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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ポン・ジュノ『パラサイト』の凄まじさ 「階層」と「臭い」

2020-01-21 02:24:11 | 映画評論

 凄まじい映画である。
 監督のポン・ジュノに関しては、10年前ぐらいに観た『母なる証明』で、とても凄まじい映画を作る人だなぁと思ったのだが、今回の映画ではその凄まじさが半端なく幅広い。
 以下、できるだけネタバレにならないようにそれについての感想を述べることとしよう。

              
 

 それはホームドラマであり、シリアスな社会問題であり、コメディであり、ミステリーであり、心理サスペンスであり、ホラーであり、バイオレンスであり、ともかくそれらのすべてを含み込んで凄まじい。
 私がここでいう「凄まじい」は、衝撃的という意味である。

 背景には格差社会がある。
 近年、この格差を意識的に捉えた映画としては、『わたしは、ダニエル・ブレイク』や『家族を想うとき』のケン・ローチを思い浮かべる。
 ケン・ローチのこれらの作品は、いわば直球勝負で、問題の提示や経過もリアルで、ストレートに核心に迫ってゆく。

          

 これに対して、是枝裕和の『万引き家族』などはその背景に格差社会を意識しているとしても、その表現は変化球で、直接それとして表示はしない。加えて、是枝のものは常に「家族」への問いが背景にある。
 ただし、ケン・ローチと是枝に通底するものが外見以上に色濃いのは、昨秋、NHKの「クローズアップ現代」で放映されたこの両者の対談で明らかで、格差社会が彼らの映画作りのバックグラウンドにあることが明言されている。

          
 

 さて、ボン・ジュノの『パラサイト』であるが、どちらかというと是枝流の変化球ともいえる。事実、その状況設定での是枝との類似性を指摘する向きもあるが、とりたてて強調する点ではないだろう。

 格差社会の露出度からいったら、この映画はまさに端的にして明確である。なにしろこの両者、4人全員が失業者で、湿気臭い半地下で暮らす一家と、IT 企業で成り上がり、大邸宅に住まう一家(やはり4人家族とお手伝さん&運転手)とが直接交わり、パラサイトの関係に至るというのだから。
 ただし、このパラサイトにはもうひとつの階層というか隠し球が秘められていて、それがこの物語の終焉に大きく絡んでくることになる。

 映画の前半は、是枝のそれと似て、コミカルなシーンが続出するが、後半に至り、園子温の『冷たい熱帯魚』や『恋の罪』のように、凄惨な血を見るシーンにも至る。

          
 

 この映画の二つのキーワードを挙げるとするならば、そのひとつは「階層、ないしは上下の関係性、配置」のようなものといえる。
 そしてもうひとつは、通奏低音のようにつきまとう「臭い」だろう。

 前者はこの映画の主たるシーンが、下町の半地下室と高台の大邸宅であること、さらにはその邸宅自体が地上階と通常の地下室、そのうえ、核戦争を想定して作られたという秘めたる空間としてのシェルター部分という階層をなしていて、それらが現実の社会的階層の直喩であることは指摘するまでもないだろう。

          
 

 後者の臭いは、地下特有のすえた現実の匂いであるとともに、格差社会でのその境界を示す象徴的なものでもある。ラスト近くで、父を行動に駆り立てるのは、邸宅の主の臭いについての言及であることもむべなるかなだ。
 余談ながら臭いの持つ象徴的な意味合いの強さは、子どもたちのいじめの現場においてもしばしば「臭い」が差異性を際立たせるボキャブラリーであることからもうかがい知れよう。

         

 他にも、IT 社会から隔離された人間の通信手段が、モールス信号であるという対比の面白さ、風水を示唆する石の登場など、この映画にはさまざまな面白いファクターが詰め込まれているようだ。

 映画は、思わぬ惨劇を伴って終盤を迎えるのだが、そのアナーキなドタバタともいえる惨劇シーンは、もはや加害者と被害者の識別すら困難なカオスを産み出すだろう。言ってみれば、それに立ち会う私たちは、通常の活劇シーンとは異なり、もはや誰を応援し、誰が助かるべきかもわからないままに立ち尽くすほかはないのだ。

          
 

 ダラダラとした感想を締めねばなるまい。
 映画の終章であるが、これが、たとえ貧しくとも心豊かに互いに支え合って生きればということで終わるとするならば、ひとつの起承転結として安定した結語にはなるのであろうが、それならば凡百の映画に堕するというべきであろう。
 ポン・ジュノはそんなふうには終わらせない。
 怪我から復帰した息子は、もう一度、格差の出発点である学歴社会に挑み、のし上がることを決意し、さらには、あの大邸宅を手に入れることを夢見る。

 映画はいささかの戯画化を含むとはいえ、法における平等という擬制民主主義のもとに隠蔽され、自己責任として不問に付される格差の現実を、まさにドラスティックに垣間見させてくれる。

 

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今年最後の名古屋 二本の映画と久々のバー

2019-12-27 16:14:24 | 映画評論

 今年最後の名古屋行きは表題の通り、映画二本としばらく顔を出していなかったバーへ。
 
 最初の映画は、ケン・ローチの『家族を想うとき』。
 イギリスの普通の四人家族の物語だ。彼らは何も法外なものを望んだわけではない。いまよりの少しばかり余分に働いて、子供の教育を含めて家族を維持し、余裕ができたら自分たちの家をもちたいと思っただけだ。

