六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

謎解きの後に残される壮絶な澱 映画『灼熱の魂』を観る

2022-09-04 11:50:32 | 映画評論

 久しぶりに大きな画面で映画を観たくなり、名古屋での会合のついでに、『灼熱の魂』を観た。以下はその感想のようなもの。

           

 「1+1=1」というのがこの映画の謎を解くキーワードのようだ。映画の後半に明かされる謎の答えはこの図式を埋め、同時にありえないような凄まじい現実を暴き出す。
 カナダに住む双子の姉弟は、母の死に伴い残された遺言状を託される。それには、お前たちにはまだ逢ってはいない父と兄がいて、それを探し出してそれぞれに手紙を渡してほしいというものだった。

       

 母はあるときから、二人を連れてレバノンから移住したという以外、その過去の詳細は子どもたちにもわかってはいない。母の遺言を実行するには、若き日の母の足跡を求めてレバノンへ行くしかない。渋る弟を残して、姉はレバノンへ行き、その故郷を振り出しに探索の旅を始める。この旅の映像の前半は、娘の探索のシーンと、若き日の母が故郷を離れて彷徨う様子とが交互に映し出される。

 故郷で母の名を出した途端、周りは不可解な拒絶反応を示す。ネタバレを承知でいえば、母はこの地でクリスチャンとして育ちながら異教徒のムスリムと恋に落ち、男の子を出産するが、恋人とは引き離されたばかりか、その彼は銃殺されてしまう。そのうえ、男の子も彼女から引き離され、どこかの孤児院に入れられてしまう。母の旅とは、その子を探しあてるための旅だった。


       

 この母が恋をし、子をなし、それを奪われた時代背景というのは1975年から90年頃まで続いたレバノン内戦の時代だ。この内戦では、キリスト教マロン派のファランへ党とムスリムとの闘争という図式をもち、彼女を抑圧したのはこのマロン派ファランへ党と目される。子供を求めて旅する彼女の乗ったバスを襲い、「私はキリスト教徒だ!」と叫んだ彼女以外のすべての乗客を撃ち殺し、バスを炎上させたのもこのファランヘ党であったか。現実のレバノン内戦の歴史を見ると、状況は違うが、ファランへ党によるバス乗客の全員殺害事件がでてくる。

 自分への抑圧、そしてこの凄惨な事件、そして息子のいる孤児院も彼らに襲撃されたと聞き、若き母はテロ組織に身を投じる。そしてファランへの指導者を殺した罪で15年の刑に処さられる。彼女はこうした逆境に屈することなく、獄中で歌い続けたため「歌う女」と称賛されるに至る。しかし、そんな彼女の心身を破壊し、その歌をも封じるために送り込まれた拷問人によって度重なる壮絶なレイプを受け、その後釈放されたということがわかってくる。

       

 このあたりから、弟も探索の旅に加わり、その母の若き日の全貌が明らかになるとともに、父と兄に関する衝撃の事実も明らかになる。そして、それに耐え抜きながらも、最後にプールサイドで見た情景に力尽きた母の過酷な生涯全体が・・・・。

 結局、手紙は「父と兄」に届けられ、謎は解かれる。しかし、これを見た者がその大団円に酔えるかどうかは別の問題だ。何らかの重い澱が残る映画ではあるまいか。

       

 これは2010年に公開され、この度、デジタル・リマスター版で再公開されたもので、もともとは4時間に及ぶ演劇であったものを、ドゥニ・ビルヌーブ監督が2時間余の映画にしたものである。

 これを書く前に、この映画について書かれた感想などを若干参照した。しかし、レバノン内戦、あるいは中東で、さらにいえば世界の至るところで展開されてる、民族、宗教、イデオロギーなどを巡る紛争を踏まえない感想や評論は、この映画の背景のリアリティを捨象した単なる謎解きにとどまっているように思えた。私たちはいまなお継続中の、世界観の争いの中にいるのだ。

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映画『PLAN 75』と老人たち むろん私を含む・・・・。

2022-06-30 14:30:02 | 映画評論
 『PLAN 75』は、75歳以上に達し、どうしても生きづらくなった人たちを、国家が「懇切丁寧に」フォローしながら、安楽死へと導いてくれる法案が成立した後の世界を描いている。いわば「合法的姥捨山」であり、若い人たちにとっては、幾分ディストピア的なSFの世界と映るかもしれない。

          

 しかし、2025年には75歳以上が人口の五分の一以上を占めることが確実で、しかもその75歳を上回ること10年近い私の世代には極めてリアルな問題なのだ。なぜリアルかというと、もし、この制度が今日実現したとしたら、それに呼応するかもしれない何人かの人たちを知っているし、かくいう私だって、然るべき条件下では応募する可能性はゼロとはいえないからだ。

 私自身の経験からしても、受け取る年金額は十数年前から一万円近くダウンし、月80,000円ほどだ。しかし一方、物価はどんどん上がり続けている。もちろんこれは私のみの例ではなく、年金生活者の一般的な情況である。

      

 この映画においても、「PLAN 75」登録者になる前の老人たちは、そしてそれを取り巻く現実は至って厳しい。倍賞千恵子が演じる角谷ミチ(78歳。賠償さん自身は81歳)は夫に先立たれながらも、ホテルの清掃従業員として働いている。しかし、映像で示唆される同僚の老女の仕事中の事故をもって、その職を追われる。作業中に従業員が死亡するなどという話題が拡散することをホテルが嫌ったのだろう。

      

 ミチは、収入源に見合ったアパートへの転居を決意するが、アパートの家主や不動産業者は高齢者の入居を忌避する。入りたければ、何年か分の家賃を前払いせよなどと迫る。高齢者の孤独死の舞台となることを嫌うからだ。
 ハローワークでの職探しの過程を含めて、自助のための努力は八方塞がりで、しかも、本人の尊厳をも傷つけられることが多い。ようするに老人が、いまここでこうしていることすらが困難な状況がある。
 こうした出口のない現実がミチをも登録者へと誘うことになる。

      

 この制度では、至れり尽くせりのフォローがなされる。もちろん、一度登録したからといっても、いつでも引き返すことが保証されているし、登録者たちには若いフォロアーが時折の話題の相手になってもくれる。ここには「福祉の極地」があるかのようだ。

 登場する若い世代も、無批判にこの制度の進行役を演じているばかりではない。
 この制度の勧誘や登録を業務としているヒロミ(磯村勇斗)は、長年行方不明になってた自分の叔父がこの制度に応募してきたのを知り、その最後まで付き合うこととなる。

      

 「その日」が来るまで、志願老人の相手をするコールセンターの瑤子(河合優美)もその名前の通り、まさに揺れている。フィリッピンから出稼ぎに来た子持ちのマリアは、子供の病の支払いにとより高額の収入が得られる「政府関係」の仕事に就く。それは安楽死させたひとの遺品をまるでごみの分別のように整理する仕事であった。

 これら登場人物がラストでさまざまに絡む。
 それは書くまい。実際の映画で確認されたい。

      

 繰り返すが、この『PLAN 75』で示される国家の対応は至れり尽くせりであり、福祉国家の極限でもあるかのようだ。
 
 しかし、私の想念にはある事件の記憶が蘇る。入居者の19人が刺殺された、津久井やまゆり園の襲撃事件だ。その事件で逮捕された植松死刑囚は曰く、「重度の障害者は生きてる価値はない。むしろ健常者にとって負担であるに過ぎない」。その「弊害」を取り除くべく、彼の手によって大量の殺害は実施された。

