六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

生きてるうちに読めない小説! その真相の告白!老害?重なるミス。

2022-05-23 16:09:43 | 書評
 ヴィルジニー・デパントの小説を手にしたのは偶然だった。
 いつものように岐阜県図書館の新着図書の棚を見ていると、『アポカリプス・ベイビー』という書が目に付き、訳者の「あとがき」を当たってみると、2010年にミシェル・ウェルベックとフランスの芥川賞のようなゴンクール賞を争い、惜しくも次点だった著者とある。

 このウェルベックであるが、新聞の図書欄で見かけ、面白そうなので岐阜県図書館にあるものを借りたところ、さまざまなフェイクやテロルに揺れるフランスを活写していて面白かったので、『セロトニン』『服従』『地図と領土』『ある島の可能性』『素粒子』など図書館にある彼のものはほとん読破した。
 彼の小説は、レイシズムやミソジニー、フェイクなどなど、いわゆるポリティカル・コレクトネスなどどこ吹く風といった描写が続くのだが、それらの描写を通じて、パリの取り澄ました表層の下にあふれるまさに「他なるもの」の蠢きやそのテロルとしての顕現を掘り起こしてゆく。

               


 そのウェルベックと肩を並べるというのだからヴィルジニー・デパントも面白いに違いないと早速借り出してきたのが『アポカリプス・ベイビー』であった。
 大雑把にいうと、父親から素行調査を依頼されていた15歳の少女・ヴァランティーヌに捲かれるのみか失踪を許してしまった女性探偵が、もう少し野性的な女性探偵ハイエナの手を借りて少女を追いかけるという追跡ロードムービーのような筋立てである。
 その叙述は、段落が代わるごとに記述の主体がそれぞれの登場人物に変わるという形式で、事態の進行がそれぞれの人物の思いを含む重層的なものであることが伝わる。物語の展開に従い、当然、重要人物ほど記述機会が多くなる。

 ここで、恥しながら私自身の勝手な思い込みのミスについて告白すべきだろう。
 この小説を読み始めてしばらくして、どこか違和感を感じて作家の名前をあらためてググッてみて愕然とした。この小説のややワイルドな表現や、ウェルベックなみのポリティカル・コレクトネス無視の記述スタイルからして、これは当然男性の手によるものだとばかり思っていたのだが、それが大間違いで、作者は女性だったのだ。

                   

 
 しかも、その経歴そのものがひとつの物語でもあるのだ。
 彼女は、フランスの労働者階級の家庭に育ち、15歳の折、両親は彼女の意思に反して彼女を精神科病院に入院させたというのだ。その後の少女時代はヒッチハイクをしたり、ロックバンドを追いかけたりしていたが、17歳のとき、友人とヒッチハイクをしているとき、ライフルを持った3人の若者に脅され、輪姦されるという被害に遭ったという。そして成人後は、メイド、「マッサージパーラー」やのぞき小屋での売春婦、レコード店の販売員、フリーランスのロックジャーナリスト、ポルノ映画評論家をしていたというのだ。そして24歳で小説家としてデビューしたという。

 私の間違いは、まずは外国人の名前につき、その男女の区別がつかないという無知によるもの、そして、ワイルドでハードボイル調の描写は男性によるものというなんの根拠もない誤った先入観によるものであった。
 しかし、私が「ん?」と思ったのは、ミソジニー風の表現が出てきたり、いわゆる「ヴィアン」がかなりのウエイトで出てくるのだが、その描出の仕方が男性のそれではないような気がしたからだった(と、ひとまずは私のミスを取り繕うことにしておこう)。

 小説の方に戻ろう。二人の女性探偵の追求は、パリを離れスペインのバルセロナへ至り、少女ヴァランティーヌを連れ戻すという任務には一応成功する。しかし、この少女は父親のもとには帰らなかった。永久に・・・・。この少女が身を挺した大惨事、まさにカタストロフィでありアポカリプスであった。
 しかもそれを引き起こした方法というのがまったくもって奇想天外なのであるが、まったくありえないとはいえないのが現代なのだ。
 
 なお、2010年に出版された(日本での翻訳は2021年)この小説は、その後、フランスを揺るがしたテロルの連鎖を予告したものとしての評価もあるという。

 この小説が面白かったので、このデパントのもの2冊を読んだ。
 『ヴェルノン・クロニクル 1「with the lights out 」』と『ヴェルノン・クロニクル 2「Just like Heaven」』だ。2冊合わせると700ページを超えるが、まあなんとかなるだろうと思って読んだ。

               


 「1」の方は、かつてパリでロックを中心とした音楽愛好家たちにその品揃えの質量の豊かさで尊重されていたレコード店の店主ヴェルノンが、人々の音楽需要の形態の変化により、閉店へと追い込まれ、新しい職に就くこともできず、かつての友人たちの元を転々として泊まり歩くのだが、ついには泊めてくれるところもなくなり、ホームレスへと至る過程を述べる。

 叙述のスタイルは、『アポカリプス・ベイビー』と同様、ヴェルノンと知り合った多数の人間のそれぞれを語り手として進行してゆく。それぞれの人達は、音楽の趣向、性愛のタイプ、ポルノ・DV・ドラッグなどへの向き合いを異にしながら生きている。「男も女もLGBTも、金持ちも貧乏人も、移民も難民も、老いも若きも、現代という壺の中に投げ込まれ掻き混ぜられ、毒と血と体液を塗され、日々生きている」(同書の感想文より)。
 こうした群衆の叙述を通じてその時代の多様性を描写してゆく作風は、評論家をして、デパントを「現代のバルザック(1799~1850)」と言わしめるほどてある。 

 「2」の方は、すっかりホームレスの地位に落ち着き、もはや普通の家屋に泊めてもらうことすら負担に感じるようになったヴェルノンが登場するが、問題は彼が唯一持っていた、いまは亡き友人にして伝説のロックスター・アレックス・ブリーチの遺言とも言える独白を録画したカセットデッキの争奪戦と、その公開をめぐる話となる。

               


 このカセットのなかでアレックスは、映画界で権力をもつディレクターが一人の女性をなぶり殺しにした事実を告発している。それを巡って復讐劇なども出てくるが、問題は、このカセットを観た限られた人たちの間に、ヴェルノンを中心とした緩やかなサークルが出現し、「1」でヴェルノンが泊まり歩いた人々、それを断った人たち、その後、偶然の機会で出会った周辺の人々を含み、とくにこれといった目標をもたない「無為の共同体」のようなものが出来上がったことだ。

 これについて、ヴェルノンがなにか能動的な働きかけをしてるわけではない。ただし、彼には長年のレコード屋の経験を経ての音楽の評価能力、受容能力があり、それらを生かしたディスクジョッキーとしての音楽の選択能力は抜群で、彼がDJを務めるパーティや集まりに参加した面々はすっかりその虜になり、気づけばヴェルノンを取り巻く「無為の共同体」の一員になっているのだ。

 この共同体は、ホームレスとなったヴェルノンの居場所の公園に集まる少数の集団にすぎない。そして、この集団がどうなってゆくのか、それは不明のまま小説は終わる。

 ここで今一度、私自身の愚かさを告白しなければならない。
 デパントの小説、『ヴェルノン・シリーズ 1・2』の700ページ超のものを読んだといった。たしかにその通り読んだ。しかし、この小説は私が当初考えたように、「1・2」がいわゆる「上・下」ではなく、「3」へと続くのだった。しかも、それに気づいたのは「2」をほとんど読み終える頃だったのだ。

