫合処置を行ったこともあるが、それでも救命率は低い。さて双極障害で内服中であったというが「バイクを運転する時は薬を飲まなかった」と報道にあった。それを聞いて何やら釈然としないのであるが・・・。
今年のゴールデンウイークも終わりました。家庭で静養されたかたも、行楽地に行かれたかたもいらっしゃるでしょう。今年は人気行楽地である箱根山が噴火の恐れがあると警戒レベルが発令されました。大涌谷周辺が立ち入り禁止になったようです。まあ噴煙地を眺めるだけの景色なので1回見れば特に何回も見る様な景色ではないと思いますけども。しかし最近では外国からの旅行者なども増え国道が数kmにおよぶ大渋滞です。とりあえず人気観光スポットなのでしょうがありません。景色についてはさておき、あそこの名物である温泉卵は、あそこで作って、あそこでしか販売されていないのでいわばプレミア度はとても高いといえるでしょう。硫黄温泉で茹でるためか普通のゆで卵より風味はあるようです。あの地区一帯が立ち入り禁止のため、卵を茹でることができず卵が販売されていません。人気商品だけにそのことがちょっと残念なんですが・・・。
今回の最高裁の判決では、両親にも監督義務はないとの判断であった。どちらが正しいか正しくないかの問題ではない。法的な救済を求める遺族の感情も理解できる。しかし校庭で起きた事故において保護者がどのくらいの責任を負うのかと言うところも難しいところである。それよりも地裁の段階であるが、年端の行かない小学生も賠償責任があると遺族側から矢面に立たされたわけである。まだ思春期にも遠い子供に突き付けられた責任問題はかなり重いものであった。とりあえず判決で男児に責任はないとされたのであるが、一生この子供は精神的な十字架を背負わされたのである。それが原因でこの男児の精神的トラウマにならないことを祈るばかりである。このような場合でも、裁判と言うのは容赦なく誰にでも突きつけられてしまうものなのかと畏怖してしまう。
特にオートバイでは咄嗟の判断力や瞬発力や、傾いた時の復元にコントロール力が必要とされる。オートバイは手軽な乗り物であるが生身をむき出しで高速移動する乗り物である。倒れれば大けがをすることは自明の理である。これを85歳の方が上手にコントロールできるかどうかは極めて難しい所であろう。しかも85歳が「寝たきり」になれば致命的であることも明らかである。すべての流れは容易に想像がつくのである。そしてきっかけは小学生の蹴ったボールであろうが、それを避けようとして転倒したのである。遺族の被害者感情も分からない訳ではない。しかし道路走行中はありとあらゆる危険な状況が秒単位で出現するのである。運転者はそれを回避する必要があり、そのための運動能力は最初から備わっていることが期待されるべきものある。暦年齢と生物学的年齢には個人差が大きい。高齢であっても医学的に生物学的年齢としては若い方もいらっしゃるのは事実である。しかし85歳という年齢では、やはり運転能力はどの程度なのか?と少し考えてしまう。
男児の父親は「息子は自暴自棄になりかけた時もあった」と述べている。法的救済を求める遺族感情も理解できない訳ではない。しかし高齢者は元気な方であっても一度寝たきりになると、あっと言う間に肺炎になったり、認知症に陥ったりすることはごく普通に見られるのである。普段健康であっても、高齢の方は所謂「予備力」がないので、ケガや病気をしたときに立ち直れないのである。だから我々医療機関では高齢者に対し「寝たきりにさせないような」指導を普段の外来で毎日しているのである。また最近では高齢の方が自らすすんで運転免許の返納をしているようである。この事件では85歳の亡くなった運転手の方はオートバイ運転中であった。もちろん乗用車よりも二輪車の方がはるかに危険度が高い乗り物である。