              
 父はそのために、フリーのドライバーとなり、配達業者とフランチャイズ契約を結ぶ。むろんそれらは彼の能力内で、じゅうぶんこなせるはずだった。
 しかしそれは想像以上に過酷だったのだ。時間との熾烈な競争、そして契約上の些末な条項が彼をがんじがらめに縛っていることが次第に明らかになる。

          
 なにかの拍子に休みが必要なら代理を見つけねばならないし、それができなければ罰金。フランチャイズ契約であくまでも本人は事業者だから、実際にはこき使われているにもかかわらず、そのマイナスや予想外の経費、事故の補填などなどは何も保証されておらず、全ては自己責任だ。

          
 彼の連れ合いの派遣介護職も似たりよったりだ。ゆく先々の被介護者は彼女の思惑通りには従ってくれない。過重な負担が不可避であり、しかも、次の訪問予定が控え時間に追われている。
 最初に書いたように、彼らの望みはささやかなものに過ぎない。しかし、それらがどんどんマイナスのスパイラルを描いて、蟻地獄に落ちたかのように彼らは追い詰められてゆく。

          
 そう、これは私たちの国で最近問題化しているコンビニ経営にも似た問題であり、非正規労働全体の問題でもある。
 あれもこれも自己責任。「あなたの身に起こったことはあなたの責任でしょ」とすべてが突き放される。これが、働く者たちをいつでも置き換え可能なモノに貶め、人間の尊厳を徹底的に奪う新自由主義経済の局地なのだ。

          
 このケン・ローチの映画は、問題の解決を語ろうとはしない。この現実をただただそれ自体として提示するのみだ。ここには、前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』で示された状況への登場人物による告発すらも、もはやない。もっとも、彼の映像そのものが何よりも強力な告発なのだが。
 繰り返すが、彼ら家族はなにか分不相応なものを望んだのではない。しかしそれは、無明の闇に飲み込まれてゆくようにみえる。
 
 二本目は名古屋シネマテーク主宰の試写会での『つつんで、ひらいて』(監督・編集・撮影 広瀬奈々子)で、これまで1万5千冊の書籍をデザインしてきた装幀者・菊地信義氏をめぐり、その作業を中心とし、本造りに携わる人たちのドキュメンタリーである。
 
 本の装幀は私たちにとってはその書物との最初の出会いである。同時に作る側からすれば、菊池氏がいうように、そこに書かれた言葉の塊が、モノとして形を与えられる瞬間でもある。映画はその過程をつぶさに見せてくれる。

              
 装幀なんて、所詮は本を売るためのパッケージだろうと思いがちである。たしかにそれもある。しかし一方、心ある装幀者たちは、そのテキストの内容に立ち入り、それをより適切に表現するための努力を惜しまない。
 紙質、色合い、その組み合わせ、フォントとその大きさ、そして配置、表紙も裏表紙も背も、カバーはもちろん、いわゆる帯などの外観の一切、そして見返しや扉、地、小口やスピン(しおりの紐)に至るまで、まさにテキストがモノとして姿を表すすべてが彼ら、装幀者の手になる。

          
 それらの過程、筆者や編集者を混じえたディスカッションによってそれらが生み出される過程、その結果などなどを観てくると、やはり私たちがその書に向かう姿勢が、それによって少なからず影響されていることに気づく。
 それらは軽やかさであったり、重みであったり、エポックメーキングであったりさまざまなのだが、私たちはそれを、その書が形をなす最終段階で、それをモノとして完成させる装幀者の表現に寄り添いながら、その書と向かい合っているのだと思う。

          
 これまでさまざまな書のお世話になってきた。しかし、意識してきたのはせいぜいその作者、出版社の性格などに限られていたのだが、装幀という契機を決して無視し得ないこと、したがって今後は装幀をも意識しながら書と向かい合おうと思わされた映画であった。

 映画の後、四十数年前、私が居酒屋を開業した折、それを手伝ってくれた人が、いまは東新町でバーを営んでいるので、そこを訪れ、ひとしきり昔話で盛り上がった。錫のデキャンターでしばらく置かれた赤ワインは、風味が増すようで美味しかった。
 
 約半世紀前に過ごした今池の街について、こんな風にフランクに話し合える人はもうほとんどいなくなった。私の生活基盤は今や岐阜にあるが、精神的な交流の地はやはり名古屋である。いつまで名古屋へ行くことができるかわからないが、可能な限り行きたいものだ。
 そこでは、あるときは笑みを浮かべ、あるときは呻吟しながら、学生時代から私が歩んできた60年以上の足跡や痕跡が、かすかではあるが残っていて、それらが土地の匂いや手触りのようなものとして確かに感じられるのだ。

 最後に今年最後の名古屋の街角風景

              

              

              

                   

 

 

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オダギリジョー監督『ある船頭の話』を観る

2019-10-06 01:43:45 | 映画評論
 これを観たのは、オダギリジョーが自ら脚本を書き、長編初監督に挑んだ映画だからである。
 彼はこれまで数々の映画に出演し、私が観た範囲では、そのどれもいい映画であり、彼の演技も良かった。それだけに、今度はメガホンをとる立場でどんな映画を作り上げたかに興味があった。

             
 作品に込められたメッセージは明らかで、近代化、合理化が人間に何をもたらし、何を奪ったかという古くて新しい問題である。
 そして、それはよく分かる。いや、分かりすぎてしまうのだ。そこが問題だと思う。