           

 一見この事件と、映画『PLAN 75』が描く高齢者への「手厚い」処遇は対極にあるかのようだ。しかしだ、障害者や老齢者の生存理由は次第に希薄になるのであり、つまるところ、商品価値を産み出すことへの寄与こそが人のあるべき姿、労働力商品こそが人間の存在理由だという論理は、そうではなくなったひとたちを公の措置として「丁重に」安楽死させようが、植松被告のように「荒々しい」の暴力で刺殺しようが、まったく変わらない論理ではないだろうか。
 この映画が、「仮の」姿としてえぐり出す国家の「不要者抹殺」の姿は、決してありえないものではないし、むしろ、しっかり目を見開いて観るならば、あらゆる国家はそうした論理をその度合いはともかく、隠然、公然と背景に持っているのだ。「福祉」という名の管理において。

 実年齢をメイクなどで隠すことなく、その老いを演じきった倍賞千恵子さんと、初長編という脚本・監督の早川千絵さんに、さらなる表現の可能性を期待したい。
 
 私に関するならば、安楽死よりも野垂れ死にこそがふさわしいと思っている。エロスという生の衝動を道連れに、「ここにいる老人」として、くたばるまであがき続けるという意味においてだ。


 

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尽きぬ興味の映像・・・・6時間の超大作映画『水俣曼荼羅』を観て

2022-03-04 01:22:37 | 映画評論
 監督は『ゆきゆきて、進軍』、『全身小説家』などで知られる原一男、彼の6時間にわたる渾身の超大作である。休憩時間を含めると7時間!
 こんな超大作を80歳過ぎの私が鑑賞に耐えうるのだろうか。しかも題材からして重くシリアスで、しかも暗くなりがちではないのか。私自身、当初はそんな懸念があった。

 しかし、それは杞憂であった。作品は三部に別れているが、第一部(「病象論を糺す」)は基本的で重要な病理論的な説明があってやや硬いかもしれないが、熊本大の医師たちが患者たちに平易に説明する形で展開され、しかもそれは具体的な診察を経由して説明されるので、私のような自然科学ボケでも鮮明に理解することができた。
 この第一部の熊本大医学部の浴野成正氏、二宮正氏の臨床的な治療活動の成果とその経緯は、なぜ水俣病が発覚以来六〇年以上になるのに、いまなお行政の対応が遅々としたままに推移しているのかを解きほぐす鍵となる。

              

 ここには「水俣病」の基本的な理解の相違がある。
 従来の医学は、それを「末梢神経の障害」として捉える。従って、末梢神経に目に見える傷害がない場合には患者ではないということで全て切り捨てられてきた。
 しかし、浴野、二宮の両医師は、目に見える傷害はなくとも、患者の様々な感覚において重大な欠陥があり、例えば、針で刺されても痛感がない、従って、普通の怪我が惨事に至るなど、視覚、聴覚、味覚などなどに重大な欠陥があるという事実、そしてそれは単なる「末梢神経の傷害」ではなく、中枢神経が損傷を被っていることによるものであることを明らかにしてゆく。
 従ってその中枢部分の損傷は、ある日、傷害となって出現する可能性をじゅうぶん秘めているのだ。

 こんな風に書くと、なにか病理学の講義のようだが、これらの事実は辛気臭い理論展開としてではなく、患者との往診や対話の中で、映像として明らかにされてゆくので生身の現実として理解することができる。

          
 
 さらに、第二部、第三部になると映画は下手な劇映画よりも遥かに面白い展開を見せるようになる。映像の主役が、いまなお後遺症を抱えながら、現実と向き合い、生活をしている患者たちであり、その具体的な生活が数々のエピソードとともに、ある時はユーモラスに描かれてゆくからである。

 第二部の冒頭からしばしば出てくる生駒秀夫さんは、少年時代に自分の手足が勝手に 跳ね動き、まるで何かに操られて踊り狂っているかのような症状を見せたのだが、その後の治療によって今はそれほどでもないが、まだ細かな痙攣は続き言葉にもその震えが残る。しかしながら、その言動はいたって活発で明るさを失わない。
 人を介しての見合い結婚だが、自分のような患者のもとに女性が来てくれる事自体がありがたく、新婚旅行の初夜は一睡もできず、嬉しさがこみ上げるあまり新婦に指一本も触れられず、ただただうれしく有りがたがっていたというエピソードも、またそれを語る彼の語り口も実に面白くほほえましい。
 彼らは患者として、しかめっ面をして生きているのではないのだ。それだけに、住民としての通常生活への支障を認定することなく、頬かむりを続ける行政の冷ややかさが逆照射される。

                

 第三部の坂本しのぶさんも面白い。胎児性患者の彼女は外見そのものがいわゆる健常者のそれとは異なる。肢体も表情も言語表現も不自由そのものである。しかし、彼女は「恋多き女性」である。映画の中でも、それぞれ実らなかった幾つかの恋が語られる。なかにはその恋の対象であった男性とともにその折の思いを語る。彼女の恋は率直そのもので、その失恋も表面的には陰鬱なものではない。
 彼女は同時に作詞家である。彼女の詩に曲を付けた シンガーソングライターとともに舞台に上がり、その傍らでその歌に耳を傾け、頷いたり調子を合わせたりしながらのパフォーマンスも披露する。

               

 ここに例示したのはほんの一部の人に過ぎないが、 様々な人々がその病を背負いながらも懸命に生きている姿はとても自然でどこか懐かしいものすらある。
 しかしながら彼らのその生活の背後に、患者であるということ、しかもそれらが十分に補償されていないということ、中には患者であるとすら認定されていないという厳しい事実がある。

 ここで第一部に帰っていうならば、 水俣病を単なる末梢神経の障害としか見ない保守的な見解は、その患者の中枢が侵されており、それによってこそ様々な末梢での感覚障害が起こっているという事実を認めようとしない。そのことによって感覚障害を訴えて 患者としての認定を迫る人々を水俣病ではない単なる感覚的な病であるとしてその認定から遠ざけてきた。
 冒頭に述べた2人の医師の検証によって、それらが中枢での障害によるものであることがほとんどの裁判で立証されたにもかかわらず、今なお誤った認定基準による仕分けがなされ続け、救済さるべき人たちが放置されているのだ。
 患者からの認定を審査する熊本県によれば2010年代の実態は毎年何百人かの申請があるうちで、患者と認定されるものは多くて年、数名であり、全くゼロの年も何年か続く。
 かくして水俣病はそれが公になって60年以上を経過してもなおかつ救済されないままの人たちを積み残しているという現実がある。

          
 
 水俣の歴史は実はさらにさかのぼることができる。それはおおよそ80年前、つまり戦前においても猫たちの異常な狂乱ぶりと死亡がすでに報告されているのだ。よく知られているように港町には猫たちがたくさんいる。この猫たちは漁師が水場をした魚のうち雑魚に類するもの、あるいは魚をさばくうちに出てきた内臓などが放棄されるものをその餌として生きている。後に分かったようにそれら内臓等は、有機水銀が最も凝縮されて蓄積される場所である。したがってそれらを食した猫は激しく痙攣をし、狂おしく踊りまわり、次々に死に至ったのだった。