 だったら、「3」を読めばいいだけの話だろうということになる。しかし、しかし、しかしだ、フランスではもう「3」は出版されている(2017)ようなのだが、邦訳はまだないのだ
 いずれ邦訳は出るだろう。しかし、それまでにこちらの寿命がもつかどうかが問題なのだ。

【お願い】私が逝ったあとでこの小説の「3」を読んだ方は、私の墓前でその概要でけっこうですから、教えて下さい。

 『アポカリプス・ベイビー』 齋藤可津子:訳  早川書房
 『ヴェルノン・クロニクル 1「with the lights out」』 博多かおる:訳 早川書房 
 『ヴェルノン・クロニクル 2「Just like Heaven」』  博多かおる:訳 早川書房 
 ヴェルノン・クロニクル 3』 日本語訳未刊

 

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タナハシ・コーツ『ウオーターダンサー』を読む アメリカの明暗について

2022-02-21 02:10:21 | 書評

 おそらくこういう書の選び方はあまり尋常ではないかもしれない。作者の名前に惹かれたのである。
 図書館の新着図書の棚で、タナハシ・コーツという著者の小説を見つけた。アメリカの小説ということで、 カズオ・イシグロが日系イギリス人であるように、日系のアメリカ人だと思った。しかも黒人だということで余計興味を惹いた。

 そればかりではないこのタナハシに対しての思い入れがあったのだ。それは私の母の旧姓がタナハシであり、その母の実家であるタナハシ家の敷地内 に1944年から50年までの6年間、私は疎開生活を送っていたからである。要するに私はタナハシの孫なのである。

 タナハシは日本では姓名の姓に相当するが、しかしこの書の表示においてはタナハシは名に相当するように書かれている。それにいささかの違和感をもったのだがそれもそのはず、このタナハシは日本語とは何の関わりもなくアフリカのある地方にある名前だとのことであった。

              

 こんな馬鹿げた 前置きはともかく、このタナハシ・コーツは私が知らないだけでアメリカでは評論やドキュメンタリー風の作品でとても有名な文筆家ということである。特に自分のルーツである黒人問題に 関する叙述では極めて高い評価を受けているとのことであった。だから私が目に止めたのは小説としては彼のはじめても作品だが、やはり黒人問題を主体としたものだった。

 その目次やあとがきなどをみて、やはり借りようと決意したのはちょうど昨年の春前後にアメリカの長編小説を2冊ほど読んでいて、それらのテーマと今回のタナハシの小説 『ウォーターダンサー』とが深い関わりを持つものであることを確信したからである。

 そしてそれは的中した。昨年読んだアメリカの黒人作家、コルソン・ホワイトヘッドの『地下鉄道』と『ニッケルボーイズ』はどんぴしゃり、この『ウォーターダンサー』に呼応するのであると確信した。
 『地下鉄道』と『ニッケルボーイズ』については、昨年私が記した文章のURLを文末に貼り付けておくのでみていただきたいが、ここでは『ウォーターダンサー』について多少のネタバレも承知で(かといって後でそれを読む人の興を削がぬ程度に)述べてみよう。

         

 舞台は19世紀中盤のバージニア州の疲弊したタバコ農場で、ハイラムという若い奴隷が主人公。彼は奴隷主が女奴隷に産ませた子供である。にもかからずその母は彼が幼い頃、別の地域に売られれてしまう。 
 この農場は無計画な耕作によりすでに土地が痩せてしまって生産性が極めて低く、農園主たちはこれまでで保有 していた奴隷を売り払うことによってそのぜいたくな暮らしを維持しているというまさに退廃的な状況にある。

 主人公ハイラムは、やはり自分の子供を売られてしまった老女シーナを頼りにそのもとで暮らすが、やがて奴隷主の息子つまりその農場主の本妻(彼女はすでに死去している)との間にできた子供、メイナードの召使いとして働くことを命じられる。ようするに自分の異母兄にあたるのだが、その身分は使用者と奴隷ということで変わるところはない。

 ハイラムには、生まれつき、その見聞を余さず記憶するという特殊能力があり、それが兄の家庭教師である白人男性の目に止まり、親密な教育を受けることとなる。この家庭教師とはさらにまたまったく違うシュチエーションで出会うことになるだろう。

          

 前半はそうした彼の生活、老いてはいるが誇り高いシーナ、彼が思いを寄せる若き女性奴隷のソフィアなどが描かれる。ソフィアは白人の所有でもなく、かといって黒人の誰かの所有でもなく、個としての自分を貫こうとする近代的女性として登場する。

 さまざまな成り行きで、ハイラムとソフィアはその農園からの脱出を試みるが、しかし、無残にも賞金稼ぎの奴隷ハンターに捕獲されてしまう。
 そしてハイラムは別の所有者に買い取られる。

 後半はそれによって著しく変化をしたハイラムの環境が描かれるが、今度は黒人奴隷たちを救出する側に回っての活動である。それは南部の奴隷たちを北部へと逃亡させるために尽力する「地下鉄道」と呼ばれる秘密結社であり、ハイラムはその一員となる。

         
            赤い線が「地下列車」の工作員が利用した南部から北部への奴隷逃走ルート

 これは、コルソン・ホワイトヘッドの小説『地下鉄道』では、南から北へアメリカ大陸の地下を走る列車を描写してファンタスティックであったが、実際にはそんな路線はなく、ただ複数の逃亡ルートが用意され、その要所要所を白人・黒人たちの結社員が固めていたにすぎない。ただし、それらのルートの管理は、車掌、駅、駅長、乗客などなど、鉄道であるかのように組織されていた。

 主人公ハイラムは、子どもの頃からの特殊能力を磨き上げることによって、リアルな現実を超えた救出能力を身につけてゆく。それは「導引」と名付けられた特殊能力なのだが、これは西洋合理主義を超えたある種の超能力といっていいものである。

 詳細は小説をお読みいただくほかはないが、ある時はとてもリアルであり、また時にはロマンティックであり、またファンタジーに溢れていている瞬間もあって、400ページがアッという間に進む。

 ここに表出されたアメリカの暗部と、にもかかわらずそれと戦う強固な意志との混在、これが現代のアメリカ まで引き継がれるアメリカの明暗のありようを象徴している。
 
 世界資本主義の総本山。軍備大国として世界を睥睨するする警察国家としての面構え。征く先々で西洋合理主義的な価値観を押し付ける尊大さ。ついでながら、その尊大さに敗戦時の日本は右から左まで何の抵抗もなく屈服したのだった。それをよしとしてアメリかは、軍事力で制圧した国々に対し、日本で行った同じ手法に及んでいる。ヴェトナムで、アフガンで、イラクで・・・・。
 しかし、その試みは民衆の抵抗に合い、至るところで失敗している。日本のだらしなさが目立つ成り行きではある。

             

 とはいえ私は、ゴリゴリの反米主義者などではない。むしろ、アメリカにはある種の可能性をみている。この小説の「地下鉄道」が象徴するように、アメリカ的な悪には、それにアゲインストする運動が必ずといっていいほどついてまわる。
 南北戦争を経由し、さらには戦後の幾度かの運動の波によって、黒人差別は軽減されつつあるとはいえ、なおしぶとく残存している。

 2008年のオバマ大統領の実現は、感動的な出来事だった。19世紀にはまだ家畜扱いだった人種がトップにまで上り詰めたのだから。
 しかし、これはまた、反動をも呼び込むものだった。コアな共和党員はその法案の是非に関わらず、オバマの提案にはすべて反対し、その後登場した白人プアー層を支持基盤とするトランプは、「アメリカ」・ファーストを掲げたが、この「アメリカ」のなかには黒人を始めとする異民族が含まれることはなく、むしろ、排除、抑圧の対象であった。