          
 古くからの渡船場、その渡し船の船頭を演じるのは柄本明、彼がこの役を演じたらこうだろうなという期待通りの持ち味を発揮していて、その意味でははまり役と言える。
 この渡守の小屋と、その上流に築かれつつある橋、というだけで、伝統的なものと近代的なものとの二項対立はガッチリと設定されている。

          
 そこへ、さまざまな乗船客や寓意的なアイテムが差し込まれ、それだけでもう、「伝統vs近代化」の図式は十分に示し尽くされている。にもかかわらず、それらが、つまり映画がはらむメッセージ性が、随所でセリフとして語られるなど過剰に表現されている感がある。

          
 そうなると、観ている方は、この料理はこのようにして食べなさいと重ね重ね念を押されているようで、それらの料理を自主的に味わう余地を奪われてしまうのだ。

          
 オダギリ君は生真面目でやや小心に、自分の意図が観客に伝わらないのではないかと頑張りすぎてしまったのだと思う。
 誤解を恐れずにいえば、君の意図が伝わるかどうかなどは問題ではなくて、大切なのは、君の提示した映像が、誤解や曲解を含みながらどこまで私たちの想像力を刺激し、開放し、膨らませてくれるかにあるのだと思う。

          
 初監督の映画に、いささか辛辣すぎるかもしれないが、上に描いたような問題をはらみながらも、やはり楽しめる映画であった。随所で繰り出されるオダギリ監督の想像力による映像アイテムは、けっこう刺激的であったし、ラストシーンに至る畳み掛けはそれまでの静謐さを裏切るように迫力があり、それまで受け身を貫いてきた主人公の船頭が決断し、行為する様はまさにクライマックスにふさわしいものであった。
 その後のクレジットに続くラストシーンの美しさも含めて。

          
 映像は、滔々と流れる山あいの清流を挟んだ地域に限定されるが、それらは自然の呼気のようなものを余すところなく捉えていて、カメラワークも抜群である。それだけでも一見の価値がある。
 調べてみたら、撮影監督は、かつて、私も感動した香港映画『花様年華』(ウォン・カーウァイ監督 トニー・レオン、マギー・チャンが主演男優、主演女優)を撮ったクリストファー・ドイルという人だとか。

          
 オダギリジョーが今後も監督を続けるかどうかはわからないが、もし続けるようならば、映画の文法、つまり映画においてはそのシニフィアン(語り)は映像そのものであることを是非学んでほしい。

 

 













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映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を観て

2019-07-23 17:51:56 | 映画評論
 図書館といえば、主として文字を中心とした(最近は音楽媒体、映像媒体も取り扱うが)情報を収集し、管理保管し、それを必要とするものに貸与する場所であると考えられる。かくいう私も、その機能には大変お世話になった。文字を経由しての私の知のようなものの大半はこうした図書館のお世話で得たものといえる。 

 映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』は、92の分館を持つというこの巨大図書館の物語である。ただし、その図書館の舞台裏や裏話のようなものを見せる記録映画ではない。もちろん、そうした映像も挿入されるが、それが主体ではなく、むしろこの図書館が、そのバックの共同体においてどのような機能を果たしているのか、あるいは果たそうとしているのか、それについての強い志向性がビンビン伝わてくるスケールの大きな記録映画といえる。

           
 だから冒頭に述べた情報を収集し、管理保管し、貸与供給するといった基本的な機能を超えたところでの話題が多くなる。もちろん、日本の図書館でも講演や展示など各種文化事業を行っているところはかなりある。
 しかし、この図書館はその領域をも超えて更に広く深く問題を追求してゆく。

        
 例えば、PCの操作などに不案内で、ともすれば情報弱者になりがちな市民に対し、PCの貸与供給やその取り扱いの講習などの企画が進められている。
 あるいは、これは日本の図書館でも問題になっているようだが、ホームレスの来館に付いての協議が行われる。ここで感心するのは、彼らの来館をどう規制するかしないかといった「対策」の設定にとどまらず、ホームレスの存在そのものについて行政との連携のうちで考えてゆこうとする視点だ。
 要するに規制対策ではなく、共同体が抱える貧困やその解消の問題としての捉え返しである。

        
 その他児童教育の問題、障がいをもった人への情報提供のあり方などが、スタッフの、あるいは時として利用者や地域住民を交えての熟議によって検討されてゆく。
 その熟議の場は何度も登場する。

        
 後半に至るとさらに問題は大きくなる。
 黒人を始めとする人種差別の問題への切込み、そしてさらには教科書をめぐる歴史修正の問題へと至る。
 ここで興味を引くのは、南部を中心に使われている教科書には、「黒人たちは、仕事を求めてアフリカからやってきました」と述べられているということだ。もちろんここで抜け落ちているのは、奴隷としてつれてこられた彼らの歴史である。

        
 あまりにもひどい改ざん、と笑っていられる場合ではない。私たちの国でも、朝鮮半島からの徴用工や慰安婦をまるで自ら希望した自己責任とする記述がまかり通り、それへの補償を認めないばかりか、それら要求への執拗な嫌がらせのような外交を継続しているではないか。