 やがてそれらが人間たちの目に見える症状として現れたのはおよそ60年前のである。それ以降医師たちの賢明な原因解明、患者たちの訴えなどなどからチッソが戦前から垂れ流してきた有機水銀がその原因だと判明し、ある程度の救済措置も取られてはきた。
 しかしそれは今なお不十分でその救済の網目から漏れた人たち、あるいは今後も起こりうる発病等への補償は全く不十分であることをこの映画は示している。

          
                石牟礼道子さん 第三部に登場する

 それは何故だろうか。行政の中にある国民に対するいわば「性悪説」のような態度に起因するのではないかと思われる。どういうことかと言うと、行政は、犠牲者を救護するというより、これら患者ないしはその候補者たちは、隙があれば国の補償を過剰にかすめ取ろうとしているという人間への不信感のようなものもち続けているということである。
 この性悪説に基づく国民の管理と言う役人根性はこの水俣において十全に発揮されているが、問題はそれが、患者を救済するという本来の趣旨を完全に阻害しているということである。
 同様にこうした思想は、例えば当然の権利である生活保護の制度を、あたかも欠陥ある者たちへの施しのような形で考える一部政治家、ないしは官僚や役所の所業にも見られるものだ。

          

 これをさらに大きな枠で考えるならば、本来国家や役人というものは国民に対してどのような責任を負いどのような行為をなすべきか、あるいはなしてはならないかを定める憲法を、逆に国家による国民への管理体制ととらえ、義務や責任を押し付けるものに変更しようとする連中の基本的な改憲案の思想と相重なるものである。

 ちょっと枠を広げすぎたかもしれないが水俣というこの今となっては誰の目にも明らかな公害、日本4大公害といわれる中でもずば抜けて質の悪い(というのはそのもたらした障害の内容と同時にその障害を隠蔽し、その障害者の認定、障害者への援助を遅延させてきたという意味での)公害、それが 今なお現地では現実の問題として存在していることをこの映画は如実に示している。
 
 第一部で見たように末梢神経の障害と見るか中枢神経での障害と見るかによる違いは顕著である。中枢神経による障害とみられる被害者の約80%を、末梢神経の障害として見る保守的な立場は不適格者とみなし、患者として認めようとしない。そればかりか金目あてのの悪意ある便乗者とみる見方にもつながっている。

          
 
 最後に、ある集会において中枢神経からくる感覚障害について泣きながら訴える患者の声を紹介しておこう。
 「うまいものを食ってもその味がさっぱりわからん。 オ○ンコをしても感じるか感じないかすらわからない。ただこすっただけ」 その他いろいろな例を挙げ彼は、このように要するに感覚がない、わからないということは、自分たちが「文化から見放されている」ということだと訴える。

 この映画は こうした 重い問題を背景に持ちながらそれを観念的に訴えるのではなく、そのもとで生きている人々の悲喜こもごもの様相を見せることによって、ありきたりのアジテーションであることを免れている。すでに述べたように、ときにそれらの人々はユーモラスですらある。
 6時間と言うのは膨大な時間ではあるが、しかしこの映画は、その負担をほとんど感じさせない。まるで良質のドラマを見ているかのように、その展開の中にひきこまれている自分がいた。 説明がましいナレーションもなく、必要な事項が時折字幕で示されるのみで、ほとんどの事柄は映像そのものによって語られる。まさにこれぞ映画の力であると言うことを実感させられる6時間であった。

 上映は名古屋シネマテークで。残念ながら3月4日で終了するが、それ以外の地区ではこれからの上映もあるはずである。お勧めの6時間である。



 
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映画『男子ダブルス』を観る 付:名古屋今池の夜

2021-12-19 16:16:02 | 映画評論
                 
 映画って本当に間口が広いし、私はその一端しか知らないんだとつくづく思った。
 特のこの映画に関心があったわけではない。この日の夕方からメインの会があったのだが、そのためだけに県境を超え、交通費を払って名古屋へ行くのももったいないので、その会の前に久々に映画でもと思って検索した結果ヒットしたのがこの映画。

 名古屋シネマテークがこの日から一週間、「フランス映画の現在」と題して行うヌーベルバーク以降からこんにちにかけてのフランス映画の推移を展望する企画の初日のだしものだ。
 この日は、ジャン=フランソワ・ステヴナン監督の『防寒帽』(1978)と『男子ダブルス』(1986)二本が上映されたのだが、時間の関係で後者しか観ることができなかった。
 
 ただし、両作品の間におこなわれたフランス映画に造詣の深い坂本安美さんのリモート・トークイベントを観ることはできた。その話が、うまく理解できたかどうかはいささか疑問だ。というのは、けっこう固有名詞が出てきて、もともとフランス映画に暗い私にはその具体的イメージがよくつかめなかったのだ。

 そうした前置きはともかく、まずは作品そのものをということで、引き続き映画『男子ダブルス』を観た。タイトルからテニスなどのスポーツの試合を連想しがちだが、それは違う。原題の直訳は「二人の男性」といったところか。

 なぜ二人の男性かというと、前半は二人の男性のロードムービー風の構成だからだからである。ただし、本来は二人ではなく三人になるはずであった。
 というのは堅実な生活を送って四〇歳に至ったフランソワ(監督自身の出演)は、少年の頃林間学校で一緒だった仲良し三人組のうちのひとり、レオを雑誌の表紙で見つけ、彼のもとへやってくる。

 二五年ぶりのフランソワの出現に勢いを得たレオは、もうひとりのかつての仲間クンチュに会いにゆこうと提案し、フランソワもそれにのる。
 クンチュはグルノーブルの山間部で建築業を成功させ裕福な地位にあるが、なかなか会うことができない。二人は、彼の屋敷へ忍び込むような無茶をやってのけるが、これも、かつての遊び仲間であった間柄による悪ふざけのようなものであった。

 このあたりから、話の筋は読みにくくなり、登場する人物たちの相互関係もわかりにくくなる。というのは、この監督のカット処理が独特で、状況を説明するような配置というより、出来事の断片を観客に投げ出すようにして映画はつながってゆくからだ。したがって、話の進行は容易に読み取ることができないままだ。

 クンチュに会えないままにいるなかで、突然、黒ずくめの絶世の美女が現れる。このあたりから話はミステリアスで、いささかのサスペンスを感じさせるものとなる。
 この女性、エレーヌはクンチュの妻なのだが、この夫妻の間もなんだかよくわからない。エレーヌの出現で、彼女が電話をする相手、クンチュウの声のみが聞こえるが、いくぶん冷たい感がある。

 何やかやで、二人の男性はエレーヌを無理やり車に押し込み、誘拐してしまう。もちろん、金銭目当てのいわゆる営利誘拐ではないが、ではなんのための誘拐かというとそれもよくわからない。

 フランソワ、レオ、エレーネの三人の車の旅が続くなか、途中で得体のしれない人間たちによって高級ホテルに軟禁されるのだが、それがどうしてなのかはわからない。
 このホテルでの軟禁はさほど厳密なものではなく、やがて三人はそこを抜け出し再び車での道中が始まる。この過程のなかで、どういうわけかエレーネはレオを嫌い、フランソワとの交流が多くなる。

