どこかのテレビ局のディレクターかなんかが、酒場で「40過ぎてアイドルだなんてSMAPもキモイ」とか何とかいったのを、そこでバイトをしていた売れないタレントの女性がブログで暴露し、そのディレクターが処分されたとかされないとか、そんな話をしようとしているのではありません。
しかし、せっかく枕に使ったのだからいわせてもらうと、ディレクターについていえば、そんな「キモイ」タレントにぶら下がって稼いでいるくせに外で批判を展開するなんて潔くないと思います。
それに、40過ぎたらキモイなんて言い過ぎで、私なんか古稀に近いのに、よく街で、「郷ひろみの弟さんですか」と訊かれたりします。そんなとき私は、「いいえ、あれは私の叔父です。いつもお世話になっています」と答えることにしています。

ブログに書いたという女性についても、飲食店で働く以上、そこでの客の会話を人物が特定できる形で公表するなんて決してしてはならないことです。完全な守秘義務違反ですね。そんな人は客商売に従事する資格はありません。
ついでながら、悪口を言われたSMAPの面々が、そのとばっちりでネット雀の悪口の対象になっているのは気の毒という他はないですね。
もっとも、私はこのSMAPというグループについては余り詳しくはなく、木村某という私によく似た人がいるという話を聞いたことがあるぐらいなのですが。
(え? さっきは郷ひろみに似ているといったって? あんまり細かいこと覚えていると出世できませんよ。いいですか、郷ひろみは私の叔父、木村某は私の兄、それで良いのです)

というようなわけで(どんなわけだ?)、べつにSMAPの悪口を言うつもりはありません。
ただ、彼らが歌っていて最近よく耳にし、聞くところに依れば、音楽の教科書にも採用されるとかという歌の歌詞について感じたことを書いてみたいのです。
題名は『世界にひとつだけの花』(詞:槇原敬之)です。
この詞の主題は、冒頭に凝縮されているといって過言ではありません。
「NO.1 にならなくてもいい もともと特別な Only one」
これに引っかかるのは先日の日記に書いた差異と差別に関連するからなのです。
あの日記で私は、差異が序列化されることによって差別が形成される経緯を書きました。
もうひとつ、それらの差異そのものが実はさほど明確なものではなく、実はボーダレスなものに過ぎないとも書いたのですが、上の歌詞は一見それと似ているように見えます。
「世の中にはいろいろ違いがあって、、それはそれで良いんだね」という言い分は今や一般化していてだれにでも受け入れられやすいものですね。しかし、私の先の日記は、そうした中で、なおかつ差別が形成される経緯を書いたのでした。

さて、上の歌詞に戻りましょう。
ここでも一見、差異が序列化されることに反対していて、それぞれの独自性が強調されているかに見えます。しかしです、私たちは本当に「NO.1・NO.2・NO.3~」の序列を拒否したところで、「Only one」になれるのでしょうか。この競争社会の中でです。
下手をするとこれは、そうした序列化、あるいは勝ち組・負け組の対比の中で、負けてしまったものの慰めの歌でしかないのではないかとも思うのです。
早い話が、花屋に並ぶ花はすでにして雑草と区分されていますし、園芸農家の選別の中でできの悪いものは抜き取られたり捨てられたりしています。そして、なおかつ花屋の店先では厳然として値札が付けられているのです。これが現実なのです。

この歌詞は、それらに目をつむってはいないでしょうか。そうした、差異が厳然とした序列となる現実から視線を逸らせてはいないでしょうか。あるいは、それはそれとしていいのだといっているに過ぎないのではないでしょうか。
「Only one」になることは悪いことではありません。しかし、それ自身は「NO.1」に遜色のない、いや、それ以上の努力を必要とするのではないでしょうか。
マスコミの既存の報道をほとんど鵜呑みにし、周りと同じような商品を買いあさり、視聴率の良いTV番組で、テロップに従ってみんなが笑うところで「ワハハハ」と笑っているのでは「Only one」ではなくて、「one of them」にしか過ぎないのではないかと思うのです。
「みんな違っていいんだね」は序列の中で敗残することの自己弁明であってはつまらないのではないでしょうか。それくらいならまだしも、序列化の中で徹底して戦った方がましだし、それがいやなら、序列化の構造そのものをちゃんと批判の対象にすべきではないでしょうか。

