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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

落ち葉へのオマージュ・またはラプソディ

2012-11-30 17:48:14 | 写真とおしゃべり
 今日で霜月も終わりです。
 買い物に出た折に、近所の鎮守様の前を通りかかったら、何やら地面が賑やかです。
 そうです。落ち葉があちこちに群れているのです。

 幸いにも(?)、無人の社とあって、近所の人がボランティアで掃除をする以外、自然のまま放置されています。
 それにこの時期、掃いても、掃いても、すべてが落葉するまではキリがない状態です。
 きっと年末に、まとめて掃除という段取りになっているのでしょう。

 

 さして広くない境内ですが、花を愛で、若葉で目を癒し、紅葉を楽しんだあと、そのしんがりともいうべき落ち葉まで鑑賞できるのですから、こうした場所は大切にしたいものです。

 もっとも、落ち葉まで鑑賞の対象にするのが普遍的なものかどうかはいささか疑問ではあります。
 昨日出た親しい人たちとの会合でも、ある文化圏に属する人にとっては妙なる虫の声も雑音にしか過ぎないことが語られていましたが、そうした美的判断の分節化(何を美しいと感じ、何をそうでないと思うか)の違いは多分にあるでしょうね。

          

 もともと美的判断というのは、カントがいうようにある公理があって、そこからの演繹によって導き出されるものではなく、その共同体の成員の「共通感覚」のようなものとして事後的に形成されるものですから、ある人びとにとっては美しくとも、他の人びとにとってはそうでない場合はもちろんあるわけです。

 しかし、これを固定して考えることは大きな間違いでしょう。
 たとえば四季折々の微妙な変化を捉えうるのは日本人のみだといったような馬鹿げた独自性の主張です。極端な人は、それは日本人のDNA(?)に刻み込まれたものだと語りますが、これはある種のオカルティズムでしかなく、しかも、民族や、果ては人種までをも固定して規定する極めて危険な考えにまで行き着きます。

 
 

 先の述べたカントのいう「共通感覚」が共同体のなかで「形成される」可能性を主張するものだとしたら、それはある時期、ある場所で、ある一定の人々によって生み出されるもので、それが時代や場所によって変動しうることをこそ示唆しているのです。
 実際のところ、「日本人」とひとくくりにされる人びとの中でも、今や、虫の音を雑音と感じたり、落ち葉をゴミとしてしか感じない人が多数派を占めているのではないかとさえ思われるのです。

 そんななか、私が落ち葉に親和性を感じる理由ははっきりしています。
 いまや、私自身が落ち葉でしかないからです。
 しかし、地に落ちてもなお、なにがしかの主張や表現が可能なものでありたいと思ってはいるのですが、やはり無造作に踏まれたり、ゴミとして片付けられるのがおちでしょうね。
 あ、箒とちり取りが迫ってきた!
 







コメント (2)
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