 そんななか、ついにはレオは二人に振り払われ、寂しく列車で帰ることとなる。
 フランソワとエレーネは雪のグルノーブル付近の山中を、あるいは逃避するように、またあるいはふざけ合うように、もつれて駆け回る。
 一方、カメラは、山中のレールを追い、そのレールが断崖絶壁で折れ曲がり切断されているのを辿り、そこで突然停止し、映画は終わる。

 いかがであろう。
 私はいつも、映画を語るとき、そのストーリーを上記のように書くことはしない。なぜなら、これから観ようとする人たちのことを考えるからである。
 しかし、この映画に関してはいいだろうと思う。というのは、先にちょっと述べたように、監督自体がストーリー展開に寄り添ったり、そこにある意味を開示するような撮り方、編集の仕方をしていないからだ。

 だから、上に述べた私が受け取ったストーリーやあらすじそのものが「そうではない」ことはじゅうぶんありうる。だいたい、上の私の記述そのものが、連続する映像の中から、私にはよくわからない部分を全部捨象して組み立てたものに過ぎないのだ。

 監督は、起承転結にこだわることなく、出来事の断片を軽重を無視したままでつないでゆく。したがって、最後に至っても収拾が付けられないままにいくつかのシーンが残されている。
 もちろんこれは、監督の編集能力の不備ではなく、むしろ禁欲的に自己同一的な事態に収集されてゆくことを避けているからに違いない。
 そういえば、余計な感傷や感情移入を避けるためだろう、映画音楽は一切使われていない。現実音と人の放つセリフのみだ。
 映像は、鏡像などが混入する場面もあるが、クリアである。とりわけ、ラストの雪山のシーンはキーンとくる山の冷気のなか、男女が駆け、転び、もつれるシーンがとても鮮やかであった。

       *    *    *    *    *    *

 この映画を観てから、ウニタ書店に立ち寄り、書を一冊購入し、かねてより、企画されていたのだが、コロナ禍のなか、延期されていた催しに参加した。
 それは名古屋今池の一角を照らしてきた「壺」→「葦」の1960年代後半からの半世紀以上の歴史に本年3月末でピリオドを打たれたことを記念し、「壺」時代は客として、「葦」時代はその女主として頑張ってきてやがて米寿を迎えるという小葦さんへの謝恩と、店そのものの終焉を見送る会であった。
 その両時代を知る人がもはや少ないなか、私が冒頭の挨拶をした。私が話したエピソードのなかには、もはや還らぬ人となった10人近い人々との交流が影を落としていて、自分で話していて胸を突くものがあった。

 帰宅してからふとつけたTVでは、たまたまドラマをやっていたが、出演者がいかにシリアスに演じていても、その落とし所がわかってしまい、視聴者をどういう「共感」に取り込もうかということが読めてしまう底の浅いドラマであることに興醒めして、観るのをやめた。
 
 こうした「自同性への回帰」というドラマそのものが、「現実固着」のイデオロギー措置ともいえることがわかるのも、今日観たような映画の副作用かなと、思ったりもしている。

 
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錯綜する「事実」そして『ファーザー』の困惑と恐怖(映画の感想)

2021-08-06 11:04:57 | 映画評論

 私は結構いわゆる認知症には縁がある。
 50代には、いろいろな事情があって、そうした症状の義母を数年間預かったことがある。彼女の症状は普段はおとなしいのだが、ときおり、食に関してのトラブルがあった。食事をして10分も経っていないのに、まだ食べていないと言いはったり、知らない間に冷蔵庫のものを食べてしまったり、あるときなどは一房買ってあったバナナを全部平らげてしまったりした。徘徊もしばしばあった。今はもう故人である。

 妹の連れ合い、つまり義弟はまた少し違う。記憶の減退は著しく、一緒に葬儀に出た人について、「お義兄さん、最近あの人と逢ってますか」と尋ねられたこともある。ひところ、やや暴力的になったこともあったようだが、今は妹や姪の介護で落ち着いているようだ。

            

 私の連れ合いは数年前に亡くなったが、その前数年間は認知障害であった。
 彼女の場合は、健常時にはけっこう自己主張があって厳しい言動もあったのだが、障害後は一変してまろやかな「可愛い素直なおばあさん」になってしまって、これなら自宅療養でなんとかなるのではと介護者の私は思ったものだった。

 そしてもうひとり、昔っからの友人が時間や空間の認知が損なわれて来た事実に苦しんでいる。この人の場合、自分の症状の進行に充分自覚的であるだけに、そしてそれを嘆き、アイディンティティを守りたいと必死に願っているだけに痛ましいところがある。かえって、その段階を早く抜けて別の平衡に至ったほうがいいのではないかとも思われる。

         

 しかし、上記の観察は、いずれもその当事者の外部にいる、私の視点からのものに過ぎない。
 が、この映画はそうではない。そのほとんどが、認知障害をもったファーザー、アンソニーの視線や経験からなっている。だから、それを観ている私たちには、人物やシチュエーションが目まぐるしく変わってしまったりする異変が、まるでミステリアスなホラーであるかのように感じられる。

 時空や事物の同一性を撹乱したまま受容しなければならないアンソニーの葛藤は痛々しい。同様に、そんな父と付き合ってゆかねばならない娘、アンの立場もつらいものがある。

         

 ファーザー・アンソニーにとってはもはや失われてしまった「客観的」事実が明かされるのは最後のシーンである。ここに至って私たちは、これまで観てきた錯綜したシーンの、どれが「客観的」であったかが示され、納得する。
 しかし、忘れてはいけない。アンソニーにとってはそれは今なお錯綜したままであり、「樹の葉が全部落ちる」ように、事実は失われてゆくのだ。

         

 亡き母を思い泣きじゃくるアンソニーは、介護人にしがみつくようにして「現実」を受け止めようとする。カメラは、窓の外の公園の緑の樹々をアップして映画は終わる。
 アンソニーは失った「全ての葉」を、その樹々の下を散策することによって、多少は取り戻せるのだろうか。その錯綜した現実と折り合いを付けながら、新たな均衡のなかで生きて行くのかもしれない。そこに、かすかながら希望が、生きることの筋道のようなものがある。

         

 この映画を、客観的に語ることはできない。なぜなら、これは私の明日の姿であり、その予兆のようなものにすでにとり囲まれているからである。
 また、一般論からいうならば、私たちが客観的事実と信じているものは多かれ少なかれさまざまな差異を含んだ曖昧さのうちにある。そして私たちは、それをきっちり「事実」に合致させるチューニングの方法を知ってはいない。

 アンソニー・ポプキンスの演技はやはり素晴らしい。
 映画が好きな割に俳優にはあまりこだわらない私だが、この人については「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクターや、カズオ・イシグロ原作の「日の名残り」のジェームズ・スティーヴンス の演技を記憶している。

         
 

 どうでも好いが気づいたもうひとつのこと。
 この映画、ほとんどのシーンが室内なのだが、それがどの室内なのかはアンソニーの認知のなかでは錯乱したままである。

 音楽は冒頭からオペラのアリアにより始まり、それらはしばしば聴かれるのだが、その音楽たちは外部から付けられたBGMではなく、アンソニーその人が聴いているものであり、したがって、彼の陥っている悲壮感を表す一方、彼が「健常」であった折の趣味をも示すものとなっている。

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彼女はどう祝福されたのか? 映画『ペトルーニャに祝福を』観る

