六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

去るもの、来たりしもの わが家の花物語

2018-03-11 16:39:45 | 花便り&花をめぐって
 悲しいことや嬉しいことがあるものです。
 「梅は咲いたか 桜はまだかいな」という俗謡(「しょんがえ節」)がありますが、今年は亡父譲りの紅梅の鉢植えが花をつけませんでした。私が引き継いでからもう25年ほどになりますが、その前、父がどれくらいの間育てていたのかは定かではありません。
 ひょっとしたら寿命かも知れませんが、木は枯れ切っていないし、小枝の先端には緑の部分もあるようなので、その再生を願ってもう少し様子を見てみようと思います。
 写真は昨年の二月末、元気に花をつけていた折のものです。

 

 うちにはサクランボのなる木があります。もう半世紀ほど前からあって、毎年、たわわな実をつけていたのですが、一昨年頃から実のつきが悪くなり、ついに昨年はほんの数える程の実しか目にすることはできませんでした。
 よく見ると、メインの枝がもう枯れてしまっています。そこで、泣く泣く伐ることにしました。そのついでに、諸般の事情で諦めざるをえなくなったビワの木とクワの木も伐ってしまいました。
 
 こうして、サクラ、ビワ、クワとそれぞれ実がなる木三本を同時に失ったのでした。
 ただし、サクラに関しては、こんなこともあろうかと保険をかけていました。数年前に、完熟したサクランボの種を何個か鉢植えにし、出てきた芽から一本の苗木を育ててきました。それがいまでは、ちょうど私の背ぐらいになり、三月に入ってから新芽を出し始めました。

              

 しかし、ここでちょっと待ったです。
 これは、二、三年前から気づいていたのですが、一般的にサクラは、花がついてから芽吹くものが多いのです。サクランボのなる木もそうでした。だとすると、この桜は違う種類のもので、花は付けないのかもしれません。
 これは昨年の話ですが、この桜は傍を通っただけでもとてもいい香りがするので、ちゃんと葉が緑になった頃、アサリの酒蒸しに二、三枚ほど入れてみたら、実にいい香りがするのです。いわゆるアサリの桜蒸しです。

              

 そんなことから考えると、私の記憶では種から育てたつもりなのですが、どうも違う種類のサクラかもしれないのです。あるいは、サクランボのなる木にするには、これを他のものに接ぎ木するなどの技術が必要なのかもしれません。

     

 しかし、いいこともありました。
 それは昨年、サクランボの木を伐る際、念の為に側面からでていた小枝を残しておいたところ、そちらの方にまだチラホラですが花が咲いたのです。
 先週の初めころに開花し、いまや満開です。と言ってもまだ密集していないのでいかにも頼りなげですが。
 やがてこの木が、成長し、かつてのように、それなりのサクランボをもたらしてくれるのではないかと期待をもたせます。

 年々歳々、人が代わり花も代わるといいますが、まことにそのようで、またそうした先入観をもつがゆえに、去ってゆく花、来たりし花に、私たちは一喜一憂するのかもしれません。
 「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と詠嘆した在原業平も、そのように春を「深読み」したが故だろうと思います。

 

 
【おまけのトリビア】
 冒頭に引用した俗謡は以下のように続くのですが、「山吹ゃ浮気で 色ばっかり」のくだりは、「みのひとつだになきぞかなしき」の和歌を捉えたものです。ようするに「色ばっかり」で「情実」の「実」がないという意味ですね。
 しかしです、山吹に実がつかないというのは俗説で、普通の山吹にはちゃんと実がつきます。実がつかないのは、八重咲きのもので、それは、雄しべや雌しべなどが花弁に変化すると八重咲きになるからなのです。
  
  梅は咲いたか 桜はまだかいな
  柳ゃなよなよ風次第
  山吹ゃ浮気で 色ばっかり
  しょんがいな
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ハルジオン賛歌 文章なし 関連音楽2曲付き

2017-05-28 15:11:40 | 花便り&花をめぐって
  関連音楽、最後にあります。

            

            

            

            

            