        
 図書館の問題に戻ろう。この映画に描かれたそれは、冒頭に述べたように図書の貸し借りといったお決まりの守備範囲から、社会問題一般に迫る内容をもっている。
 というか、図書館に関わる問題を対処療法的に考えるのみではなく、その問題の根幹そのものに迫ろうとするとき、図書館はあたかも共同体全体が抱える問題の縮図といった様相を呈し、それら諸問題のネットワークの中枢に位置せざるを得ないかのようである。

        
 ここには確かに、アメリカ社会の抱える諸問題が反映されていてそれ自身が問題であることはいうまでもない。
 しかしだ、あのトランプを抱えるアメリカにありながら、問題可決のための成員の熟議という建国以来の伝統が随所に垣間見られ、その意味では開けへの可能性が確実にあるように思った。
 反面、看板のみの民主主義で、息の詰まるような陰湿な状況のうちにある日本という国の現状は、あまりにも姑息で閉塞感に満ちているといわざるを得ない。

        
 映画を観た日は、参院選の投開票日だった。
 結果は、その陰湿な閉塞感の象徴であるような宰相が率いる与党が、相変わらず重しのようにのしかかる体制が継続するとのこと。ウンザリしている。



 
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中国現代史の中の若者像 映画「芳華-Youth-」を観る

2019-05-25 01:51:38 | 映画評論
 久々に中国映画を観た。
 「芳華-Youth-」(2017 フォン・シャオガン監督)。
 「芳華」とは、英文が示すように、青春期といった意味合いであり、映画そのものは青春群像劇の様相をもって展開される。

          
 冒頭しばらくはあの中国独特のけばい色彩が支配し、何だこりゃ、中国の情宣映画かと思わせるが、それも無理はない。時代は1970年代中頃の文革の真っ只中、しかも舞台は、兵士たちを慰問し、鼓舞する歌舞音曲の文化工作団なのだから。まだ人々が人民服をまとっていた頃、彼らの存在は華麗である。一方、その統制のとれた歌舞音曲が激しいトレーニングの成果であることが示される。

       
 しかし、この華やかな一隊自身が、大きな歴史のうねりの産物であり、したがって、その推移にどうしようもなく翻弄される存在であることが次第に明らかになる。
 そうした歴史の陰影は、例えば主人公の一人、シャオ・ピンは文革で父が迫害されているという秘密をもち、別の一人は父が党幹部であることでその地位を誇っていたりする。

       
 こうした歴史上の状況の推移と、彼らのなかにある錯綜した恋愛劇とが並行して進む。
 毛沢東が死去し、文革が終わり、地方へ追放されていた人たちの名誉回復が行われるが、先にみたシャオ・ピンの父は流刑先で死亡していた。
 群像劇だから、あからさまな恋、切なく折り畳まれた恋なども登場する。

       
 後半の山場は、中越戦争である。この戦争の詳説は避けるが、団を抜けたシャオ・ピンは前線に近い野戦病院で看護師をしている。一方、シャオ・ピンが密かに思いを寄せていた団の模範青年(ホアン・シュアン)は最前線でヴェトナム軍の奇襲を受け、負傷する。

       
 やがて、鄧小平の開放政策のもと、文化工作団の歌舞団も解散の日を迎え、最終公演が開催される。片腕をなくしたホアン・シュアンは傷痍軍人として聴衆の中にいる。シャオ・ピンは野戦病院での負傷兵のあまりにも過酷な状況を受け止めきれず、PTSDの重症患者として、やはり観客席にいる。

       
 当初、なんの感興も示さずうつろな表情をしていた彼女だが、鳴り響く音曲に身体が反応し、やがて、客席を抜け出して、庭園で往年の舞を一人で舞う。この場面は美しく感動的だ。

       
 映画は、それをクライマックスにして、現代の彼らを後日談風に語って終わる。その中には、シャオ・ピンとホアン・シュアンの出会いと経緯も語られているが、二人が単純に結ばれてめでたしめでたしではないところがかえって良い。

       
 佳作だとは思ったが、往時から現代に至る描写がいささか薄っぺらで、その間の人の推移がやや乱雑に描かれているのが惜しい。

       
 しかし、これはないものねだりで、私の中には、やはり同時代の地方の慰問団を描いたジャ・ジャンクー監督の優れた作品「プラットホーム/站台」(2000年)の残像があるからなのだ。

       
 チャン・イーモウなどが、ハリウッドに絡め取られない前、チャンチーが可愛いかった頃の中国映画の傑作群を懐かしく思い出している。
 

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「ブラック・クランズマン」(スパイク・リー監督)について思うこと

2019-04-13 00:54:38 | 映画評論
 映画、「ブラック・クランズマン」(スパイク・リー監督)を観た。
 動機としては、先般、昨年度アカデミー賞をとった「グリーンブック」を観てけっこう面白く思っていたところ、そのアカデミー賞授賞式でのスパイク・リー監督に関するエピソードを読んだからであった。

          
 それによれば、当日、彼の作品も六部門にわたってノミネートされていたこともあり会場にいたリー監督は、最優秀作が「グリーンブック」とコールされると同時に、舌打ちをして席を立ちかけたが、思い直してその場にとどまったというのだ。

       
 ようするに、自分の作品に対してそれだけの自負があったということである。それならば、「グリーンノート」のみを観て済ますのは片手落ちで、リー監督の熱い思いにも応えるべきだと思った。
 「グリーンノート」に関しては、以下の拙ブログでその感想を書いている。だから、どうしても両作品を比較しながら観ることになる。
 時代は同様1960年代の後半、ともに人種問題を題材にしている。また両者ともに、実話を題材にしているところも似ている。
 https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20190331