2021-07-03 11:09:08 | 映画評論

 マケドニアと聞いて私たちはどれだけのことを知っているだろう。
 私に関していえば、古代マケドニア王国にはアレクサンドロス大王という英雄がいて、南はエジプトから東はインドをも征服したが、若干31歳で毒殺か酒の飲みすぎかで命を落としたことは知っている。その後の歴史はほとんど知らず、戦後史においてはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部となったことは知っていた。

             
 
 そして、1991年の社会主義圏崩壊により、旧ユーゴスラビアも解体され、マケドニア共和国になったのだと了解していた。ここで取り上げた映画も、チラシなどさまざまなところで「マケドニア映画」として紹介されている。しかし、厳密に言うとマケドニアという国は存在しない。
 それは、古代マケドニアの栄光を自らのものとするギリシャのクレームによってその国名は封じられ、2019年、「北マケドニア」に国名を変更したからだ。なぜ国名まで変更したのかは、それにによってEUへの加盟の道が開かれるからだという(現在審議中)。

                        

 まったく余計なトリビアになったが、「北」の有無にかかわらず、私にとっては初めてのマケドニア映画であった。
 主人公ペトルーニャは歴史学で大学を卒業し、学歴はあるものの、それを生かした職業にはありつけないままに過ごしてきた32歳のやや肥満体の風采の上がらない女性である。生活態度もどこか投げやりなところが目立ち、だらしない感が目立つ。
 面接試験に出かけるのだが、そこでもセクハラ的な扱いを受けるだけで相手にされない。

 その帰途、ギリシャ正教のある催事に遭遇する。それは、日本でもよくあるはだか祭に似ていて、川のなかで待機する裸の男性のなかに、橋の上から司祭が十字架のイコンを投げ込み、それを拾ったものが幸運を保証されるというものだ。
 川岸で視ていたペトルーニャは、衝撃的に川に飛び込み、その十字架のイコンを拾ってしまう。

          
         
 問題はここに発する。実はこの行事、伝統的な不文律として女人禁制だったのである。そのイコンを離さない彼女に対し、家族も離反し警察へと連行され取り調べを受けることになる。映画の後半は、警察署が舞台となる。
 しかし、彼女はある特定の宗教団体の私的なタブーを犯したのみで、刑法上の規定には何らの抵触もしていないし、社会的な意味でも周辺にどんな迷惑をも及ぼしてはいない。

 ペトルーニャの拘束をTVの女性レポーターは懸命に伝えようとするが、一般市民も、TV局もまったく関心を示すことなく、レポーターと同行したカメラマンは局の命令に従って帰ってしまう。ただし、レポーターの要請に応じてカメラはおいてゆく。
 一方、狂信的な裸の男達は警察署へと押しかけるが、窓ガラスを割ったりして建造物損壊で逮捕されたりもする。
 そんななか、ペトルーニャへの恫喝や哀願を交えた説得が続くが彼女はそれに応じない。イコンは私がとった、私にも幸運が保証される権利がある、だから返さない・・・・と。

          
           
 彼女の主張は、ジェンダー論などに裏打ちされたものではなく、その発端も衝動的であったし、その後の経過もただ頑なであるかのようにみえるのだが、そのみどころは、この警察署での経過のうちで、当初、怠惰でだらしなくみえた彼女の挙動や表情がどんどん引き締まり、美しくさえ視え始めるところだ。
 こうした女性の変貌には既視感がある。
 2014年、主演の安藤サクラの体当たり演技が話題になった『百円の恋』の主人公の変遷を思わせるものがあるのだ。

                      

 ペトルーニャの取り調べには、検事まで登場するのだが、いかなる法的権威をもっても彼女を拘束し続けることはできないだろう。そしてやがて、彼女は放たれるだろう。
 そしてその折、彼女がとった行動は、どこか拍子抜けするような、でもどこかホッとするようなものであろう。
 そして、私は期待するのだ。これを経過したペトルーニャは、これまでとは違った生を方を辿るかもしれないと。

          
 
 カメラワークが面白い。会話などが画面中央で行われるのではなく、登場人物の頭しか映っていないところで行われたり、時折、登場人物がまったくのカメラ目線で登場し、「あんた、どう思うの?」と問われているような気になったりする。

 監督はテオナ・ストゥルガー・ミテフスカという女性だが、この映画で初めて知った。
 




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『地球で最も安全な場所を探して』旅する映画 【付】SF的補足

2021-03-19 17:40:54 | 映画評論

 世界中の原発から出るいわゆる「核廃棄物」の処分場、ようするに原発に欠落してると言われる「トイレ」を探す諸問題についてのドキュメンタリー映画だ。
 この種の映画は、頭っから反原発を掲げてのものが多いが、この映画ではそうではない。そして、それがこの問題をめぐるリアルな現実とその困難さをかえって浮き彫りにしている。

 登場する人物の中心は、イギリス出身でスイス在住の核物理学者にして廃棄物貯蔵問題専門家としても高名なチャールズ・マッコンビー氏。彼は、原発の是非はともかく、この60年にわたるその稼働によって蓄積された35万トンにわたる高レベル放射性廃棄物を数万年、場合によっては10万年の未来に至るまで、安全に保管できる場所を求めて、世界中を巡る。
 そうした安全な保管場は今のところほとんど見つかっておらず、にも関わらずそれら核廃棄物は今日も増加し続けているのだ。

          

 彼は、そうした「安全な」最終処分場を求めて、イギリス、ドイツ、スイス、スエーデンなどのヨーロッパ諸国やオーストラリア、アメリカ、中国、日本(青森県六ケ所村)などなどをめぐる。
 処分場が実現するためには、地質学上の「絶対に安全」な地盤でなければならない。国際原子力機関 IAEA が決めた基準というのは、地震がない、地下水がない、地盤が粘土質で安定しているなどだが、実は地球上にこれらの条件を満たすところはほとんどないのだ。
 それに近い場所として、オーストラリアの南部に白羽の矢が立ったことがある。しかし、オーストラリアは断った。それはそうだろう。原発をもたないこの国が、汚染のリスクを犯してまで原発の上にふんぞり返っている国々の尻拭いをしなければならない義理はないのだ。

             

 こうして、いずれの国、いずれの箇所でも、この危険を進んで受け入れようとするところは少ない。そこで登場するのが、この施設を受け入れれば、それに伴う雇用機会が増え、助成金などで地域が豊かになるという勧誘だ。
 この誘いには既視感がある。そう、原発導入に使われた懐柔手段が、その処分場の建設でも駆使されているのだ。
 つまり、原発の設置も、その結果の尻拭いも、地域格差による貧困につけ込んで行われようとしているのだ。その図式のあまりのステレオタイプさに驚くほかはない。

 かくして、なんとか増え続ける核のゴミを処分する場を確保したいという「善意の」努力も虚しく、「地球で最も安全な場所を探して」の試みは頓挫しているのだ。
 つまり世界中の原発は、その核廃棄物の処分の見通しを欠いたまま、「そのうちなんとかなるだろう」という植木等ばりの(若い人にはわからないかも)無責任さでもって今日も運転され続けているのだ。

         

 この問題は、まさにグローバルな問題であると同時に、とりわけこの日本にとっては実に深刻なのである。
 そのひとつは、世界中の原発約400基のうち約50基がこの地震列島日本に集中しているというその密度の高さにある。世界中で出る核のゴミの8分の1はこの国によるものなのだ。
 そればかりではない。それに加えてこの国は今、あのフクイチの3基の原発の廃炉作業を抱えている。これがまた、膨大な核汚染物資の処分を必要としているのだ。
 