 トランプは、国境を壁で閉ざすとともに内部の異民族、異人種への攻撃を強めた。黒人が容易に殺されるような事件もそんな中で起こり、今日のBlack Lives Matterにつながる問題が再度提起されざるをえなかった。

 この小説もその路線でのものであり、黒人問題に限らず、アメリカのプアーな層へのケアーも含まれていそうである。

 作者、タナハシ・コーツの父は、1960年代から70年代にかけて、黒人による解放闘争を呼びかけたブラックパンサー党のコアな党員であり活動家であった。
 また、タナハシ・コーツは、過去の大統領選では、バーニー・サンダース議員を支持している。

■以下に、昨年読んだコルソン・ホワイトヘッドの『地下鉄道』と『ニッケルボーイズ』についての感想文を掲げておく。

 https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20210322

 https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20210513
 

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わかっていそうでわからない「文学」って・・・・。佐々木敦を読む。

2021-10-15 15:18:18 | 書評

 いわゆる文学には暗い方なのです。
 ときに、過去に読んで面白かった作家のものを目にしたり、あるいは論文調のものばかりでもつかれるからと、図書館の新着書の中にある面白そうなものをなんの前提知識もないのに借りてきたりが私と文学との接触法にすぎません。
 だから、たとえそれが、いわゆる「純文学」といわれるものであっても、私の読書態度は極めてエンタメ的だといえます。

                

 そんな中途半端な私に、友人からの一冊の書が届きました。よければ目を通してぐらいでそんなに積極的に進められたわけではありません。
 でもそれが良かったのです。文学の精髄を極めようとするつもりなどまったくない私が、文学だとか小説だとかいわれている分野は一体どうなっているのか、今日、どんなものがどう読まれているのかを野次馬的に知るには適した書だと思ったのです。

 著者の佐々木敦(1964~)は名古屋出身の人だが、映画評論から文芸評論、音楽活動と広い関心を持ち、いわゆる文学プロパーの人ではありません。
 この書の表紙から見るに、いかにも文学を対象としたハウツーものといった感じで、その意味では、中途半端な私を啓蒙してくれるかもしれないという期待がもてます。
 なお「ニッポンの文学」といっても、その対象期間は70年代以降の半世紀ほどに限られています。

 プロローグで彼は、文学と文学でないものの区分を「芥川賞」と「直木賞」の対比で始めます。ようするに、芥川賞の対象はいわゆる「純文学」であり、直木賞はそれ以外のエンタメ的要素の小説ということになっています。
 では、芥川賞はどのようにして選ばれるかというと、基本的に「文芸誌」と称する「純文学誌」に掲載された新人作家の作品の中から選ばれるといいます。しかも、この文芸誌は限定されていて、具体的には、新潮社の「新潮」、文藝春秋の「文學界」、講談社の「群像」、集英社の「すばる」、河出書房の「文藝」(これは季刊誌)の五誌だということです。

 では、これら文芸誌はどのような基準で小説を載せているのかというと、いわゆる純文学と言われるものをです。その場合、純文学とは「純文学ではないものではないもの」、つまり「純文学とは純文学である」という完全なトートロジーに陥っていることになります。

 しかし、これらは表面的な区分のための区分であることから生じています。というのは、直木賞でデビューしてきた作家が純文学風の作品を書いたり、芥川賞でデビューした作家がエンタメ風のものを書くことはじゅうぶんありますし、両賞とは無縁の幾多の小説のそれぞれをきちんと分類することなどは不可能なのです。

             

 著者は、そうしたトートロジーのどん詰まりから出発しながら、文学をより開かれた視野のうちで捉え返そうとします。
 それは小説という多様性を含んだ分野を、各ジャンルの併存と交流のような形でみてゆくことです。それは、例えば音楽の受容に似ています。クラシックやジャズ、ロックやフォーク(民謡)、時折々の流行音楽などなどは、そのジャンルごとにファンを集めるとともに、横断的に影響を与え合い、受容する人も、必ずしもひとつのジャンルに限定されません。
 あるいは逆に、クラシックのうちでもバロックないしはそれ以前しか聴かないというマニアックな人、ベートーヴェンにしか興味のない人、ある指揮者、ないしは演奏家にしか・・・・という人もいて、これはまた、小説や文芸作品の受容に似ています。

 これらを前提とし、著者は1970年代を起点として文学作品の傾向の変遷、ミステリーやSF をも網羅した各作品の推移、サブカルと「本格カルチャー」?との関連、などなどを膨大な作品群に触れながら述べてゆきます。

 正直いって私はこれらの作品を全く読んではいません。かろうじて、その作家の名前を知っていたりするぐらいですが、この半世紀、どんな作家がどのように現れて、どんな位置づけにあるかの相関図のようなものがおぼろげながら感得されます。
 そして、なによりもそれらは読書案内的な役割を果たしてくれます。とりわけ、推理小説部門やSFのなかには食指をそそるものが結構あります。

                 

 最後の結語部分で、著者は今一度、文学のトートロジーに触れ、「文学」を「文学は文学である」から開放するための方策を提言します。
 それは文学のうちにSFもミステリーもエンタメもライトノベルも放り込み、それとともに、「文学」もあらゆる「ジャンル小説」に放り込んでゆくことです。それに続けて著者は言います。

「〈文学〉の相対化をもっともっと押し進め、そうすることで、〈文学〉によって他の〈小説〉たちを相対化してゆくわけです。
 ここ数十年間のうちに起こってきたのは、そもそもそういうことでした。この押し止めようのない流れをむしろ逆手に取って、〈文学の相対化〉を〈文学による相対化〉に反転してしまうこと。〈ニッポンの文学〉を〈ニッポンの小説〉に解消するのと同時に、〈ニッポンの小説〉を〈ニッポンの文学〉にまるごと変容させてしまうこと。〈文学〉と〈小説〉が、いっそのこと完全なイコールで結ばれるまでシェイクし続けること。
 そしてついに両者の区別がつかなくなった時、むしろかつて〈文学〉と呼ばれていたはずの何か、われわれが躊躇なく〈文学〉と呼ぶことのできた何かが、或る新鮮な懐かしさと、懐かしい新しさとともに蘇ってくるのではないかと思うのです。そしてそうなるためのヒントは、これまで語ってきた沢山の過去の営みと試みのうちに、色々と見つけ出すことができるのではないでしょうか?」

 とまあ、こんなところですが、この結論部分は具体的にはどうなんでしょう。今ひとつ現実的なイメージが湧いてこない感もあります。

 私自身の読後感からいえば、ここ半世紀、〈ニッポン〉の小説とうのはどのように推移した来たのかのガイドラインが示されていて、そのなかでの注目すべき各作品(純文学にとらわれずミステリーやSFを含めて)を網羅され、広い意味での読書案内にもなりそうだということです。


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台湾の推理小説を読む 『台北プライベートアイ』紀蔚然

2021-10-08 01:34:19 | 書評

 ひょんなことから台湾の推理小説を読むこととなった。ひょんなことというのは、それが推理小説であることは知らなかったからである。
 
 話はまだ非常事態宣言下にあった先月に遡る。書架が閲覧できず、電話とネットで予約した書のみが借りられる岐阜県図書館で、当てずっぽうで新着図書の中から選んだ台湾の現代小説、『複眼人』が結構面白かったので(これについては拙ブログで書いている https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20210916)、その余勢をかってやはり新着図書の中から台湾の作家のものを選んで借りたのであった。

