洞爺湖というところで、世界の偉い人たちが集まってG8という会議を開いています。
いろいろな言説が飛び交っていますが、私も、世界のわずか14%を占めるにすぎない国の代表者が集まって、残りの86%をも含めた人々の将来を決めるのはいかがなものかと思っています。
これらの国々が特に選ばれたのは、その経済力などでぬきんでているからでしょうが、要するに、現実の世界が激しい格差を生み出している中で、これらの国々が本当に底辺のところまで目配りをした判断をするでしょうか。
たとえ、そうした素振りはあったとしても、自分たちだけ恵まれているのは何かと都合が悪いということで、若干の妥協をするに過ぎないのではないでしょうか。
自分の国の権益を損なってまで貧しい人たちを救うことはまずないでしょう。
それらの国々だけではなく、それ以外からも今回は中国とインドが招請されたといいます。
しかし、この両国も、かつての「第三世界」を代表するというよりも、G8に限りなく近い実力を身につけたがゆえに招請されたのであり、やがてはG10になる候補者に過ぎません。
従って、中国やインドに貧しい国々の代弁を期待するというのはとんでもないお門違いです。
しかし、私の疑問はそんなことではありません。
いいでしょう、G8もG10も認めましょう。
でも、それはどうして一堂に会して行われなければならないのでしょう。
今回の最大のテーマは、地球温暖化に対する対策で、そのための二酸化炭素の排出規制だといわれています。
しかし、このサミットに費やされた諸エネルギーの総体、その準備過程で費やされたもの、諸外国からやってきた首脳の専用機だけでも20機といわれている大型ジェット機、会場へ向かう一国の代表の前後に二十台が走るという大名行列風の車列、そして、あらゆる点と線を結ぶ地点で待機する何千台という厳重きわまりない警備の車両、そこへと動員された日本全国からの警察官の大移動、くわえて全世界からの報道陣の襲来等々のエネルギー消費とそれによって排出される二酸化炭素の総量は、貧しい国々の年間の排出量を優に超えると思われます。
この三日間の会議で、地球の未来に関する事柄が本当に討議され、決められると考えるのは愚かなことです。
あらゆる首脳会議といわれるものがそうであるように、この会議についてもその水面下で実務担当者による何度かの摺り合わせが行われており、すでに発表さるべき結論は決まっているのです。
従って、会議そのものはセレモニーに過ぎません。
少なくとも、集まる前とは全く違う結論などは決して出るはずがないのです。
せいぜい私たちは、それ以前の摺り合わせで、どこが優位に立ったのか、どこが苦汁を飲んだのかを、その首脳の表情で読み取るのみなのです。
それすらも豪華な晩餐会の、まさに外交的な笑みによって打ち消されてしまうものなのですが。
もういちどいいます、なぜこれほど膨大はエネルギーを浪費して一堂に会さねばならないのでしょうか。
インターネットが世界中をカバーしその交流が可能な時代においてです。
ネット会議で十分ではないでしょうか。
それも公開の会議でいいのではないでしょうか。
私たちは報道というスクリーンを経由することなく、世界の首脳の言動に触れることが出来るのです。
そうすれば、準備過程や警備、来日の手間暇、報道陣の襲来なども全て必要なく、無駄なエネルギーを消費することもなく、また、いたずらに温暖化に荷担することもなくすむのではないでしょうか。
二酸化炭素の排出規制を本当に考えるならば、世界の首脳を一堂に集めるというばかげた催しを止めることです。
このセレモニーに使われる莫大な経費とエネルギー、排出ガスがある一方、一日、1万2千人のアフリカの人々が栄養失調で死亡しているというのが赤裸々な現実です。
このG8ないしはG10は、そうした死にゆく人たちへの目配りを本当に持ち合わせているのでしょうか。
会議は踊る、されど人々は飢え、そして地球は乾くのです。
*昨日の遅い時間のニュースを見ていたら、G10 どころかG13という案も出ているらしい。
そんな拡大案を見ていると、今度は別の疑問が出てくる。
じゃぁ、国連って何なんだ。そういえば最近影が薄い。
アメリカの一方的な武力行使を阻止しえなかった時点で、自らの生命を絶ったのだろうか。