 それについては3月14日放送の「NHKスペシャル 廃炉への道 2021」が詳しいのでそれに沿って述べよう。
 先に、現在世界で蓄積され行方の決まっていない汚染物質の総量は35万トンと述べた。では、フクイチの廃炉で出る廃棄物はどうか。核燃料やメルトダウンの結果としてのデブリ、建屋そのもの、周辺の諸施設、その地盤、などなど、「日本原子力学会」の試算によれば、その総量はなんと780万トンに達するというのだ。
 ついでながら、政府は40年で廃炉を終え、40年後には更地として再利用が可能としているが、前記、原子力学会は最短で100年、最長は300年先としている。

                     

 核廃棄物の話に戻ろう。この780万トンの行き先はもちろん決まってはいない。今のところ、フクイチの施設内に蓄積される一方だ。Nスペはそれらの蓄積地拡大の模様を航空写真で如実に捉えていた。
 しかし、そうして蓄積できる固形物はいい。そうではない冷却用の汚染水はまさに緊急の問題としてその解決を迫られている。現在は、その敷地内でのおびただしい貯水タンクに収められているが、その総量はキャパシティの90%をすでに超えている。

 どうするのか?蒸留して大気に逃がすか、海へ放出するかどちらかだという。政府や原子力ムラの連中は、それらの水は既に浄化されており、わずかなトリウムしか残っていないから安全だといい、それに危惧する言動は風評にすぎないという。
 しかし、私たちは原発は120%安全だという安全神話が覆るのを目の当たりにしてこなかったろうか。そして、今日のこれらの問題は、その安全神話を信じた結果もたらされたものではなかったのか。

         

 この映画の出発点は必ずしも原発反対ということではないと述べた。しかし、その廃棄物を処分する地を追い求めた結果から見えてくるものは、結局原発というのは人類に解決不能な難題を押し付けているいうことなのだ。これはもはや、賛成とか反対とかいうものだはなく不可能なものなのだとさえ思う。

 しかし一方、増え続ける核廃棄物への、そしてフクイチ廃炉での汚染物への対応が現実に必要なのはわかる。ここは、全人類の知恵の絞りどころだろう。
 とはいえ、一方では原発が稼働し続け、日々それらを排出し続けるなかでこれを解決せよというのはどうしてもおかしい。世界中の原発をできれば瞬時に、あるいは漸次(といってもできるだけ早く)、停止させることが前提での作業ではないだろうか。

  監督 エドガー・ハーゲン  後援:在日スイス大使館


【SF的発想による続編】
 さて、そうして核廃棄物の処分場が見つかったとしよう。そこには10万年にわたって安全に保管されねばならないという。
 ここで考えてしまうのだ。人類が文明をもち、伝達機能としての記号や文字をもつに至ったのはたかだか数千年前に過ぎない。そしてそれらの記号ないしは文字が、今日の私たちにすべて解読可能であるわけでもない。
 大英博物館にあるロゼッタストーンは解読なし得た一つの記念ではあるが、解読し得ていないものもある。例えばナスカの地上絵は上空からしか見えないそれらがなんのために描かれなにを意味しているのかはいくつかの憶測はあるものの謎のままである。

         

 なにを言いたいかというと、核廃棄物の貯蔵地が運よく見つかったとし、そこへのン万、ン百万トン単位の核廃棄物が貯蔵されるとする。もちろんこれは極めて危険であるから厳重に保管され顕わにされることはないだろう。そしてその危険性は、代々にわたって文書や記号でもって後世へと伝えられるだろう。

 しかし、やがて文明は変化し、原子力そのものが過去の野蛮な遺産として放棄され、そしてついにはそんなものがあったことすら忘却されるだろう。その折の文明の姿がどのようなものかは想像すらできないが、百年、千年後はともかく、更にそれ以上が経過した時、果たして今日の記号や言語が彼らにとって解釈可能なものとして残るだろうか。否、記号や言語を介して何ごとかを伝達するということ自体が残存するだろうか。
 つまり、危険物がここに集約されているいることをン万年後の人類にちゃんと伝えることができるだろうかという問題があるのだ。

         

 広大な砂漠や岩山が連なる一帯に、何やら頑丈な建造物群や洞窟状の箇所が集中している場所が発見された。その周辺には棒状のものが一定の間隔で立ち並び、その棒状のものが横に渡したものによって連結され、それらがこれら建造物群を取り囲んでいる。その入口と思しき場所には奇っ怪な図柄のカードのようなものや、板状の平面に細かい模様が列をなしたものが立ちふさがるように立っている。
 どうやら、古代人の遺跡のようなものだ。しかも人里離れたこんな場所に、こんなに厳重にしまい込まれているのは宗教とかいうものの秘儀のための場所だったのだろうか。

         

 あるとき、大掛かりな探検隊が組織され、入り口は破砕され、中のものが古代の遺物として運び出され、大勢の人々に公開される。
 何やら整然とした形状のものもあれば、不規則に歪められた形状のものもある。この大発見は人々の関心を呼び、世界中の各地で大々的に公開された。
 その頃から、それに触れたり、一定の距離で見たりした人を中心にバタバタと倒れる者が続出し、そのように彼らを倒した危険な毒素は、空気や河川、大洋に媒介され、地球の隅々まで拡散され、それにつれて被害がどんどん広がって行った。

 それらは、紆余曲折があってここまで生き延びてきた人類に、決定的なダメージを与えてゆくのだった。

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軽妙洒脱な会話バトルのコメディ 映画『お名前はアドルフ?』を観る

2020-08-09 11:38:02 | 映画評論

 先般、久々に劇場のスクリーンで映画を観たといった。しかも一日に二本も。
 そして、その内の一本、『花のあとさき ムツばあさんの歩いた道』については先般、このブログに感想を述べた。

 もう一本についても感想を書き記しておこう。
 映画は、『お名前はアドルフ?』、2018年、ドイツの作品である。監督はゼーンケ・ヴォルトマン。
 映画にもかかわらず、ほとんどが限られた室内での5人による会話劇。それもそのはず、もともとはフランスでの舞台劇。その折のタイトルは『名前』もしくは『名付け』。
 「アドルフ」からの連想で、欧米では尽きることがないナチ絡みのシリアスな映画だろうと思う向きもあろうが、それに尽きるものではない。

             

 多少のネタバレはご容赦で(肝心なところは書きません)内容について述べよう。
 ボン郊外の瀟洒な住宅で開かれたパーティ。出席者はこの家の夫妻、シュテファン・ベルガーとエリザベート・ベルガー=ベッチャー(この二人は幼馴染でもある)、それに、エリザベートの弟のトーマスベッチャー。彼は学歴はないが商才にたけていて、財を成している。それに、この3人と幼馴染のレネ・ケーニヒ。職業はオーケストラのクラリネット奏者。少し遅れてくるのが、弟のトーマスの恋人、アンナ。彼女は女優を目指して舞台のオーディションを受けている。

 話の大半は、この5人の会話によるのだが、もうひとり、エリザベートやトーマスの母親・ドロテア・ベッチャーの存在を欠かすわけにはいかない。
 彼女はこのパーティには参加せず、ただリモートで電話をしてくるだけだが、思いがけず重要な役割を背負うこととなる。