                

 それがこの『台北プライベートアイ』であった。
 主人公の呉誠(ウーチェン)は演劇学の大学教授であり、自ら書いた脚本、手掛けた演劇プロジェクトも多くあったにもかかわらず、それらの名声をすべてなげうって職も辞し、下町の一角に「私立探偵」というダサい看板を掲げる。
 このシチュエーションが面白いのは、この小説の作者、紀蔚然(キウツゼン)のキャリアとほとんど同一なのである。紀蔚然もまた、大学教授であり劇作家の地位をなげうって小説を書き始めた。

             

 この小説のなかで私立探偵の呉誠が解決する事件は二つである。まず最初は、多感な中学生の少女が、突然父親に心を閉ざす事態の解明だが、単純な不倫物語と思われた事件がある社会性をもったものとして解明される。

 しかしこれは小手調べのようなもので、第二の事件の方がメインをなす。ここでは、連続殺人事件が探偵・呉誠の住まう地域で発生し、なんと、その容疑者に探偵役の呉誠自身が陥ることとなる。
 そこからどう抜け出て、真犯人にたどり着くかがこの小説の骨子になる。

 暗号や謎解きという本格推理の要素ももつが、行動を厭わないハードボイルドの要素ももつ。
 しかし、最も目立つのは、心理的、実存的要素で、冒頭での呉誠が探偵になる動機(=作者が小説家になる動機と重複?)の説明や、彼自身の心理的疾患の告白、それに彼を陥れるなど彼に挑戦する真犯人の心理的動機などがこの小説を彩る。

                            

 これら事件の解決の過程を通じて、彼がアカデミズムの世界から下町の下世話な人間関係に馴染んでゆく経緯は、ある種共感はあるものの、同時に安易な同一性の形成ではという疑問も残してしまう。

 謎解きの推理小説としては結構面白かった。


『台北プライベートアイ』紀蔚然(キウツゼン)訳:松山むつみ 文藝春秋

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アンネが弁護士になったら・・・・野間美喜子『向日葵は永遠に』を読む

2021-09-26 16:13:24 | 書評

 恥ずかしながら高校生から大学の前半にかけて、演劇部に所属してたことがある。持ち前の美貌にして端麗な容姿にも関わらず、高校時代の二度ほど(全部主役ですぞ!)を除いては舞台に立ったことはない。
 生意気ながら、大学では演出志望だったからである。二年生まで在籍したが、上級生のもとで演出助手を務めた後、三度めの公演では舞台監督を務めた。
 
 演出がその芝居全体をあるコンセプトのもとに作り上げるとしたら、舞台監督はそのイメージを現実に舞台に載せる手順などをすべて取り計らう。だから公演当日は、演出家は客席で腕を組んで舞台を見つめたり出来るが、ブタカン(舞台監督)はもっとも多忙といってよい。幕開きから役者のスタンバイ、出番、舞台転換、などすべてをチェックし、舞台裾からキューを出す。音楽や効果音の出だしや終りも指示する。脚本はそれら必要事項の赤ペンがいっぱいで、それに従っていちいちキューを出す。それにより脚本と演出家のイメージが具体的に舞台上で開花する。

 前置きが長くなったが、私がブタカンを務めたのはあの『アンネの日記』を舞台脚本としたものであった。多分それは、1956年に「劇団民藝」が公演したものと同じ脚本ではなかったかと思う。その折、主役のアンネ・フランクを演じたのが、ここに述べる野間美喜子さんであった。彼女は私より学年がひとつ下で、さほど大柄ではないおかっぱ頭、そして芝居のセンスは、アンネに最適であったと思われる。
 公演当日、私は舞台裏を駆けずり回り、オヤこんなはずではという小さなアクシデントと闘いながらもなんとかその任務を全うした。野間さんは、臆することなく堂々とアンネ・フランクを演じきった。

              

 もし、アンネ・フランクがナチスの毒牙にかかることなく成長したらどんな女性になっていたろうと想像するとき、私のイメージはどうしてもあの折の野間美喜子さんへと還ってゆく。野間さんは在学中に司法試験を突破し、その後弁護士になった。
 だからその想像は、アンネ・フランクが弁護士になったとしたら、どうだろうということへと至るのだ。

 あの想像力豊かな少女・アンネはおそらくその性格を生かして、まさに想像力と創造力をもった懐の広い弁護士になったろうと思われる。そして、野間さんもそうなった。
 彼女や私が物心つき、小学校(当時は国民学校)の頃、日本の敗戦があり、やがて、その反省の上に新たな憲法が制定された。彼女はその憲法の趣旨をまさに市民そのものの平和で平等で民主的な生活に活かすべく、その生涯を貫いた。
 そして、昨年、その生を終えた。

              

 ここに『向日葵は永遠に(ひまわりはとわに)』という書がある。これは長女の下方映子さんがまとめられた野間美喜子さん自身の残した文書による冊子である。そのサブタイトルは「平和憲法一期生の八十年」とある。「向日葵」は写真に見るよに、野間さんのイメージに似つかわしい。いつも、陽射しのある方向へと眼差しを定めて歩んできた彼女の経歴とも。

 彼女の功績を数え上げるのに法曹会に暗い私はふさわしくないのだが、この書の「Ⅰ 人と国家と法律と」収められたそれぞれ短い文章からも、 平和や原発、教科書問題、知る権利の問題、表現の自由の問題、国民の健康保持の問題などなど平和と民主主義と人権の灯を掲げ続けた彼女の足跡がよく分かる。

 「Ⅱ 女性として市民として」では、そうした公の問題からやや引いた彼女自身のエッセイなどによって成り立っているが、あの多忙で駆けるように過ごしてきた彼女のフッと息をつくような側面がみられる。
 このうち「五歳の記憶」と題された短い文章には、戦時中、彼女が疎開していた三重県の津市での目撃談が掲載されている。それは、空襲の後、落下傘で舞い降りた米軍兵士を、普段は人の良さそうなおじさんが先頭に立ってリンチ攻撃を加えるという話である。この話には、実は関連する事柄もあり、もう一度後で触れたい。

            

 この野間さんの書の圧巻は、なんといっても後半のⅢ Ⅳ で述べられた「戦争と平和の資料館〈ピースあいち〉」の建設に絡む話である。これはどう考えても一介の弁護士が手掛けるには荷が重すぎるような話である。
 しかし、彼女は果敢にチャレンジし、周辺を巻き込み、署名を集め、その建設のための請願は、愛知県議会、名古屋市議会共に満場一致で受理されたのであった。

 しかし、これでそれ自体が実現するほど行政の世界は甘くない。窓口の担当者はいざ知らず、行政全体の動きはきわめて緩慢で満場一致にもかかわらずそれは一向に実現を見ようとしなかった。
 しかし、天は真に努力するものを見捨てはしない。野間さんたちの尽力を知った加藤たづさん(1921~2014)という篤志家が、約300㎡の土地と一億円の資金を寄贈すると名乗り出たのだった(2005年、たづさん当時92歳)。

            

 野間さんやその仲間たちは、県や市の形だけの相づちに業を煮やし、この加藤さんの厚志に沿って自力で「戦争と平和の資料館〈ピースあいち〉」の設立に踏み切り、2007年にはその開館にこぎつけた。
 初代館長はもちろん野間さんで、彼女はなくなる前年までその職務を全うした。

            