いろいろな言説が飛び交っていますが、私も、世界のわずか14%を占めるにすぎない国の代表者が集まって、残りの86%をも含めた人々の将来を決めるのはいかがなものかと思っています。
これらの国々が特に選ばれたのは、その経済力などでぬきんでているからでしょうが、要するに、現実の世界が激しい格差を生み出している中で、これらの国々が本当に底辺のところまで目配りをした判断をするでしょうか。
たとえ、そうした素振りはあったとしても、自分たちだけ恵まれているのは何かと都合が悪いということで、若干の妥協をするに過ぎないのではないでしょうか。
自分の国の権益を損なってまで貧しい人たちを救うことはまずないでしょう。
それらの国々だけではなく、それ以外からも今回は中国とインドが招請されたといいます。
しかし、この両国も、かつての「第三世界」を代表するというよりも、G8に限りなく近い実力を身につけたがゆえに招請されたのであり、やがてはG10になる候補者に過ぎません。
従って、中国やインドに貧しい国々の代弁を期待するというのはとんでもないお門違いです。
しかし、私の疑問はそんなことではありません。
いいでしょう、G8もG10も認めましょう。
でも、それはどうして一堂に会して行われなければならないのでしょう。
今回の最大のテーマは、地球温暖化に対する対策で、そのための二酸化炭素の排出規制だといわれています。
しかし、このサミットに費やされた諸エネルギーの総体、その準備過程で費やされたもの、諸外国からやってきた首脳の専用機だけでも20機といわれている大型ジェット機、会場へ向かう一国の代表の前後に二十台が走るという大名行列風の車列、そして、あらゆる点と線を結ぶ地点で待機する何千台という厳重きわまりない警備の車両、そこへと動員された日本全国からの警察官の大移動、くわえて全世界からの報道陣の襲来等々のエネルギー消費とそれによって排出される二酸化炭素の総量は、貧しい国々の年間の排出量を優に超えると思われます。
この三日間の会議で、地球の未来に関する事柄が本当に討議され、決められると考えるのは愚かなことです。
あらゆる首脳会議といわれるものがそうであるように、この会議についてもその水面下で実務担当者による何度かの摺り合わせが行われており、すでに発表さるべき結論は決まっているのです。
従って、会議そのものはセレモニーに過ぎません。
少なくとも、集まる前とは全く違う結論などは決して出るはずがないのです。
せいぜい私たちは、それ以前の摺り合わせで、どこが優位に立ったのか、どこが苦汁を飲んだのかを、その首脳の表情で読み取るのみなのです。
それすらも豪華な晩餐会の、まさに外交的な笑みによって打ち消されてしまうものなのですが。
もういちどいいます、なぜこれほど膨大はエネルギーを浪費して一堂に会さねばならないのでしょうか。
インターネットが世界中をカバーしその交流が可能な時代においてです。
ネット会議で十分ではないでしょうか。
それも公開の会議でいいのではないでしょうか。
私たちは報道というスクリーンを経由することなく、世界の首脳の言動に触れることが出来るのです。
そうすれば、準備過程や警備、来日の手間暇、報道陣の襲来なども全て必要なく、無駄なエネルギーを消費することもなく、また、いたずらに温暖化に荷担することもなくすむのではないでしょうか。
二酸化炭素の排出規制を本当に考えるならば、世界の首脳を一堂に集めるというばかげた催しを止めることです。
このセレモニーに使われる莫大な経費とエネルギー、排出ガスがある一方、一日、1万2千人のアフリカの人々が栄養失調で死亡しているというのが赤裸々な現実です。
このG8ないしはG10は、そうした死にゆく人たちへの目配りを本当に持ち合わせているのでしょうか。
会議は踊る、されど人々は飢え、そして地球は乾くのです。
*昨日の遅い時間のニュースを見ていたら、G10 どころかG13という案も出ているらしい。
そんな拡大案を見ていると、今度は別の疑問が出てくる。
じゃぁ、国連って何なんだ。そういえば最近影が薄い。
アメリカの一方的な武力行使を阻止しえなかった時点で、自らの生命を絶ったのだろうか。