   ■https://www.youtube.com/watch?v=4oSa9qY2K7k  
   ■https://www.youtube.com/watch?v=rkZ37IvpkaA&version=3&f=video&app=youtube_gdata
  
  
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花と空蝉

2017-04-03 11:00:55 | 花便り&花をめぐって
 この辺の桜はいまどんな具合だろう。午後に歯医者へ行かなければならないので、すこし遠回りをして確かめてみよう。

                

 今年はいつまでも寒いと思ったのは、こちらの加齢のせいだと思っていたが、そうばかりではないようだ。実際の各地の桜前線も軒並み一週間ほど遅れているとのこと。私の日記を見ても、去年の3月31日には、ほぼ満開の写真を載せている。

                

 そんななか、東京がいち早く開花宣言をし、今はもう満開だという。
 これはいささか奇異な感じがする。これはたぶん、地理的な条件やそれによる気候の推移のせいではなく、ヒートアイランド現象によるものではないか。
 東京はやはり、日本においての地球温暖化のメッカなのだ。

                

 桜はともかく、うちの花の話をしよう。
 紅梅は終わり、桜ん坊のなる早咲きの桜も終わり、今咲いているのはユキヤナギとレンギョウである。
 これらの花の特徴は、一輪々々が自己主張をするのではなく、ひとつの纏まった集団としてアピールする点にある。

              

 朝のことである。それらの花々をひとわたり見回して、洗濯物を干しにいった。その折、何やら足もとで飴色に光るものを見つけた。
 洗濯物を干し終わってとって返してそれを観察した。なんと、セミの抜け殻なのだ。昨年の7月か8月以来、誰にも気付かれずここにとまっていたのだ。

              

 うちには3種類のセミがやってくる。一番多いのはアブラゼミ、それとニイニイゼミ、そしてツクツクボウシだ。名古屋などはもう圧倒的にクマゼミのテリトリー(これも温暖化で北上中)らしいが、うちにも、この辺にもこない。
 愛知県との県境にある木曽川がその北進を阻止しているのだろうか。あの川幅は、よほど根性のあるクマゼミでないと越えることはできまい。

                  

 しかし、この抜け殻、よく頑張ったものだ。
 それを愛でて川柳など。空蝉は夏の季語だが、川柳には季語はないからいいだろう。

                  

     ・越年の 空蝉空(くう)の貌(かお)残す
     ・去年(こぞ)の空 (くう)卯月 空蝉 憂き世倦む



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【花物語】グローバリゼーションと作られた花々

2016-09-14 11:31:01 | 花便り&花をめぐって
 小学校の高学年の頃、どういうわけか男の子のなかで、花の栽培が流行ったことがあった。もう65年ほど前のことだ。
 当時は借家住まいだったが、幸い、戦争中はサツマイモや野菜を作っていたというわが家の敷地と同じくらい空き地が隣接していて、そこでいろいろな花を育てた。実際のところ、そこの分は借地料を払ってはいなかったのだが、地主が父の知り合いで、当分、使う予定はないから花ぐらいは自由に植えていいよといってくれたのだった。

            

 思いつくままに列記すると、矢車草、貝殻草、コスモス、ホウセンカ、金魚草、百日草、セキチク、水仙、アサガオ、ヒマワリ、菊の仲間(思い出せないものもある)などなどであった。だいたいが育てるのに易しい花々であるし、借地ということもあって木に咲くものは避けていた。
 

            

 花屋さんへ行って袋入りの種を求めて蒔くのだが、うまく育たないものもあった。逆に、たくさん芽が出てそれぞれが育ちすぎるものもあった。そんなときは、それを間引いて、友人のところで余っているものと交換したりした。
 時折は、友だちと花の見せっこをするのだが、上に述べたような事情で、借家のくせに私の花の面積は一番大きかったと思う。まだ、ガーディニングという言葉も知らず、それら全体の配置などもほとんど念頭になかったから、まったく無政府的な植え方だった。
 今ではその配置すら思い出せないが、一つだけ記憶にあるのは、ホウセンカの株がとても多かったので、私の花壇の中央を通る通路の両側に植えたことである。赤、白、ピンクのそれらが、そこを通る者たちの足もとを飾っていて、とても満足した覚えがある。
 