 同館は、常設展示を充実させながら、その時々のテーマによる企画展を催している。例えば、つい先日までは「少女たちの戦争」が行われていた。
 同館のもうひとつの活動は、次第に高齢化してゆく戦争経験者のボランティアを組織し、館内での催し、小中高などの学校、その他の会などへの体験談の語り部を派遣し、子どもたち若い世代への戦争の悲惨さ、平和の重要さなどを啓蒙し続けていることである。

            

 野間さん個人の話に戻ろう。彼女は法曹界の人であったが、その範囲をはみ出した活動をも躊躇することなく展開した。その背景には、やはり「法」に対する見解の問題があったと思う。
 同じ法曹界にあっても、守旧派の法意識はいかにして諸個人を法的に拘束し、同一性のキヅナに繋ぎ止めるかにある。しかし、野間さんのそれは、いかにして個人の自由が守られ、同一性のキヅナから自由な多様性、複数性が保証されるかを主眼とした法解釈、適応を目指していたと思う。

 これは、権力が法を絶対視し、その適応において国民の同一性を図ろうとするのに対し、逆に、法を権力の行使の制限とし、いかに諸個人の自由や多様性を守るかに軸足を置くかの問題で、もちろん、野間さんは後者を貫いた。

 最後に、私と「戦争と平和の資料館〈ピースあいち〉」との関わりだが、住まいが岐阜のせいもあって頻繁には行けないがそれでも2,3回は足を運んでいる。ある時、同館が戦争に関する資料をまだまだ収集していることを知って、私は古くからの友人、W氏から寄贈された冊子を持参した。それは、W氏を含め私と同年の三重県の津高校同窓生がまとめた「国民学校一年生の戦争体験」というもので、それには、不時着した米兵へのリンチ殺傷事件も書かれていた。

 ところで、ここに紹介した野間さんの書の「五歳の記憶」と題された短い文章にもまた、疎開中に津市で目撃した同様の話が書かれている。同じ津市で、そんなにある話でもないだろうから、おそらく同じ出来事の目撃譚であろうと思われる。
 私がこれは資料にふさわしいと持参したものの内容が、まさに幼き野間さんの目撃と重なるなんて、この書を読みながら驚いたひとつのエピソードであった。

 なお、あとがきは作家で今、私と同じ同人誌で活躍していらっしゃる山下智恵子さんがお書きになっているが、野田さん、山下さん、そして私は共にあの演劇部のオンボロ部室で青春の日々を送った間柄である。
 
 私のなかでは、野間=アンネ・フランクのイメージが今後共に生き続けるだろう。
 

野間美喜子『向日葵は永遠に 平和憲法一期生の八十年』 2021  風媒社

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政治の嘘は新たな段階に 『嘘と政治 ポスト真実とアーレントの思想』(百木 漠)を読む

2021-09-20 15:35:17 | 書評

             
 2016年にはオックスフォードの「ワード・オブ・ザ・イヤー」(今年の言葉)には「ポスト真実」が選ばれました。ようするに「嘘」が選ばれたのです。なぜでしょうか。
 この頃、イギリスのEU離脱=ブレクジット、トランプの当選、そして日本での安倍の森友加計問題など、嘘をついている側が勝利をおさめるという事態が続いたのです。

 ただし、この表現が、単に「嘘」ではなくて「ポスト真実」になっていることに注目すべきでしょう。ここには、客観的事実を捻じ曲げるという従来の嘘からさらに進んで、「オルタナティブ・トゥルース=もうひとつの真実」といった積極的な嘘がまかり通るようになった事情が反映されています。

           

 これを、早くも前世紀の中頃に指摘したのがハンナ・アーレントでした。彼女は、不都合な事実を隠蔽しようとする「伝統的な嘘」と現実世界に代わる虚構の世界を作り出そうとする「現代的嘘」との識別を指摘しました。彼女はそれらを、ナチズムやスターリニズムの全体主義の分析を通じて抽出したのですが、この後者の危険性がいま一般化しつつあることを、先のオックスフォードの「ワード・オブ・ザ・イヤー」は指摘しているのです。

 面白いことに、アーレントは政治においての一定の嘘は多かれ少なかれついてまわるもので、それは布地にちょっとした穴をあけるようなものだと言っています。
 そればかりか、嘘の積極的な効用すら語っているのです。

 その一つは、アメリカの独立宣言です。
 「我々は、以下の真理を自明のこととする。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」
 いまひとつは、キング牧師の「I have a dream=私には夢がある」です。
 「私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。・・・・・・・・」

 これらは、現実にはそうではないという意味で「嘘」です。しかし、この現実を抜け出てこうなりたい! こうなろう! と訴えることには極めて積極的な「真実への接近」の願望を語ったものです。
 ようするに、その記述によって現実を変えていく行為遂行的な文章であり、将来実現されるべき状態の先取りであり、われわれが未来に向かって進むべき方向の指示なのです。

 これは、アーレントの「活動」という言葉、それによって何か新しいことを始める営み、創始する、始めると言う意味、他者との共同行為によって何かそれまでになかったものを生み出し、予想できなかった方向へ物事が動き始め、それによって世界に新たな始まりがもたらされる・・・・をよく表しているといえます。

           
               ハンナ・アーレント
 

 これに対して、アーレントが「あってはならない」とする嘘があります。先程、伝統的な嘘は布地に穴をあけるようなものだといいましたが、それに対し、現代的な嘘は事実の織物全体の完全な編み直しとでもいうべきものなのです。 
 現実的でリアルな世界を否定し、それに代わるフィクション、あるいは別のリアリティーを作り出し、そのイメージのうちに住まおうとするところに現代的な嘘の特徴があります。現実を隠すのではなく、新たな現実を事実を無視して生み出し、そのうちに住めというものです。

 だから、これらの嘘をつく人は、それが嘘だと指摘されてもまったく動じません。真実?それは「君たちの世界」での出来事であって、「われわれの方」ではこうのだと居座るばかりです。自分が生み出した虚構の世界こそが現実だと言い張るのです。
 これが、居直りだけで済む段階を過ぎ、その虚構の世界のみが許され、それが暴力を伴って押しつけられるようになった場合が全体主義の始まりなのです。

 まだ居直りの段階でしょうが、トランプは2017年のみで2,140回の嘘をつきとおし、わが安倍は、森友関連で139回、桜問題では118回の嘘をつき通しました。

             

 しかし、全体主義に至らなくとも、これはとても危険な状況なのです。
 まず、嘘の乱用や「ご飯論法」の多用は、対話の不可能、言葉そのものの無効化、コミュニケーション不全を生み出します。
 哲学者ハイデガーは、「言葉は存在の住処」といいましたが、それが歪められると言う事は、我々にとっての世界そして我々の存在自体も貧しいものになっていくということなのです。

 ここで危機に至るのは、私たちが住まう「共通世界」や「公共性」すなわち「人間の条件」そのものなのです。
 人びとは、トランプや安倍のいう「あんな人たち」と「こんな人たち」とに分断化されます。つまり、この両者では、まったく違う世界に住まっているのです。

 まとめてみますと、「現代的な嘘つき」たちは現実の方にリアリティーを感じておらず、それに代わる別のリアリティーを作り出し、その虚構の家に住まっていて、そうした人々は複雑で偶然性に満ちた現実の世界よりも、「首尾一貫した虚構の世界」の方に強いリアリティーを感じ、その虚構へと現実を合わせていこうとしています。

             

 それでは、そうした状況を解決するにはどうすべきでしょうか。アーレントは、人びとの活動によって共通世界が再構築され、それを守ってゆくことを強く訴えましたが、それの今日的適用とは何でしょうか。
 この書の著者・百木 漠もそれに明確に答えているわけではありませんが、若干の示唆はしています。それは、アーレントのいう「仕事」による産物としての「公共物」あるいは「公共の場」の重要性です。