       
 
 以下「ブラック・クランズマン」を「BK」、「グリーンノート」を「GN」と表記する。

 さて、映画自身に戻ろう。両者ともに人種問題を対象にしているが、「GN」の方が黒人対白人の葛藤を描いているのに対し、「BK」はもう少し複雑で、ユダヤ人差別をも含み、白人たちがより攻撃的に他者を排除する、ないしはテロルの対象とする場面を描いている。
 映画の作りも、冒頭と最後に、記録された映像を取り込むなど、「BK」の方がより激越でアジテーションの要素に満ちているし、それだけに、リー監督が「GN」をやわな表現とみなした事情もわかる気がする。

       
 しかし、そうした実録的な映像に挟まれた「BK」の本編の方は、ユーモアとサスペンスに溢れた面白い作りとなっている。
 主人公は、コロラドスプリングスの警察署で、初の黒人刑事として採用されたロン・ストールワース。彼は黒人差別団体、「KKK(クー・クラックス・クラン)」への潜入捜査を試み、その渡りをつけてしまうのだが、黒人の身、自らが組織へ潜入することはできない。そこで、同僚の白人刑事フリップに協力してもらうことにし、電話での応対はロン、実際の潜入はフリップが行い2人で1人の人物を演じながら、KKKの潜入捜査を進めていく。

       
 それに先立ち、ロンは、ブラックパンサー(黒豹党)の幹部の演説会に潜入し、それを招請した女子大生の組織の委員長、パトリスに接近し、いい仲になってしまう。
 この彼女と、KKKとがある接点で関連するところに映画の山場があり、物語が終焉する。
 これらの過程をいくぶんコミカルに、しかし山場ではけっこうサスペンスに満ちたものとして描き出してゆく。

       
 この映画では、KKKの当時の最高幹部だったデビッド・デュークも登場するが、彼は、電話で接近してきた相手が黒人のロンであることを知らないまま、ロンを称賛してやまない間抜けな役どころとして登場する。ただし、本編が終わったあとに付け足された映像で、私たちはこのKKKの幹部が単なる道化師で終わらなかったことを知ることとなる。

       
 映画の最後は、冒頭同様、実写によるモンタージュのような映像で締められる。そこに登場する人物こそドナルド・トランプであり、そこで彼が叫ぶ、「アメリカ・ファースト」、「アメリカ・グレート・アゲイン」のスローガンは実は上にみたKKKの当時の最高幹部だったデビッド・デュークのスローガンのそっくりそのままの再生なのである。
 ここに至って、私たちははたと知ることになる。リー監督が描きたかったのは決して過去の「お話」ではなく、現実に今日の世界に突きつけられている問題だということを。

       
 もうひとつ付け加えるなら、これらは遠く離れたアメリカの「お話」でもないということだ。KKKのメンバーが放つヘイトスピーチは、そのまま今日のこの国で、在日の人たちや近隣諸国の人びとに向かって放たれているものと寸分異なることはないし、「南京事件はなかった」とする歴史修正は、KKKのメンバーが語る「アウシュビッツはなかった」とそのまま重なる。
 また、KKKで連想されるビリー・ホリデイが歌うところの「ストレンジ・フルーツ」の歴史は、そのまま関東大震災で殺された6,000人に及ぶ朝鮮人や社会主義者の歴史に通じるのだ。
 なお、知らない人たちのためにいっておくと、彼女の歌う「ストレンジなフルーツ」とは、KKKなどによって吊るされた黒人のことなのだ。

 https://www.youtube.com/watch?v=Web007rzSOI

 奇しくも、同様の題材を扱い、アカデミー賞を争ったた二つの映画を観たわけだが、その優劣はいうまい。
 「GN」は「BK」ほど直接に状況を語らないが、洗練された映画の文法のうちにある。その点、「BK」は感傷を排し、極めて明快で直截的なアジテーションをぶっつけて来る。

 曖昧で𠮟られるかもしれないが、私は両方共あるべき映画の姿であると思う。その意味で、両方観てよかったと思うのだ。

 
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春みじかし何の不滅のいのちぞとちからある乳を手にたぐらせぬ

2019-03-22 16:32:45 | 映画評論
 人と逢うことになっていたが、それまでの時間つぶしに、いわゆる二番館で、1988年、深作欣二が撮った『華の乱』を観た(大河ドラマの『花の乱』の方ではない)。

 面白かった。絢爛豪華なキャストで、明治末期から大正末期の関東大震災までの、実在した人物たちのありようとその相関関係を描く。
 中心に据えられたのが吉永小百合演じる与謝野晶子。当初、その顔立ちのイメージから晶子にはどうかなという思いがあったが、映画が進むにつれてその不安は払拭される。演出と様式化された美しい画面のせいもある。
 そういえば冒頭の桜舞い散る人力車のシーンから、ちょっとステロタイプかと思うほどの叙情的な絵が続く。

         
 ただし、子沢山の与謝野家や震災の場面はいわば写実的で、その落差は大きいのだが、実際に晶子はそうした落差を生きてきたのだろう。それにしても、与謝野家の子沢山には驚いた。ちゃんと数えなかったが、何やかやで10人ほどもいるのだ。