            

 やがて父が岐阜駅の南口近くに自宅を新築し、そこへ移住したが、そこは敷地いっぱいに家が建つような状況で、花づくりをする余地はまったくなかった。同時に、少年の間での花づくりブームも終わりを迎えていたと思う。
 引っ越す際に、地主さんに植えてある花はどうしましょうと訊いたら、いいからそのままでということで済んだ。いくらそこを去るからといって、自ら種を蒔き育てた花々を引っこ抜くのはやはりはばかられた。

            

 ここでも何度も書いたが、野菜に仕入れはもっぱら農協でしているが、上に述べたような経歴があってか、その花売り場でも足を止める。もちろん伝統的な花々もあるが、私が子供の頃には見たことも聞いたこともない花々も多い。
 今年の春、私の畏友が亡くなって、その弔問の際に花束でもと思い、繁華街の花屋さんにいったのだが、その店頭を飾る花々は、見たことがあるぐらいのが僅かにあるほかは、ほとんど知らない花だった。そしてそれらの花々の名前は、ほとんどがカタカタ表記の外来種のようであった。
 農協の花売り場のそれも、そうした趨勢が強まった。伝統的な花々に混じって、外来種のそれがどんどん増えてくる。
 ユリやキクの仲間だとはわかるが、それらは単純に百合や菊ではない。

            

 決して外来種の到来を嘆いているわけではない。日本の伝統種と思われてる桜や梅だって、遠い昔の外来種だったのである。
 グローバリゼーションが加速しつつある現在、花の世界でもそれが急速に増えるだろうことは必然だからだ。心を広くもって、それらを拒むことなく、伝統種同様に愛でてゆきたい。
 共和党の米大統領候補のいうように、外来種到来を防ぐべく、高い塀をめぐらしても、しょせんは無駄な努力なのだから。
 もっとも、どんどん増え続ける新しい花々の名を、老いたる頭脳で収納し切ることはもはや無理だから、今後は興に任せて眺めるだけとしよう。
 人為的な交配や、遺伝子組み換えなどによって生み出されたものもあるだろう。そうした人為性にはいささかの抵抗もあるが、それが可能なのも、もともとその植物に内在していた可能性の発露によるものだと思うことにしよう。





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マサキの花とある種の屁理屈

2016-06-21 18:02:20 | 花便り&花をめぐって
 私の二階の部屋のデスクの真ん前はいま、緑一色に輝いている。
 梅雨の晴れ間のそれは、眩しいくらいに私の視線を占領する。
 周辺の切ないことや自分自身の近未来への不安が鬱積するなか、しばしの慰めを与えてくれる。

       
 
 もっと若くてとんがっていた頃、花鳥風月に慰められるなんてある種の逃避だと思っていた時期がある。
 もちろん、それらの美しさ、造形の稀有さやその魅力に惹かれなかったわけではない。
 しかし、そうした感覚とおのれの直面している問題とを同じレベルで俎上に乗せることは逃避だと思っていたのだ。

 
 
 しかし、最近、年齢のせいかどちらも私なら、それを混ぜあわせたってかまわないではないか、いや、むしろそのほうがリアルではないかと思うようになった。
 花鳥風月はたしかに癒しになる。しかし、それはそれでいいいのではないか。そんなに簡単に現実が消え去るわけではないから、逃避だなどと目に角立てる必要もない。むしろ、切なさや不安な現実をバックにしているがゆえに花鳥風月に接する自分の感受性が増す面もあるのではないか。

 

 もっとも、ほんとうに必死な折には花鳥風月に気を取られることもないかもしれない。
 その意味では、漠然とした不安のなかで、花鳥風月にもそそられるということはそこそこ幸せなことであるかもしれない。
 美しいモノに接すること自体にあれこれ理由を付ける必要はないのだろう。たぶん。

