すでに何回も書いたことですが、敗戦の日にあたり今一度、国民学校一年生だった当時の経験を述べたいと思います。
これを書きだしたのは11時40分ぐらいですが、1945(昭和20)年、8月15日のこのくらいの時刻に、真っ黒になって裸同然で飛び回って遊んでいた私を、母が呼びにきました。
正午から、天皇陛下の放送(玉音放送)があるから、ちゃんとした服に着替えて母屋の座敷に集まれというのです。
早速、疎開先での住い、掘っ立て小屋に帰り、白いシャツと黒いズボンに着替え、母の実家の母屋へと向かいました。
そこには一族郎党や私のような疎開者、そして近所のラジオがない人たち、総勢20名ほどがテーブルに置かれたラジオに対面して正座していました。
母屋の叔父が、必死でチューニングをいじり、聴きやすい領域を探していました。
やがて正午、それは始まりました。
その瞬間まで、日本人の99.9%が天皇の声などは聞いたことがなかったのです。
何しろ「現人神」だったわけですから、その声は「玉音」だったのです。
「玉音」という名に似ず、その声は尖った甲高いものでした。おまけに文語調で漢語がいっぱいまじり、とてもこどもには理解困難なものでした。
「堪え難きを」で一拍置いてから「堪え」のくだりは覚えているような気がするのですが、この部分はその後も何度も放送などで流されましたから、おそらく、事後的な刷り込みでしょう。
理解できなかったのは子どもばかりではありませんでした。大人もほとんど理解し得なかったのです。そのうち、誰だったか少しインテリっぽいのが、「どうやら戦争に負けたようだ」と言い出しました。ほかの誰かが、「役場へ行って確かめてくる」といって駆け出しました。
間もなく、敗戦が確定したことを知りました。
先般、NHKで、玉音放送後もこの放送で敗戦をを知っていた司令官の命令により、全国で数十人の特攻隊員が出撃させられ、その殆どは帰らぬ人となったと伝えていました。なんという酷い!
その他、外地でも、敗戦を知らされないまま、無謀な突撃で死亡した多くの兵士がいるようです。
やがて、お決まりの流言飛語が飛び交いました。伊勢湾から上陸してくる米軍によって、男は全て殺され、女は犯されて奴隷にされるといったたぐいのものでした。それは自分たちが外地でしてきたことの裏返しでもあり、「鬼畜米英」が日常的に刷り込まれ続けた結果でもありました。
事実、しばらくは家財道具をリヤカーに積んで、はずれの奥深い林の中に何日も逃げていた人もいました。
学校も爆撃で燃えてしまっていましたから、8月いっぱいは何だかぼんやり過ごしたようで、あまり記憶にはありません。
大人たちが手のひらを返したように民主主義だの何だの言い出し、戦時中の事跡を隠蔽し、教科書に墨を塗らせたのはしばらくしてからでした。
奉安殿と忠魂碑の前で最敬礼をせずに通りすぎたとして、わずか6歳のこの私に往復ビンタの制裁を加えた教師も、平和と民主主義を説くようになっていました。
その他、戦中戦後のことはこまごましたことも覚えていることがたくさんあるのですが、とても書ききれません。
昨日、いわゆる安倍戦後70年談話なるものが発表されました。
「おわび」「反省」「侵略」「植民地支配」のいわゆる4つのキーワードは盛り込んでいますが、どこかよそよそしいのです。それは、これまでもそうしてきたから、これからもそうするといったトーンで、自分の言葉になっていないからです。少なくとも、日本語での表現では「私は」という主語が使われていません。
おそらく、外交的な配慮や、公明党との関連で一応4つのキーワードは入れたものの、それが従来の安倍氏の主張、「日本を取り戻す」や「戦後レジームからの脱却」とは異なるものだという認識を彼自身がどこかで持っていることでしょう。とりあえずのリップサービスということでしょうか。
それを示す例もあります。今日15日、閣僚である高市総務相と有村女性活躍相は午前に、東京・九段北の靖国神社を参拝した。安倍首相はさすがに参拝を見送りましたが、代理の萩生田光一自民党総裁特別補佐を通じて、党総裁として玉串料を奉納しています。
また、安倍氏の側近、稲田政務調査会長も参拝しています。
これらの一連の動きの中に、あの談話が「心ならず」の上辺の糊塗であり、安倍氏の国会答弁同様、舌先三寸のその場しのぎであることがわかります。
もし、その談話が本心から発したものであり、それをシビアに実践してゆくつもりがあるのなら、何を差し置いても、現在参院で審議中の、新安保法制案をただちに撤回すことだろうと思います。