 そうした晶子を中心に、与謝野鉄幹はむろん、有島武郎、大杉栄、伊藤野枝、沢田正二郎、松井須磨子、島村抱月、山川登美子、波多野明子などなど、同時代のそれぞれ特異な人物たちが相互に絡み合いながら登場する。

       
 それらを演じるのが、緒形拳、松田優作、風間杜夫、石田りえ、石橋蓮司、松坂慶子、蟹江敬三、中田喜子、池上季実子などなど錚々たるキャストだ。これら俳優たちの30年前のきらびやかな風貌が、様式化された画面のなかで輝き、その演じる物語は、あるいはエロスに満ち、あるいは死の希求、タナトスに囚われ、それらがない交ぜになったシンフォニーとして展開される。

 それぞれの人物が興味深く描かれているが、病死した抱月を偲ぶ会での松坂慶子演じる松井須磨子の演技、その狂乱の場のシーンが出色で凄まじい。今は死語となった「新劇」のオーバーなアクションに加えて、ギリシャ悲劇の色彩をももつて、その場に居合わせる他の登場人物たちを圧倒すると同時に、私たち観客にも激しく燃え上がる哀しみの暴発として迫ってくる。

        
 詩歌などの文学、当時としては新しかった演劇表現(だから「新劇」)、それに、ボルシェビズムに駆逐されない前の生き生きとしたアナーキズム、文字通り黒い旗に描かれた「無政府主義」、それらのないまぜが彩った大正がいささか様式化された絵柄として展開される。
 深作監督の演出は歯切れがよくて淀むところがない。

       
 思うにこの時代は、文明開化でもたらされた近代化の日本的な展開を受けて、それらを開けの方向に向かわせることができるのか、あるいは、ある種閉鎖的なものへと繋ぎ止められてしまうのかの、明暗を分ける過程であったような気がする。大正デモクラシーとは、そうしたせめぎあいの上に垣間見えた、もともとアンビバレンツな花でしかなかったのではないか。
 しかし、大杉栄の惨殺が明示するように、それは閉塞への道を余儀なくされて散るのであった。

       
 映画では描かれていないが、昭和の初期は、いわゆるブルジョア文化そのものが萎縮すると同時に、左翼の運動もソ連のボルシェビズムに呼応し、硬直した「正当左翼=スターリニズム」に一本化されてゆく過程であったように思う。
 それはもはや、1945年の大破局へと向かう不可避の過程でもあった。

       
 晶子とその周辺の愛を巡る生と死の葛藤は、上に見た時代そのものが内包するエロスとタナトスの絡み合いの突出した表層であったことをこの映画は示唆している。
 滅びを内包した愛のありようは、時として凄惨にも美しい。

【言わずもがな】ラストシーン、震災を超えて生きてゆくことを伺わせる与謝野一家の前向きのシーンは、上述したように、それに続く時代が希望とは無縁であったことを知っているだけにいくぶん違和感があるが、それは映画の外にいる私の感想なのであろう。

【おまけの一言】元号に関心はないが、この平成の終わりに、昭和の終わりに作られた大正の終わりの話を観たことになる。
 
 
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銃を抱いて寝る女たち 映画『バハールの涙』を観る

2019-02-07 17:35:10 | 映画評論
 あれはもう一昨年になるのだろうか、ジム・ジャームッシュ監督の『パターソン』は面白い映画であった。その映画で、主人公のバス運転手で詩人のパターソンの、恋人にして造形美術家役を演じたゴルシフテ・ファラハニが主演ということで、名古屋へ出た折に『バハールの涙』を観た。『パターソン』とはまったく毛色の違う映画である。

 凄まじい映画だ。終始、画面には緊張がみなぎる。主人公は、クルド人であり、ISに一族を殺され、息子を奪われ、自身は、性奴隷として肉体を蹂躙され、家畜のように奴隷として売買された女性である。彼女は、そうした人びとを救援する組織との連絡に成功し、なんとかその境遇から脱出することに成功する。

          
 しかし、それは物語の発端に過ぎない。彼女は、自分の息子を奪回するため、また女性を辱めるISと戦うため、女性からなる部隊を組織する。彼女たちは、常に銃を抱いて眠り、戦闘においては最先端での銃撃戦に出撃する。
 映画はそうした彼女の現実と、その屈辱の過去を相互に映し出してゆく。

       
 私はここで、1940年代、ナチスに迫害されたユダヤ人のために、どこの国家にも属さないユダヤ人部隊を構想したハンナ・アーレントを想起した。この構想は実現しなかったが、主人公バハールはまさにそうした部隊のコマンドとして、銃弾が飛び交う中で躍動する。
 なぜ、ここでアーレントを思い出したかというと、バハールの属するクルド人は、国家をもたない最大の民族として、中近東の数カ国に居住しながら、どこにおいてもマイノリティとしての立場を強いられているからである。この状況は、イスラエル建国前のユダヤ民族のありようとよく似ている。

       
 この映画を彩るもうひとりの女性を紹介すべきだろう。やはり戦場で負傷し隻眼となった彼女は、フランス人のジャーナリストで、夫であった記者を地雷で失い、幼い娘を国に置いたまま、バハールとともに最前線で、まさにいつ相手に狙撃されても致し方ない至近距離で作戦に同行し、銃ならぬカメラを構えてその現実を伝えるようとする。