 【今日の教訓】逃避が現実を支え、現実が逃避を彩る。




         
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眼下のツツジと旧友の遺稿

2016-04-29 18:06:52 | 花便り&花をめぐって
               

 私がPCや読書に疲れてフト目を上げる光景が華やいでいる。
 このまえまでは新緑一色だったのが、そこへツツジの白が加わったからだ。
 格子があるのは、別に牢獄にいるからではない。
 二階の部屋だから、ベランダの手摺りがあるのだ。
 手摺りの間からは下の写真のようになる。

               

 ベランダには久々の陽光で、木のシルエットがくっきりと模様を記している。
 この木は、桑である。
 ツツジも桑も、そしてツツジの背後のマサキも、ともに50年近い樹齢で、私とは長い付き合いである。

                    

 桑は伸びすぎるのでときどき伐るのだが、それに抗うようにさらに伸び続ける。
 その生命力たるやすさまじい。
 だからこそ、あんなに食欲旺盛なお蚕さんの飼料になるのだろうと思う。

                    

 あまり浮かれてもいられない。
 さきごろなくなった旧友のPCにあった遺稿が、その親族の方から送られてきた。
 膨大な数であり、メモ程度のものや、起承転結がはっきりしているものなど、千差万別だ。
 一番最近のもので、しっかり書かれているものは、私が同人誌に載せた小論への批判であることはいくぶん皮肉だが、それだけ最後まで気にかけていてくれたと解したい。
 彼を偲びながらじっくり目を通したい。
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花から新緑へ マサキとともに半世紀

2016-04-05 15:01:24 | 花便り&花をめぐって
 一週間ほど前の開花宣言が2,3日前の満開宣言、そしてもう花筏や花絨毯の季節に。
 めぐる季節は早い。とりわけこの歳になると、季節は急き立てるようにやってきて、一段と濃い老いを私に刻印し続ける。
 
 もちろん為す術はない。ただ、それをも私の生の瞬間々々の一期一会として愛でるほかはない。そう居直ると、季節の変動によってスライド写真のようによぎってゆく風物が、より深い味わいとある種の愛おしさを伴って私に迫っているようにも思える。

    
               
                  これらはいずれも昨年末に撮したもの
 
 私の二階の部屋の目の前のマサキの樹はもう完全に若葉に生え変わった。この樹の新緑は本当に鮮やかだ。もう少しすると、緑がより深くなり、同時に、いくぶんメタリックな輝きをもつようになる。
 よく見ると、もうかわいい花の蕾を抱え込んでいるのが分かる。

    
   
                   これらは4月5日に撮したもの
 
 そう、私がこの木を植えたのはここに移り住んだのと同時ぐらいだから、もう半世紀前になる。あの頃は何を考えていたのだろうか。世間に完全に背を向けていたわけではないが、若干、斜に構えていてかなりシニカルになっていた時期だ。

 午後になってキジバトが遊びにやってきた。
 今年も巣をかけてくれると嬉しいのだが。
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寂しい桜 終わりの始まり

2016-03-15 00:23:30 | 花便り&花をめぐって
 うちの桜がもう満開なのです。毎年、3月10日頃には開花しはじめますが今年は早く、もうこの雨で散る花もあります。桜ん坊がなる木で、ソメイヨシノより20日ほど早いのです。

            

 でも、この2、3年、花が咲いてもとても寂しいのです。
 以前は小ぶりながら木全体にパアッと花がつき、その一帯が明るくなるほどだったのですが、それがもう木それ自体の寿命なのか、どんどん枝が枯れていって、今や花がつくのは最盛期の10分の1足らずなのです。
 それを見ると、なんだかとても寂しいのです。

 この木同様、その生命の終わりの始まりを迎えようとしている私自分と重ね合わせるからでしょうか、やたら寂しい思いがするのです。
 それでも残された花は懸命に咲いています。ですから今年も一応写真に収めました。
 一番最後の写真は、全盛期の頃のものです。これから見ても、花の勢いが違うのがお分かりいただけると思います。

            

 当然のこととして、桜ん坊の収穫もかつての10分の1以下です。花が減ったところへもってきて、実がつく花が減ったのです。
 かつては、ちょっとしたザルに、毎日一杯ずつ、数回以上にわたって収穫しました。それらのほとんどは、娘の勤める学童保育のおやつになりました。
 子どもたちは目を輝かせて食べてくれたそうです。
 昨年は、かろうじて一回だけ持ってゆくことができました。
 今年はどうでしょう。
 とても心もとない気が致します。