 公共物とは、例えば人びとが共有できる物・事・場などです。例えば、「公文書」などもその一つです。諸外国などでは、それが厳重に保管され、後日、事態の真実が明らかにされることが結構あります。
 しかし、この国では、2014年に始まる安倍の官僚支配に伴い、本来公共物である公文書が、為政者の意志に基づき、隠蔽・廃棄・改ざんが行われるという異常な事態に成り果てました。赤木さんの死を賭しての抵抗にも関わらずです。
 この再構築がひとつの課題です。事実が事実として記録されるという当たり前のことが復活されねばならないのです。

            

 もうひとつは、複数の人びとの意見(なかには臆見=ドクサも含まれます)が、自由に交換できる「公共の場」の構築です。
 前世紀後半、そうした場としてネットが華々しく登場しました。たしかに、そうした機能は一応もったのですが、 同時に、陰謀論に基づくフェイクニュースの蔓延の場と化したり、ヘイトスピーチの乱用をも招きました。また、SNSなどを中心にエコーチェンバー現象とかフィルターバルブ現象(下記にその解説)などが横行し、相互の意見の交換の場としての機能は薄れたといわねばなりません。

 こうしたネット上の意見交換の場の修復、再構築等と並行して、それ以外の複数の意見が交換される公共の場の設置も課題になります。

 それらは、アーレントがテーブルの比喩で明らかにしたような、「人々を分離しながら、なおかつ人々を結びつける」場所の構築だということになります。
 例え、意見や立場が違っても、それが共通の事実(=テーブル)を挟んだものであるならば、共存しうる地点が見いだせるはずなのです。

 『嘘と政治 ポスト真実とアーレントの思想』 百木 漠  (2021・4 青土社) 2,200円

====================================

エコーチェンバー現象 近しい意見を持つ者同士がSNSなどで同種的なコミニケーションを繰り返すことによって特定の信念が増幅または強化される現象 意見の共有は加速度的に進むが、他方ではそれとは異なる声がほとんど聞こえなくなってしまう

 フィルターバルブ現象 ウェブサイトのフィルター機能によって各ユーザがまるでバブルに包まれたように自分が見たい情報しか見えなくなる現象 自ら好む情報のみを享受しているうちに逆に自分にとって不快な 情報や意見は全く耳目に入らなくなる

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人新世を描いた? 台湾の現代小説『複眼人』を読む

2021-09-16 00:18:03 | 書評

 物心がついた時、 台湾は朝鮮半島や樺太、そして中国東北部などとともに日本の領土で真っ赤に塗られていた。 その台湾には高砂族と言う原住民がいて、日本の軍部と協力して高砂義勇隊を組織しているとも聞いたことがあった。「ニイタカヤマノボレ」の新高山も台湾にあった。

         
 
 敗戦後には、もう台湾は日本の手を離れていた。その後知ったのは、例えば高砂族というのは、ほんとうは10ほどあった原住民を、その相互の差異を無視して、日本の統治者が勝手に名付けたものであること、また、占領中には、そうした原住民のかなりの抵抗運動があったことなどである。
 新高山も富士山より高いというので日本人が勝手につけた名前で、現在は玉山というのだという。
 
 しかし、いずれにしても台湾については知るところは少なかった。国際的に中国との危うい関係にあることは知っていたが、その表現や創造活動についてもあまり知るところはなく、わずかに1990年代に侯孝賢監督の『冬冬の夏休み』や『悲情城市』などの映画を観たくらいである。

 いま台湾は、米中の緊張関係のなかで、国際的な波乱の中に再び引き出されているかのようである。

 台湾の現代小説『複眼人』(呉 明 益)を手にしたのはそんな背景があったからではない。このコロナ禍のなか、いつも行く図書館が、カウンターでの図書の授受のほか、書架の閲覧などは不可能になり、ネットや電話での予約による貸し出しに限定されるようになったせいである。ようするに、ネットで新着図書を眺めていて目に留まったというのが実情である。

             

 物語は三つの島とそれに係る複数の人からなる。
 三つの島とは、古代海洋民族の原始文明をいまなお保持しているワヨワヨ島と、台湾、そして世界中の人々が海洋へ投棄したプラスティックをはじめとするおびただしい産廃物が、海流の関係で集積されて出来上がり、太平洋を漂流することとなった広大な島とである。

 物語はワヨワヨ島からはじまる。
 この島の少年、アトレは、島の長老ともいえる祈祷師の家に生まれるが、次男である。この島では、次男はある年齢に達すると幾ばくかの食糧と水を積んだ小舟で島を出なければならない。小さなこの島では、増え続ける人口を養うだけの生産力がないのだ。その代わり、その次男の出発の夜、彼は島の乙女たちすべてと交わる権利が与えられる。少女たちは、彼が通る道に身を潜め、彼を引き止めて交わる。
 アトレのように人気のある少年の相手は半端な相手ではない。しかし、彼が本当に交わりたかったのは、ウルシュラという少女。彼女は最後に現れ濃厚な関係を交わす。

 島を離れた少年たちは棄民であるから何日間かでその生命を失う運命にあり、海で果てた彼らは昼間はマッコウクジラとして海洋を往来し、夜は亡霊として新参の棄民次男を激励する。
 だが、アトレは助かった。たまたま漂流してきたあの膨大にして広大なゴミの島に打ち上げられたからだ。彼は、産廃物の中から生存に必要なものを作り上げ孤独な漂流生活を始める。

          
                  著者の呉 明 益

 舞台は台湾に移る。
 アリスは大学の教師だが、デンマーク人の夫トムとその間の愛息トトとを登山で失い(行方不明)、死を願望するに至る。彼女は所属する族名が記されていないから、戦後大陸からやってきた漢族の本省人かもしれない。
 著者は、台湾の大雑把な歴史を、当初原住民がいたところに日本人がやってきて支配し、それが終わると大陸の革命に追われた本省人がやってきて支配したと述べる。

 アリスの住まいは台湾の北東部、後ろに山地が迫る海岸端であるが、かつての豊かな自然に恵まれた地も、観光化して土地の風俗を壊すような低俗な民宿が立ち並ぶ場所と化している。しかも、海岸の浸食作用でかつての道路に変わり、山肌の美観を損なう道路ができたりして、一層、魅力を損ない、観光地としても危機に瀕しているようだ。

 夫トムと仲の良かったダフは布農族に属する山岳ガイドで、かつて台北で風俗業をしていていまは海べりに気ままなカフェを営んでいる女性ハファイは阿美族である。
 この二人とアリスは気心が通じ合っているようだが、ともに地震や津波の災害に苦しめれれている。ある日の津波で、アリスは斑の子猫を救う。その子猫に「オハヨ」と名付けるがこれは日本語の「おはよう」の意味だ。そして、この子猫が彼女が生きるささやかな支えとなる。

 しかし、やがてこの海岸に大異変が起きる。それは、先に述べた人類が海へと吐き出した膨大な廃棄物でできた巨大な島(アトレの名付けではガス島)が接近し、ついに激突を引き起こすのだ。それは、台風などの後、海岸線に押し寄せるゴミどころの騒ぎでははない。具体的な大きさは述べられてはいないが、とにかく廃棄物が何層にも固まり広がった、大きな島なのだ。

         

 そしてその島には、ワヨワヨ島から辿りついたアトレが住み着いており、衝突の衝撃で山裾へと押しやられ、足を骨折する怪我を負う。それをた助けたのがアリスであり、そこで、アリスとアトレ、それにオハヨの二人と一匹の奇妙な共同生活が山地の狩猟小屋で始まる。アリスの海辺の家は、島の激突で住めなくなってしまっているのだ。