           

 さて、映画の邦題の『お名前はアドルフ?』についてであるが、それはトーマスが、恋人アンナとの間にまもなく生まれるだろう子供に、「アドルフ」と名付けると宣言したことによる。
 その前に、その名前を他のメンバーが当てようとする展開があるのだが、それに私は興味をもった。

 それは表音文字の欧米と、表意文字のこの国の名前のイメージに関する問題である。この国では、大半が漢字で名付けられるが、その際、発音もだが、どの文字を用いるかによって名前のイメージ、ないしはそれに込めた名付ける側の意図が表現される。これは、いわゆるキラキラネームを含めてそうであるといえる。

 欧米の表音文字の世界ではどうだろう。確かに、アルファベットから選ばれる文字の配列やその発音に多少の意味作用はあるにせよ、この国の、良子、勇太、和美、義博・・・・などのように直截的ではない。
 ならば、何を参照点としてその名前のイメージを導き出すのか。それはおそらく、同名の、もしくは類似の名前をもった先人の業績に負うところが多いのではあるまいか。

           

 映画の中で展開される名前当てクイズがまさにそれである。ここには西洋史に詳しくないとわからない要因があり、それがくすぐりになっている場面が多いが、私にもわかったのが、「じゃ、ドナルドは?」と誰かが言ったときの総員の反応だった。「は?ドナルド!ハハハハハッ」「ドナルドだって?ハハハハハッ」という嘲笑と哄笑がしばらく続くシーンだ。この映画ができた2018年、そう、あの人はもうアメリカの大統領だった!

 その後、「アドルフ」であることが明かされ、侃々諤々の論争に至るのだが、面白いのは、言い出しっぺのトーマスが決してネオ・ナチなどではなく、むしろ、アドルフという名に染み付いた悪いイメージを、その子を立派に育てることによって払拭するのだといっていることである。

           

 しかし、このアドルフ論争は、じつはこの映画の目指すところではないことがやがてわかるだろう。
 ただし、この論争の過程で、表面を取り繕う物言いがすっかり剥がれてしまった本音バトルは、次第にヒートアップして、意外な事実や告白が引きだされることとなる。
 
 それまで、ほとんど脇役風で、女性への志向を感じさせないところからゲイだと思われていたクラリネット吹きのレネの秘密が明かされ、その意外な恋人が露見して大騒動になるくだり、そしてそれまで、パーティの料理を担当し、居間と台所の間を忙しく行き来していた妻エリザベトが切れて、夫シュテファンを始めとする男性陣への長広舌の批判を展開するくだりなどなどは、ほとんど修羅場を呈するに至る。

           

 上記の不在の母ドロテアを含めて6人の「家族集団」は、この会話バトルの中で、これまでの上辺の均衡が解体され、明かされた事実に直面しなければならないだろう。
 もうこれまでと同じではいられないが、しかしそれを踏まえて新たな出発をする以外にない。

 それを象徴する場面がラストにやってくる。新たな結束は、そう、つねに新しくやってくるもの、新たに生まれくるものによって更新される。
 あわや、アドルフと名付けられようとした子供の生誕である。
 その祝いに、不在だった母も駆けつけ、家族全員が、むろん、新しい生も含めて7人が勢揃いすることになるだろう。
 そして、最後に父になったトーマスによって明かされる「ん?」な事実・・・・。彼は祝いに駆けつけた面々にいう。

           
 
 「いいニュースと悪いニュースがある。いいニュースは母子ともに健康だということだ」そして、少し溜めを作ってからいう。「悪い方のニュースは・・・・」、しかしその目が笑っていることから、決して本当に悪いニュースではないことがみてとれる。
 「悪い方のニュースは・・・・・・・・」と、トーマスは続ける。
 この映画の最後のフレーズとなる言葉、それは見事なオチになるのだが、それは言うまい。料金を払って映画を観たものの特権だ。
 しかし、この映画全体を貫くウィットや意外な展開、それを集約したようなフレーズが用意されていることだけは言っておこう。

           

 映画をよく観る割に俳優の名前などには疎い。
 この映画の出演者についてもよくしらないのだが、それぞれの演技が素晴らしく、単一の場面設定で多少の隙きができそうなものだが、それらが全くみられず、原語に疎い私にも、その会話部分が極めて充実した演技によって流暢に支えられていることがわかり、興味を逸らす箇所がまったくない。

 難しくいえば、破壊とそれによる再統合といったことかもしれないが、そんなことにお構いなく、このファミリィは、相変わらず侃々諤々な会話バトルを続けてゆきそうなのだ。またそうであってほしい。
 底抜けにおもしろかった。


【おまけのトリビア】レネ・ケーニヒ役のユストゥス・フォン・ドホナーニの父は、世界的指揮者・クリストフ・フォン・ドホナーニ。だから、彼にはオケのクラリネット吹きの役がふられたのか。

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自然と人間の輪廻 映画『花のあとさき ムツばあさんの歩いた道』を観る

2020-08-06 16:03:27 | 映画評論

 たぶん、今年はじめて劇場のスクリーンで映画を観た。しかも、途中で用件をひとつ挟んで二つの映画を観た。気温が36度で、しかも岐阜県には非常事態宣言が出ているのにである。

 まあしかし、密にはならない。それぞれの映画とも、観客数は一桁。女性デーでいつもならもっと多いはずなのだが。
 二つの内、観客が3人ほどだった映画について書いておこう。

              

 『花のあとさき ムツばあさんの歩いた道』(監督・撮影:百崎満晴)がそれであった。
 秩父山地の北の端にある限界集落と、そこに住む人たちを20年近くにわたってカメラに収めたNHKのドキュメンタリーシリーズ(その折のタイトルは「秩父山中 花のあとさき」)の総集編ともいえる映画である。
 なにか劇的なシーンがあるわけでもない。カメラは、山肌の急斜面にしがみつくような佇まいの集落と、そこに住む人たち、とりわけ、もう耕作できなくなったかつての畑や集落周辺に、花の樹々を植え続ける小林ムツさんを中心に、その日常を追ってゆく。

            

 かつては、炭焼と養蚕、杉の出荷などが盛んで、住人も100人を超えたという集落も撮影を始めた2001(平成13)年には5世帯、9人、平均年齢73歳だったという。それから、約20年後、人口が0人となるところまでの物語だ。

 多くの映画評がいうように、ここには素朴だが最も美しい人間と自然の共生があるという。それは間違いではない。
 しかし、ここにはただの共生では済まされない、その葛藤の歴史も含めた、もっと大きな意味での自然と人間の輪廻のようなもの、それを理屈としてではなく身体で引き受けて生きてきた人たちの物語があるように思う。

            

 ムツさん夫妻は、かつてはそれなりの需要があり、夫妻で耕せる能力があった斜面の段々畑を、もはや放棄せざるを得なくなる。その際に一念発起したのが、山から借りた土地を山に返すにあたって、そのままでは申し訳ないからとその畑のあとに花咲く樹々を植えてゆくことだっだ。その数、なんと1万本超!という。

 その活動は、自分の耕地にとどまらず、その集落周辺にまで及ぶ。レンギョウ、ユキヤナギ、ハナモモ、ツバキ、アジサイ、各種のサクラ、モミジと場所に応じてそれらを植え続ける。それらの開花は、何百年と自然と闘ってここを支配下に置いた人間が、もはやそれを維持できなくなって山を去ること、同時に自分たちがその生を終えること、それらの事実をその場所に刻印する儀式ともいえる。