先に述べた「みんな違っていいんだね」は、金子みすずの詩に似ていますね。
事実、それを引いて、上に見た「Only one」の例証にすらしているものも見かけます。
しかし、それを目にすると、私は呆れるばかりか、ある種の怒りすらこみ上げてくるのです。
金子みすずの詩はこうです。
「私と小鳥と鈴と」
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
確かに字面は似ています。
しかし、金子みすずの「みんなちがって、みんないい」には、実は、血を吐く思いが込められていることを知るべきなのです。
書店員の妻として一子をもうけながらも詩作を続ける彼女を、亭主は酒を食らっては陵辱し、よそで拾ってきた淋病をうつし、あまつさえ、彼女の唯一の希望であった詩作をも取り上げ、離婚に際してはその子供の親権をも奪い、ついには彼女を自死に追い込んだのでした。
彼女の詩は、そうした伝記的事実の片鱗も見せない美しさで、まさに、「Only one」として輝いています。

これを、先に見た「NO.1 にならなくてもいい もともと特別な Only one」と比べれてみばよく分かります。
彼女は「もともと特別なOnly one」などでは決してなかったのです。彼女は、凡庸であることを強制されるなか、「Only one」になるために、まさに命を削り続けたのでした。
それを、「もともと」の「Only one」、つまり「one of them」が、「そうだよね、みんな違っていいんだよね」というとき、彼女との違いは歴然としているといわねばなりません。
私が先に、この二つの詩を一緒くたにする言説にある種の怒りすら覚えると書いたのは以上のようなわけによるのです。
「NO.1 」を横目で見ながら、「私はもともとOnly oneだもんね」とのたまうのは許すとしましょう。
しかし、お願いですから、それと金子みすずを一緒にするのはやめてほしいのです。
*この文章に、 游氣 さんという方から、若干の事実を補足したコメントをいただきました。
それを勘案しながら、私自身のコメントも補足しておきました。併せてお読みいただければと思います。
しかし、せっかく枕に使ったのだからいわせてもらうと、ディレクターについていえば、そんな「キモイ」タレントにぶら下がって稼いでいるくせに外で批判を展開するなんて潔くないと思います。
それに、40過ぎたらキモイなんて言い過ぎで、私なんか古稀に近いのに、よく街で、「郷ひろみの弟さんですか」と訊かれたりします。そんなとき私は、「いいえ、あれは私の叔父です。いつもお世話になっています」と答えることにしています。

ブログに書いたという女性についても、飲食店で働く以上、そこでの客の会話を人物が特定できる形で公表するなんて決してしてはならないことです。完全な守秘義務違反ですね。そんな人は客商売に従事する資格はありません。
ついでながら、悪口を言われたSMAPの面々が、そのとばっちりでネット雀の悪口の対象になっているのは気の毒という他はないですね。
もっとも、私はこのSMAPというグループについては余り詳しくはなく、木村某という私によく似た人がいるという話を聞いたことがあるぐらいなのですが。
(え? さっきは郷ひろみに似ているといったって? あんまり細かいこと覚えていると出世できませんよ。いいですか、郷ひろみは私の叔父、木村某は私の兄、それで良いのです)

というようなわけで(どんなわけだ?)、べつにSMAPの悪口を言うつもりはありません。
ただ、彼らが歌っていて最近よく耳にし、聞くところに依れば、音楽の教科書にも採用されるとかという歌の歌詞について感じたことを書いてみたいのです。
題名は『世界にひとつだけの花』(詞:槇原敬之)です。
この詞の主題は、冒頭に凝縮されているといって過言ではありません。
「NO.1 にならなくてもいい もともと特別な Only one」
これに引っかかるのは先日の日記に書いた差異と差別に関連するからなのです。
あの日記で私は、差異が序列化されることによって差別が形成される経緯を書きました。
もうひとつ、それらの差異そのものが実はさほど明確なものではなく、実はボーダレスなものに過ぎないとも書いたのですが、上の歌詞は一見それと似ているように見えます。
「世の中にはいろいろ違いがあって、、それはそれで良いんだね」という言い分は今や一般化していてだれにでも受け入れられやすいものですね。しかし、私の先の日記は、そうした中で、なおかつ差別が形成される経緯を書いたのでした。