 猫のオハヨはともかく、アリスとアトレはまったく異なる言語で、コミュニケーション不能である。しかしやがて、ものを指差したり、表情を交えたりで、少しずつ通い合うものが出てくる。そして・・・・。

 以上は極めて大雑把なあらすじの、しかも途中にしか過ぎない。人物も既に述べた人々の他に、デンマークからの地質学者やジャーナリストの女性も登場する。そして、それぞれの人がそれぞれの視線から事態の推移を捉える。
 当初、この書のタイトル『複眼人』は、そうした多くの人たちの視線を意味するのかと思った。

 しかし、終盤に至って複眼人はやはり登場する。
 彼は、アリスの夫と息子が行方不明になった折の二人の前にそれぞれ個別に登場する。夫トムの墜死の現場では、そのトムといささか形而上的な会話を交わす。人間が、記憶を記述することによって保つ、つまり人間の文明のありようについて複眼人が述べる。
 「 そのような能力を持つお前たちを、正直、私は羨ましいと感じることも敬服することもない。なぜなら人類は他の生物の記憶も何とも思っていないからだ。お前たちの存在は、他の生命が持つ記憶を破壊し、自らの記憶も破壊している。 他の生命や生存環境の記憶なしに生きられる命などありはしない。にもかかわらず人類は他の生命の記憶に頼らずとも生きていけると思っている。花々は人間の目を楽しませるために美しく咲き、猪は肉となるために存在し、魚は釣り針にかかるために泳ぎ、人間だけが 悲しむことができる生物だと思っている」

 これは、世界を資源としてしか観ていない人間の「世界疎外」のありようを指摘したものとも読める。
 こうして読みすすめると、当初、無文字社会のメルヘンチックなワヨワヨ島から始まったなかば寓話的なSFの描写が、実は今日の高度な文明世界、とりわけ、環境を自分たちの増大しつつある生産と消費の欲望に従わせる資本主義的循環のあり方に対する警告を暗示していることに気付く。
 
 否、膨大な廃棄物によって生みだされ、巨大な島となって海洋を漂うガス島の存在そのものがそれを極めて直截的に現しているといえよう。このゴミの漂流は、この小説ほど膨大ではなくとも、現実に存在するものであるし、また、原子力発電所のいかんともし難い使用済み核燃料の問題、フクイチの汚染水、廃炉によって生じる膨大な核の汚染物などをも象徴している。

         

 こうしてみると、この物語は人が自然との間に最小限の離反しか生み出さないようなワヨワヨ島の対極の、最近流通し始めた言葉で言えば、人類の営みが地球規模でその地質や生態系に絶大な力を及ぼす時代、「人新世」を語るものともいえる。
 ただし、この小説自体は、先に引用した複眼人の台詞以外にはそれを直接に語ることはしないで、資本主義的欲望に支配される以前の台湾の原住民の暮らしぶりや、世界中に散らばるさまざまなエピソードを語るなかでそれを暗示している。

 なお、この『複眼人』という小説自体が、登場人物のアリスが終盤に至って一気に書き上げた小説という自己言及的循環もあって、その他の要素ともども、ミステリアスな印象が残るものとなっている。

 この小説の最後に引用されている詩はボブ・ディランの初期の作品、『激しい雨が降る(A Hard Rain's a-Gonna Faii)』だという。

  これから何をするつもりなんだい? 私の青い瞳の息子よ
  これから何をするつもりなんだい? 私の愛おしい少年よ
  雨が降り出す前に去るよ
  あの黒い森の一番奥へ歩いて行く
  そして沈む時まで大海の真ん中に立つんだ
  僕が歌い始める前に 歌を心に刻んでおきたい
  そして 激しい 激しい 激しい 激しい雨が
  激しい雨が今にもやってくる


 『複眼人』呉 明 益 (小栗山智:訳 株式会社KADOKAWA)  2,200円

台湾には現在、「台湾原住民族」といわれる、阿美族(アミ族)、泰雅族(タイヤル族)、賽夏族(サイシャット族)、布農族(ブヌン族)、雛族(ツォウ族)、魯凱族(ルカイ族)、排湾族(パイワン族)、卑南族(プユマ族)、雅美族(ヤミ族)、邵族(サオ族)の十族が住んでいる。 

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俳句に生涯を賭けた人びと 『証言・昭和の俳句 増補新装版』をいただく

2021-08-18 15:24:05 | 書評

 東洋医学の研究・実践家にして俳人、宮沢賢治の権威にして名古屋は千種界隈の飲食店の探求家、そしてローマ字表記にすると私と同姓同名の友人から、『証言・昭和の俳句 増補新装版』のご恵贈を賜った。500ページ超えの大著である。

 この書は、その友人が所属する藍生俳句会の代表・黒田杏子さんが2002年に上梓した『証言・昭和の俳句』の増補新装版で、やはり黒田さんが編集にあたっている。

           

 内容は二部にわたり、第一部はまさに昭和を生きた私より年長の、学徒出陣や治安維持法、それによる京大俳句事件などの経験者13人の俳人に、黒田さんがインタビューしたものをまとめたもので、各俳人の代表作50句とその年表が添えられている。
 それら13人の顔ぶれは、表紙写真の上部に列記された人びとである。

 第二部は今回新たに増補されたもので、20人の俳人や作家、評論家たちが第一部に関する感想などを寄せている。その顔ぶれは、裏表紙の写真にある通りで、TVなどでおなじみの夏井いつきさんも登場する。

           

 すでに書いたように、第一部は戦前をも生きた私より年長の人たちで、2002年には存命した人たちも、1名を除いては既に故人である。
 それに対し、第二部に登場する人たちは私より年下で、現役でバリバリ活躍している人たちだ。

 だから、2002年の版は、黒田さんによる貴重な聞き取り、歴史で言ったらオーラルヒストリーのようなもので、今回の増補版は、それに対する現代人の反応を混じえたものといえる。

 はからずも私は、年齢的にいって、そのヤジロベエの中心にいるようなものだが、それもそのはず、編者の黒田さんは私とまったく同い年なのである。
 なお、この書を8月15日に照準を合わせて刊行した黒田さんの思いもちゃんと受け止めるべきだろう。

           

 この書は、俳句に暗い私にとってはまさに昭和俳句の百科事典のようなものであり、じっくり読み進めてゆきたい。

 ご恵贈のMさん、ありがとうございました。
 編著の黒田さん、改めて貴重な資・史料のお取りまとめに敬意を評します。


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ウィーン近郊で起こったこと 黒川 創の小説を読む

2021-08-12 15:05:34 | 書評

 黒川 創の中編小説『ウィーン近郊』を図書館の新刊コーナーで見かけて借り、読んだ。初出は『新潮』2020年10月号、単行本化は今年の2月。

 なぜこの書かというと、一度だけだが著者と逢ったことがあるということ、それが縁で彼の小説を2,3篇は読んでいること、さらにいうならば、海外旅行の経験は少ない私が、二度訪れた唯一の都市がウィーンだったということによる。

            

 冒頭から少しドキッとする。長年ウィーンに住んでいた兄の自死の報せに、日本から駆けつけた妹の話から始まるからだ。なぜドキッとするかというと、著者黒川の身内が自死していることを知っているからだ。
 しかし、そんなに驚く必要はないのかもしれない。というのはちょうど10年前、黒川はその身内の自死と直接向かい合って、死者と生前、縁があった知人、友人、親戚、行きつけの飲食店夫妻などとのインタビューをまとめた書『〇〇とは何者だったのか』を出版しているからだ。