            

 桜が咲くのを眺めてこんなに寂しい気分になるなんて、まさに「わが身世にふるながめせしまに」ですね。
 もっとも、小野小町は花が散りゆくさまを詠んだのですが、私のそれは木それ自体がその生命を終えようとしているのを目の当たりにしているのですから、翌年に期待をつなぐこともできないのです。
 寂しいです。
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週末の県図書館の周辺 夏椿とナンキンハゼ

2015-07-06 21:34:30 | 花便り&花をめぐって
 さほど広くはないがお気に入りの図書館の中庭、この時期、ここには花の気配はない。
 20日ほど前に訪れた折、咲き乱れていた夏椿(沙羅)の花は、すっかり落花(散るのではなく花ごと落ちるのはこの前書いたとおり。椿もそう)してしまっている。
 それでも近づいてみると、こんな感じになっている。一見したところ、蕾のように見えるがこれは落下後の実だ。触ってみると硬い。




 花といえば、いつも見ている隣の美術館前のナンキンハゼが花盛りだ。黄色い房状のそれが垂れ下がっているのが遠目にもわかるが、かといってさほど派手な花ではない。近づくと栗の花同様の、青臭い匂いがする。

        

 写真を撮っていたら、犬を連れたおばさんが通りかかって、何を撮っているのですかと訊くので、「この花です。やがて青い実になり、秋には茶色く色づいて、さらにそれがはじけて真っ白な実が出てきます」と説明すると、「へえ、そうですか。毎日通るのですが、気が付きませんでした。これからは見るようにします」とのこと。
 ついでに、「昔はその白い実から和ろうそくを作ったのですよ」とうんちくをひとくさり。

   

 もう何年も前からの私のお気に入りの木なので、関心を示してくれる人ができると味方が増えたように嬉しい。きっと彼女も、これからこの木の下を通る時、ときどきは見上げてくれることだろう。

 幾分日が短くなったような気がするが、考えてみたらもう夏至を過ぎたのだった。


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身近な花たちといささか疲れた私

2015-06-13 15:20:40 | 花便り&花をめぐって
             

 いま自宅で咲いている花では、いちばん大きなものはサツキだ。これは亡父譲りのもので、八重咲きなので珍重している。
 あとは小さな花ばかりで、カタバミ、ドクダミ、ナンテン、それにマサキの花ぐらいか。
 
          

 ほとんど知られた花ばかりなのだが、マサキの花はいくぶん珍しいかもしれない。
 この花を毎日、眼前にしている。私の二階のデスクの前のカーテンを開けると、ぱっと一面に目に飛び込んでくるからだ。

          
 
 その群生のような花々は目の前が明るくなったように華やいでいて、目を楽しませてくれる。近寄るとその点のような一つ一つがちゃんと独立していて、いままさに開こうとしている。満開になるのが待ち遠しい。

          
        まだほとんど蕾だが中央下の方に一輪開いたものがある

 小さな花といえばナンテンもそうだ。房状になってはいるが、それは小さな花々からなっていて、その一つ一つが、「ホラ、咲いてるんだよ」と自己主張をしているようだ。近くで咲いていたら、さらに近寄ってその一つ一つを見てやって欲しい。

             

 実のところ、いろいろあっていささか疲れ、めげそうになっている。先行きへの暗い展望は逃れようもなく、自分の行動が次第に制約されてきているのをひしひしと感じる。
 若いころ、そうした人事に関することを花鳥風月の風情に転化したりそこへと逃避することはすまいと思っていたが、どうやらこうしたものに慰められる齢になってきたらしい。まあ、自死まで思いつめるよりは、たとえ一時的にせよ彼らに癒される方がいいのだろう。

          

 それに小さいながら懸命に生きている彼らの美しさをこうして人に伝えることができるのは、それらの生命と共振する自分自身の命の確認かもしれないとも思うのだ。
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