さて、上の歌詞に戻りましょう。
ここでも一見、差異が序列化されることに反対していて、それぞれの独自性が強調されているかに見えます。しかしです、私たちは本当に「NO.1・NO.2・NO.3~」の序列を拒否したところで、「Only one」になれるのでしょうか。この競争社会の中でです。
下手をするとこれは、そうした序列化、あるいは勝ち組・負け組の対比の中で、負けてしまったものの慰めの歌でしかないのではないかとも思うのです。
早い話が、花屋に並ぶ花はすでにして雑草と区分されていますし、園芸農家の選別の中でできの悪いものは抜き取られたり捨てられたりしています。そして、なおかつ花屋の店先では厳然として値札が付けられているのです。これが現実なのです。

この歌詞は、それらに目をつむってはいないでしょうか。そうした、差異が厳然とした序列となる現実から視線を逸らせてはいないでしょうか。あるいは、それはそれとしていいのだといっているに過ぎないのではないでしょうか。
「Only one」になることは悪いことではありません。しかし、それ自身は「NO.1」に遜色のない、いや、それ以上の努力を必要とするのではないでしょうか。
マスコミの既存の報道をほとんど鵜呑みにし、周りと同じような商品を買いあさり、視聴率の良いTV番組で、テロップに従ってみんなが笑うところで「ワハハハ」と笑っているのでは「Only one」ではなくて、「one of them」にしか過ぎないのではないかと思うのです。
「みんな違っていいんだね」は序列の中で敗残することの自己弁明であってはつまらないのではないでしょうか。それくらいならまだしも、序列化の中で徹底して戦った方がましだし、それがいやなら、序列化の構造そのものをちゃんと批判の対象にすべきではないでしょうか。

先に述べた「みんな違っていいんだね」は、金子みすずの詩に似ていますね。
事実、それを引いて、上に見た「Only one」の例証にすらしているものも見かけます。
しかし、それを目にすると、私は呆れるばかりか、ある種の怒りすらこみ上げてくるのです。
金子みすずの詩はこうです。
「私と小鳥と鈴と」
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
確かに字面は似ています。
しかし、金子みすずの「みんなちがって、みんないい」には、実は、血を吐く思いが込められていることを知るべきなのです。
書店員の妻として一子をもうけながらも詩作を続ける彼女を、亭主は酒を食らっては陵辱し、よそで拾ってきた淋病をうつし、あまつさえ、彼女の唯一の希望であった詩作をも取り上げ、離婚に際してはその子供の親権をも奪い、ついには彼女を自死に追い込んだのでした。
彼女の詩は、そうした伝記的事実の片鱗も見せない美しさで、まさに、「Only one」として輝いています。

これを、先に見た「NO.1 にならなくてもいい もともと特別な Only one」と比べれてみばよく分かります。
彼女は「もともと特別なOnly one」などでは決してなかったのです。彼女は、凡庸であることを強制されるなか、「Only one」になるために、まさに命を削り続けたのでした。
それを、「もともと」の「Only one」、つまり「one of them」が、「そうだよね、みんな違っていいんだよね」というとき、彼女との違いは歴然としているといわねばなりません。
私が先に、この二つの詩を一緒くたにする言説にある種の怒りすら覚えると書いたのは以上のようなわけによるのです。
「NO.1 」を横目で見ながら、「私はもともとOnly oneだもんね」とのたまうのは許すとしましょう。
しかし、お願いですから、それと金子みすずを一緒にするのはやめてほしいのです。
*この文章に、 游氣 さんという方から、若干の事実を補足したコメントをいただきました。
それを勘案しながら、私自身のコメントも補足しておきました。併せてお読みいただければと思います。