       
 日本という国では、そうした戦場ジャーナリストを、「勝手に」危険なところへ出かける「無法者」として、彼らの災難も自己責任だとして突き放し、非難の対象にすらする。それのみか、最近では、彼らの渡航に対し旅券の差し止めさえ行っている。
 それによって、私たちが安穏と過ごしているこの日常とまさに並行して、世界でどのような事態が起こっているかは明らかにされることはないまま隠蔽され続ける。

       
 過去の戦争で、朝鮮戦争で、ベトナムで、カンボジアで、アフガニスタンで、イラクで、そして現今のシリアで、事態がどのように進んだかの私たちの情報や知識は、彼ら戦場を駆け巡るジャーナリストの活躍によるところが多いのだ。

       
 映画に戻ろう。バハールの戦闘は、あるISの拠点を陥落させることによって勝利し、息子を奪回することもできる。フランス人ジャーナリストも負傷しながら従軍記事をモノにする。

 しかし、これがハッピーエンドだろうか。ISのようにあからさまに性奴隷制度をとらないとしても、それに近い現象はイスラム圏にとどまらずいわゆる先進国にもあるのではないか。DVがその発露でないとはいえないだろう。

       
 もう一つの私の杞憂は、上に述べたクルド人たちの存在にある。別に国家をもつべきだとはいわない。どこの国家においても、彼ら、彼女らの人権が尊重され、平等に扱われるならばいい。しかし、そうなっていないのが現状だ。彼らは、どの国家においてもマイノリティなのである。


       
 彼女が勝ち取ったつかの間の勝利が、とりわけ、女性たちが主体となって情勢と対峙する基本的権利が、さらに持続し、広がりを見せることを祈らずにはいられない。
 女性が銃を取れというのではない。男女を問わず、銃を取らなくても良い世界の到来を願うのだ。

 過酷な戦闘シーンなどもあって、緊張を強いられる時間であったが、その合間に、女性兵士たちが列をなして歌い、踊るシーンは、彼女たちがIS支配下で泥沼の生活を強いられた過去をもっていることを知っているだけに、なにかふつふつと湧き上がるような感動がこみ上げてくるのだった。

 ゴルシフテ・ファラハニが演じるバハールが、過去の悲惨を乗り越え、未来へと向ける眼差しは凛として美しい。

 

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美しく、楽しい。 映画『日々是好日』を観る

2018-11-27 01:35:00 | 映画評論
 樹木希林、黒木華、それぞれ味があって好きな女優さんである。
 でもって映画、『日々是好日』(大森立嗣:監督)を観に行った。

          
 
 面白かった。まずは映像がいい。
 ほとんどが茶室という限られた空間で、しかも圧倒的に女性が多い。
 そのなかで、庭、掛け軸、花、菓子などなどディティールにわたる季節の変動が鮮やかで美しい。
 雪や雨の風情も単なる背景ではなく、映画そのもののアクセントとしてきちんと撮し込まれている。

        
 
 まず形から入って、心や深みは後からついてくるということ、一見、単純な繰り返しのなかにある微妙な差異、したがって、同じことの繰り返しではないという「一期一会」。
 日々是好日の「好」は、倫理や論理の「良否、可否」ではなく、それぞれの日がもつ現実の様相そのものであること・・・・。

        

 などと書くと、理屈っぽい私の癖が満開だが、それを季節ごとの、あるいは年々の映像の積み重ねでじゅうぶんに見せてくれる。
 樹木のお師匠さんはたぶん原作のイメージとはちがうのだろうがそこを達者にこなしていた。黒木華は、今までTVなどのドラマでは観たことのない役柄をうまく表現していて、やはり巧い女優さんだと思った。

        

 余談だが、それに比べると大河ドラマの西郷の妻役での彼女はほとんど生きてはいない。それは彼女の責任ではなく、演出とキャスティングのせいだとは思うが、あれでは彼女の魅力が閉じ込められたままだ。

        

 ついでのようで申し訳ないが、多部未華子もいままでの優等生タイプとは違った味を出していたように思う。

        

 原作(森下典子)は小説ではなくエッセイで、したがって起承転結は少なく、映画化しにくいだろうともいわれていたが、それなりに山も谷もあり、飽きるところはなかった。

            

 時代劇を除いて、久々に和服姿の女性がわんさか出てくる映画で、着付けや着こなしの良し悪しなどは私にはわからないものの、お師匠さんや主人公の着物の季節ごとの色合いや模様がくっきりしていて、見る人が見たら、もっと味わいが深いはずだと思った。
 何よりもまずは観ていて楽しい映画だった。

        

【おまけ】冒頭近くに出てくるフクサの扱い方は、茶道に暗い私にとってはまるでマジックのようで、眼をまあるくして観ていた。
【もう一つのおまけ】冒頭から、フェデリコ・フェリーニの名作『道』に触れるシーがあり、映画の途中にも出てきて、ひとつの伏線をなしているが、それを観ていなくとも、楽しめると思った。かくいう私は、『道』は過去2回以上観ているのだが、歳のせいもありすっかりその詳しい内容は忘れている。しかし、この映画を観る上での必須ではないと思った。





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カタロニアの片田舎 ひと夏の経験 映画『悲しみに、こんにちは』を観る 