            

 山を去り、自分の生を終えること、それは同時に何百年と続いたこの集落の歴史を閉じ、すべてを自然に返すということだが、ムツさんをはじめ、集落の人たちは皆、その思いをどこかに抱いて生きている。

 イノシシに自分の畑を荒らされたムツさんは、イノシシは可愛そうだという。それをいぶかった監督兼カメラマンの百崎の問いに、彼女は、ずーっと以前から人間はここで炭を焼いて広葉樹を絶やし、その跡に杉を植えてきた。しかし、広葉樹と違って杉はイノシシの食を満たすことはない、だからイノシシは人里に降りてくるのだと説明する。イノシシと自然の循環を断ったのは、自分たち人間だから、可愛そうなのはイノシシの方だというわけだ。

 ここには、自然を支配し続けた営みが、もう終わりに近づいているという悟りのようなものがある。だから、電流を流してイノシシを駆逐しようという発想はもはや微塵もない。

            

 先に見た、耕作地を山に返すための花の植樹といい、このイノシシのエピソードといい、ここには自然との共生という普通のスケールではなく、人間と自然の葛藤の歴史を踏まえ、その終焉を自らの営みとして引き受けようとするいわば大きな輪廻の実践者ともいうべき覚悟がある。
 もちろんそれは、私が勝手に読み取ったモノで、ここに登場する山の民はそれを言葉で語ることはない。

 映画は、ここに登場した人々がすべてこの世を去り、集落が廃村になったことを告げる。しかし、家々はコストをかけて取り壊すまでもないと残る。そして、急斜面を登るつづら折れの道、その道に沿った集落の家々を支えている立派な石垣などが残る。しかし、そこを行き来する住人はもはやいない。

            

 しかし、ムツさんが植えた樹々の花々は、季節を違えず咲き誇る。花に埋もれたかのような集落のドローンによる映像はじつに爽快で美しい。
 まさに、「ひとはいさ 心もしらずふるさとは・・・・」である。
 カメラは、けもの道のような斜面の道を登りつめる在りし日のムツさんの後ろ姿を追い、その姿が曲がって消えるところでフェイドアウトし、映画は終わる。

 

 

 

 

 

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パンドラの箱と女性のコンミューン 映画『肉体の門』を観る

2020-03-02 15:23:25 | 映画評論

 この国は、1945年の敗戦からから51年の西側のみとの単独講和まで、主権はなく連合国の、実質的には米国の占領下にあった。近代日本が成立して以来、最も国家権力が希薄な時期であったといっていい。
 したがってそこにはカオスが支配する混沌があった。とりわけ、敗戦までの大日本帝国が、蟻一匹も見逃さない軍国主義的統制によってがんじがらめであっただけに、その落差は大きかった。

              

 ほとんどのものを失った廃墟のなかから、小集団の小さな秩序、ささやかな倫理、かすかな希望のようなものが複数の事情に伴って生まれ、それらが並列して混在していたような時代、そんな時期を描いた映画である。
 原作は、戦後最初のベストセラーと言われた田村泰次郎の小説、『肉体の門』(1947年)。映画も同じタイトルである。

 この小説、これまで4回映画化されている。
 1948年の小崎政房によるもの。
 64年、鈴木清順によるもの。
 77年、西村昭五郎によるもの。
 そして、88年、五社英雄によるものである。

         

 これでみると、48年はまだ私が10歳だったから無理としても、64年の鈴木清順のものは観たかったと思う。ただしその頃は映画どころではない生活を送っている時期でもあった。
 77年のものは日活ロマンポルノの一環として作られたものである。
 結局私が観たのは、88年のもので、それもアマゾンのプレミアム会員は無料というもので観たのだからさほど、観た、観たと自慢できるような話ではない。

        

 全体的には群像劇の様相を帯びるが、中心はかたせ梨乃演じる通称「関東小政」こと、浅田せんが率いいる数人からなる娼婦のグループであり、彼女らは不発の一トン爆弾がそのまま残るビルの廃墟をヤサとして、一定の縄張りをもち体を売っている。
 ただしこのグループは、その戦争の体験から、米兵には体を売らぬことを掟としている。さらには将来の目的のための基金を稼ぎのなかから蓄えている。

           

 同様に、娼婦のグループがあり、廃車のバスをアジトにしていて、通称「ラク町のお澄」こときたがわ澄子(名取裕子)率いるラク町一家もそのひとつ。関東小政のグループとラク町一家は、しばしばその縄張り争いからタイマンを繰り広げることとなり、そんなシーンが二度ほどでてくる。文字通り体を張った演技でどちらも凄まじいが、ヤクザのそれに比べ遥かに公正な決闘といえる。

 他には、戦後成り上がりのヤクザグループ、袴田義男率いる袴田一家が一帯の闇市を仕切り、なおかつ、関東小政のアジトである廃墟ビルの将来性を見越し、それを奪い取ろうと虎視眈々と狙っている。彼らはいわゆる経済ヤクザへと至る萌芽をすでに持っているが、そのやり口は残忍である。

        
 
 これらすべての登場人物に、戦争はそれぞれ深い爪痕を残している。ただし、この時代の制約として、アメリカに敗けた、やられたという被疑者意識とそれへのルサンチマンに満ちていて、その戦争の加害者性には全く触れられていない。

 それはさておき、全体はまさにカオスのパンドラの箱である。
 ここでパンドラを持ち出したのには意味がある。パンドーラはギリシャ神話においては人類最初の女性とされ、カオスが詰まった箱を開けるのはまさに彼女なのだ。
 この映画の最終章で、女性が開け、カオスの秩序を破壊し尽くすパンドラの箱は、廃墟の一トン爆弾を炸裂させる行為にほかならない。

              

 そしてその箱の底に張り付いた最後の希望、それは彼女たちが体を張って稼いだ金によって実現されるはずだったパラダイスにしてコンミューンとしてのダンスホールであった。
 彼女たちはそこで、客引きのための原色のサイケデリックな衣装を脱ぎ捨て、純白のドレスで踊るはずだった。

 彼女たちの夢は、小政の純白のドレス姿での華麗な舞として私たちの目に焼き付けられる。かくて、女性の共和国、そして実現されたかもしれない協議会方式の戦後日本の再出発をも吹き飛ばして映画は終わる。

          

 その頃、一〇歳であった私は、一世代あとの五八年前後から、戦後日本の現実と対峙することとなる。
 それ以前に、関東小政の生き方やその夢を知っていたら、私はもっと真摯に事態に対応できたかもしれない、などと思ってしまう。
 
 ノイズが主流であった戦後、そして、きれいにそうしたノイズが片付けられてゆく現在、私のノスタルジアは、大きく戦後へとブレるのであった。
 なんにもなかったが、なんでもあった戦後、なんでもあるがなんにもない現在。
 純白のドレスを纏った関東小政が、私の迷妄をなかば笑い、なかば容認するように優雅に裾を翻してターンする。


なお、この映画では、「コルトの新」伊吹新太郎 (渡瀬恒彦)が登場し、重要な役割を果たすのだがあえて割愛した。彼と、関東小政との関係に嫉妬したせいかもしれない。

 

 

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