これを書きだしたのは11時40分ぐらいですが、1945(昭和20)年、8月15日のこのくらいの時刻に、真っ黒になって裸同然で飛び回って遊んでいた私を、母が呼びにきました。
正午から、天皇陛下の放送(玉音放送)があるから、ちゃんとした服に着替えて母屋の座敷に集まれというのです。
早速、疎開先での住い、掘っ立て小屋に帰り、白いシャツと黒いズボンに着替え、母の実家の母屋へと向かいました。
そこには一族郎党や私のような疎開者、そして近所のラジオがない人たち、総勢20名ほどがテーブルに置かれたラジオに対面して正座していました。
母屋の叔父が、必死でチューニングをいじり、聴きやすい領域を探していました。
やがて正午、それは始まりました。
その瞬間まで、日本人の99.9%が天皇の声などは聞いたことがなかったのです。
何しろ「現人神」だったわけですから、その声は「玉音」だったのです。
「玉音」という名に似ず、その声は尖った甲高いものでした。おまけに文語調で漢語がいっぱいまじり、とてもこどもには理解困難なものでした。
「堪え難きを」で一拍置いてから「堪え」のくだりは覚えているような気がするのですが、この部分はその後も何度も放送などで流されましたから、おそらく、事後的な刷り込みでしょう。
理解できなかったのは子どもばかりではありませんでした。大人もほとんど理解し得なかったのです。そのうち、誰だったか少しインテリっぽいのが、「どうやら戦争に負けたようだ」と言い出しました。ほかの誰かが、「役場へ行って確かめてくる」といって駆け出しました。
間もなく、敗戦が確定したことを知りました。
先般、NHKで、玉音放送後もこの放送で敗戦をを知っていた司令官の命令により、全国で数十人の特攻隊員が出撃させられ、その殆どは帰らぬ人となったと伝えていました。なんという酷い!
その他、外地でも、敗戦を知らされないまま、無謀な突撃で死亡した多くの兵士がいるようです。
やがて、お決まりの流言飛語が飛び交いました。伊勢湾から上陸してくる米軍によって、男は全て殺され、女は犯されて奴隷にされるといったたぐいのものでした。それは自分たちが外地でしてきたことの裏返しでもあり、「鬼畜米英」が日常的に刷り込まれ続けた結果でもありました。
事実、しばらくは家財道具をリヤカーに積んで、はずれの奥深い林の中に何日も逃げていた人もいました。
学校も爆撃で燃えてしまっていましたから、8月いっぱいは何だかぼんやり過ごしたようで、あまり記憶にはありません。
大人たちが手のひらを返したように民主主義だの何だの言い出し、戦時中の事跡を隠蔽し、教科書に墨を塗らせたのはしばらくしてからでした。
奉安殿と忠魂碑の前で最敬礼をせずに通りすぎたとして、わずか6歳のこの私に往復ビンタの制裁を加えた教師も、平和と民主主義を説くようになっていました。
その他、戦中戦後のことはこまごましたことも覚えていることがたくさんあるのですが、とても書ききれません。
昨日、いわゆる安倍戦後70年談話なるものが発表されました。
「おわび」「反省」「侵略」「植民地支配」のいわゆる4つのキーワードは盛り込んでいますが、どこかよそよそしいのです。それは、これまでもそうしてきたから、これからもそうするといったトーンで、自分の言葉になっていないからです。少なくとも、日本語での表現では「私は」という主語が使われていません。
おそらく、外交的な配慮や、公明党との関連で一応4つのキーワードは入れたものの、それが従来の安倍氏の主張、「日本を取り戻す」や「戦後レジームからの脱却」とは異なるものだという認識を彼自身がどこかで持っていることでしょう。とりあえずのリップサービスということでしょうか。
それを示す例もあります。今日15日、閣僚である高市総務相と有村女性活躍相は午前に、東京・九段北の靖国神社を参拝した。安倍首相はさすがに参拝を見送りましたが、代理の萩生田光一自民党総裁特別補佐を通じて、党総裁として玉串料を奉納しています。
また、安倍氏の側近、稲田政務調査会長も参拝しています。
これらの一連の動きの中に、あの談話が「心ならず」の上辺の糊塗であり、安倍氏の国会答弁同様、舌先三寸のその場しのぎであることがわかります。
もし、その談話が本心から発したものであり、それをシビアに実践してゆくつもりがあるのなら、何を差し置いても、現在参院で審議中の、新安保法制案をただちに撤回すことだろうと思います。