2018-09-20 16:05:58 | 映画評論
 『悲しみに、こんにちは』の邦題はいくぶんもって回った感じで、微妙に違うような気がする。原題は「Estiu 1993」で、Estiuはカタロニア語で夏だそうだから、つまり、『夏 1993年』ということになる。映画は文字通り、このひと夏の、フリダという少女を巡っての物語である。
 たぶん邦題は、フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』を意識しているのだろうが、少女のひと夏の経験という共通点はあるものの、サガンの小説の方は17歳の思春期の少女の物語であるのに対し、映画の方の少女は就学前の6歳とあっては比較すべくもない。

             

 この少女フリダは、これが長編第一作というカルラ・シモン監督(女性)の分身であり、映画に描かれていることどもは彼女の少女時代の実体験に基づくものだという。
 この映画に関しては多少のネタバレがあっても構わないだろう。というのは、そうした「あらすじ」や「タネ明かし」などのストーリー云々を超えて、むしろ、細かなエピソードやその映像そのものが雄弁に語りかけてきて、それが映画の見所になっているからだ。

 バルセロナに住んでいたフリダは、その母の死により孤児となり、カタロニアの片田舎に住む母の弟(叔父)一家へ引き取られることとなる。その家族構成は、その叔父とその連れ合いマルガ、そしてその間の娘、3~4歳のアンであり、彼らはフリダを家族の一員として暖かく迎え入れようとする。

          
 
 しかし一方、フリダの方は、母に別れ、なおかつ都会から田舎への移住などの目まぐるしい変化のなかで、新しい家族のなかに編入されるのだが、当然のこととしてそこに馴染むには一朝一夕にゆかないものがある。
 さらにフリダには解けない疑問がある。どうして母は死んだのか、なぜ自分はその臨終の場から遠ざけられたのか、なぜ周囲は母の死を語るときヒソヒソと声を殺すのか、なぜ自分が怪我をして血を流したとき周囲の大人が慌てふためいたのかなどなど。 
 映画はそれらのシチュエーションを背景とした夏の日々の出来事として進行する。

          

 この映画において、フリダとアナにみられる子供の描写に卓越したものがあるということは特筆しておくべきだろう。
 フリダが有閑マダム風に扮し、アンがレストラン側になって行われる劇中劇のような「おままごと」は微笑ましいばかりだし、夜間の家出に失敗したフリダが「今日は暗いから、明日明るくなってからにするわ」と言い放つシーンは、緊迫した状況の後だけに妙にほっこりする。
 こうした思わず笑えたりするシーンがあるかと思えば、いくぶんスリラーめいたりサスペンスめいていて思わず息を飲むシーンなどが二、三度にわたってあり、淡々としたその描写がかえって起伏に富んだ展開を可能にしている。それらがとても自然に撮られていて、文句なしにその状況に惹き込まれる。

          
 
 子供を必要以上に可愛く健気に撮ったり、あるいは清純に見せようとしているわけでは決してない。子供をダシに泣かせたり感動させたりというあざとさもまったくない。逆に、子どもゆえの残酷さなども遠慮なく表現されている。にもかかわらず、いつの間にかフリダに感情移入し、揺さぶられてしまっているのだ。

          

 フリダに対して、もうひとりの重要な人物が叔父のつれあい、マルガである。「フリダの母になる」ことに揺るぎない覚悟で挑むマルガの存在こそ、もう一つのこの映画の見所だ。
 揺れ動く幼いフリダ、その振幅に妥協することなく、もう一つ大きな包容力でそれを受け入れてゆくマルガ、そのなかにはフリダに実子同様に接するがゆえの厳しいしつけの試みも垣間見える。ようするにそれは、母として受け入れてもらうための努力などではなく、常にすでに母として接してしまっているマルガがいるということである。だから、時折現れ、甘やかす一方の祖父母に対しては苦々しい思いを隠すことはないし、フリダへの接し方にもいらざる遠慮はない。

          

 ひと夏の間のいろいろなエピソードを重ね、フリダがいよいよ小学校へ入学(日本と違い秋が入学期)する前夜で話は終わる。家族全体でふざけ飛び回っているうち、いきなりフリダが号泣しはじめるのがそのラストシーンである。 
 そこには、母の死以来、ひと夏の緊張に耐えてきたフリダが、その緊張を脱ぎ捨てて新しい境地に向かう兆しがみてとれる。その意味では、これはカタルシスなのだ。だから、その泣き声のなかには、悲哀というよりある種の希望が宿っている。
 ほっこりしながらも、いろんな感慨を与えてくれる映画である。とりわけ、私のように里親のもとで育った人間には、フリダの一見不合理な行動の意味するところが、少しだけわかるような気がするのだ。

          

 カルラ・シモン監督、1993年に6歳とすれば、この映画は30歳を超えたばかりのものであろう。とても才能があるひとだと思って調べたら、この作品は2018年のカンヌ国際映画祭(是枝監督の『万引き家族』がパルム・ドールをとった)での、「ウーマン・イン・モーション」(映画界で活躍する女性をたたえる賞)を受賞しているほか、ベルリン国際映画祭新人監督賞、スペイン最高の映画賞、ゴヤ賞での新人監督賞などを受賞しているようだ。 
 
 映像をして語らせるという映画の鉄則を、みずみずしい感性で貫き通したこの若き才能に讃意を表し、その次回作もぜひ観たいものだと思った。
 以下に来日時のインタビューがあったので貼り付けておく。
 https://www.mine-3m.com/mine/news/movie?news_id=14771

 


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