 小説に戻ろう。
 話は概して、兄に自死された妹と、それをサポートするオーストリア大使館の外交官との視点が交互に現れて進む。
 ただし、それによって自死の真相・真実が明らかになるわけではない。自死する者の真実なんて事後的な推測にしか過ぎないだろう。明らかになるのは、その兄が、ウィーンにおいてどんな人びととどんな関係を結びながら生きてきたかということであり、それこそが現実なのだ。それはまた、前述した黒川の自分の身内の自死についてのインタビュー集の手法とも一致する。

 その兄の遺灰が墓地に埋葬される際、それに参列してくれた人びとに、妹が謝礼を兼ねたやや長い挨拶をするのだが、それがひとつのまとめになっている。
 最終章は上に述べた外交官の叙述だが、そのなかで、ソポクレスによるオイディプスから始まるテーバイ三部作のうちの『アンティゴネー』が引かれるに至って、なるほど、これは兄をきちんと葬ろうとする妹・アンティゴネーの話であったのかとも思えるのだが、もちろん、それも比喩的な類似にとどまるほかないだろう。

         

 この外交官による終章は、アンティゴネーの話の他、リトアニア、カウナスでの杉原千畝の話、エゴン・シーレの「死と処女」についてのエピソード、映画『第三の男』の当時の背景などなど、興味深い考察が続いていて、著者の関心の広さやそれらについての豊かな知が伺えるものとなっている。
 
 小説とは関係ないが、かつて私は、オーストリアの戦中戦後の立場についての疑義を描いたことがある。ウィーン、ザルツブルグ(ここに一週間滞在したことがある 1991年)、グラーツとどこの都市も、そしてそれらを取り巻く自然も素晴らしく、とても好きなところなのだが、歴史的には問題があると思うのだ。

 この国は1938年にヒトラー治下のナチスドイツに併合されるのだが、それは、他の周辺諸国のようにナチの軍事力によって蹂躙されたのではなく、極めて自主的に大ドイツ主義を背景に、国民投票による99%近い賛同のもと実現されたものだった。
 だから、ドイツ軍の進駐に対しては、各地でハーケンクロイツの旗による熱烈な歓迎でもって迎えたのであった。

         

 しかし、戦後、ナチスドイツが敗北するや、あたかも自分たちも被害者であったかのようにスルリと身をかわし、連合国側に媚びたのであった。
 したがって、自らのナチズムへの親和性はそのまま棚上げされ、ドイツ本国のようなきちんとした自己批判や再発防止措置も取らないまま現在に至っている。反ユダヤ主義をナチスと共有したことについての自己批判もない。
 そんな背景もあってかヨーロッパにおける最初のニューナチズム登場を許し、その勢力の侮れない進展といった結果を招いている。

 私のこの見解はあまり受容されないかのようだが、この書でのその辺の見方は私のそれとほとんど一致している。我が意を得たりといったところである。

 それはともかく、小説に戻るならば、その読後感をうまくまとめたり伝えたりはできない。
 ただ、著者がこのタイトルを「ウィーン近郊」としたことはなんとなくわかる気がする。ここで語られる一連の推移そのものが、あたかもウィーンという都市と不可分なものであるかのように語られるからである。
 人びとが出会い、そこで生き、生死に関わらずそこから離れてゆく結節点、それらの人びとが分有する不可視のエネルギーのようなものとしてのウィーン・・・・。 

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【読書ノート】出てゆかない「テナント」の行方は?

2021-08-01 15:48:30 | 書評

 バーナード・マラマッド『テナント』 青山南:訳 みすず書房


           

 バーナード・マラマッド(1914-86年)というアメリカの作家による1971年に書かれた小説である。何の予備知識もないまま、図書館の新着書の中からヒョイとつまんできて読んだ。

 『テナント』というタイトルは、主人公がまさにとあるアパートのテナントだからである。ただし、このアパート、取り壊しが決定していて、他のテナントはすべて転居したのに、彼のみが居座っているのだ。
 
 大家は、早く取り壊し、新たなものを建てたいので、あの手この手で彼に退去を迫る。その中には、他の退去者に支払った金額の10倍以上という裏取引の提案もあるのだが彼は応じない。それは、彼の目的が金や次なる快適な場の追求ではないからだ。
 事実、彼以外無人のこのアパートは、水道光熱の支給も危うく、トイレの水も流れなくなったりして、居住環境としては最悪なのだ。

 なぜ彼は立ち去ろうとしないのか。
 彼、ハリー・レサーはユダヤ系白人の小説家で、すでに2冊の作品を世に問い(うち一冊は好評で、もう一冊はそうでもないらしい)、いままさに3冊目の作品の後半に差し掛かり呻吟しているのだ。大家のアーヴィング・レヴェンシュピール(この人もユダヤ系)は、だったら余計環境のいいところへ移ったら良いじゃないかと迫る。
 しかし、レサーはいう。この小説はまさにここで完結させられるべきもので、書き上がったら直ちに出てゆくからと繰り返すのみだ。
 
 このやり取りに終始するのかと思いきや別の展開が始まる。
 アパート全体が空き家だとうことで、新たな不法侵入者が現れるのだ。
 ウィリー・スピアミント(後半はビルと改名)という黒人で、なんと大型のタイプライターを持ち歩くやはり作家希望の男なのだ。彼の方は、まだその作品を世に問うてはおらず、書き上げたかなりのものをもってはいるが、どこかまだしっくりこないと自分でも思っている。

 この廃墟に近いアパート(数階建てか)での奇妙な共同生活が始まる。
 ハリー・レサーの方は一応契約入居者であるが、ウィリーの方は単なる潜りである。当然大家からの激しい追求がある。それをレサーはかくまい続けるどころか、ウィリーの要請に応じて、その原稿を読み、先行する小説家としてアドヴァイスすらする間柄になる。

 ただし、ほんとうに親密になったわけではない。ウィリーの白人に対する憎悪に近い感情は残ったままだし、レサーの助言も、そんなのはフォームに関するものに過ぎないと言い張る。しかし、その割に参考にはしているようなのだが。

 実はこのウィリーという黒人、それ以前の公民権運動や現今のBLM運動と比べ、いまひとつ過激な、60年代後半から70年代のかけてのマルコムXやブラックパンサーなどの、ブラック・イズ・ビューティフル、黒人至上主義を信奉する人物で、黒人である自分たちの優位性を主張してやまない。
 レサーが白人にもかかわらず黒人文化への偏見がないことやユダヤ人でも富裕層ではないなどを消極的理由に、加えて、自分の実存を小説でもって表現してゆこうとする共通する志とで二人の間柄は繋がっているのだが、その関係は危ういものである。

 小説以外に目がないとも思われるような二人の関係は、まさにその「それ以外」のところで、つまり、人は小説のみで生きているわけではないというレベルのところで崩れ始める。暫く続くその葛藤もまた、一応は小説家らしい形を保っているかのようなのだが、その最後の大詰めは凄惨極まりない暴力として描かれている。
 二人が最後に交わす言葉はこうだ。
 「血を吸うユダヤ人のクロンボ嫌い」
 「ユダヤ人嫌いの大猿」
 そして・・・・。

 終章。大家のレヴェンシュピールが登場して叫ぶ。
 「ハブ・ラフモネス(慈悲を)!」
 そしてその後に、およそ112回の「慈悲を」の言葉が並ぶ。

 ちょうど50年前の小説なのだが、古さはない。

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