*写真は本文と関係ありません。いずれも、JR岐阜駅付近で写したものです。
もちろんのことですが、私は霊的存在ではなく物質的な物体です。ということは、この宇宙空間において、一定の座を占める、つまり、一定の体積をもって存在しているということなのです。
もちろん、霊的存在ではないみなさんも私同様、一定の体積をもってこの世に存在していらっしゃるわけですが、ところでみなさんは、ご自分の体積がどのくらいかご存知でしょうか。
岐阜駅付近の高層ビル 岐阜には高いビルはこの二つしかない
ちょっと困っていませんか。
人間の体は、立方体や直方体、四角柱や円筒ではありませんから、数式に強い人でも計算しにくいですね。
しかし、私は、数学にはめっぽう弱く、算数もままならないにもかかわらず、おおよその自分の体積を知っているのです。
その秘密は自宅の浴槽にあります。
私んちの浴槽は木製の直方体なのです。
かけ湯で若干のお湯を使いますが、まずは浴槽に浸かります。幼児のようにあと30とか数えたりして、然るべき後、浴槽を出ます。
その折、全身を浸かっていた折の吃水線と、出たあとのそれとの差がくっきりと残るのです。
北口広場 中央上部に金の信長像 催し物が行われる
浴槽の縦横は60cm✕70cm、そして吃水線の差は約12cmほどなのです。
これで容易に、60cm✕70cm✕12cm=50,400c㎥ という値が出ます。
おっと、これには頭部が含まれていません。幼児ではありませんの、ブクブクと頭まで沈めたりはしません。
そこで頭部は別途計算をします。
頭部の直径を20センチの球形と仮定して計算します。
南口正面 ただし岐阜は北口がメイン
半径10cmの三乗✕π✕三分の四がその値で、それはおおよそ4,200c㎥ ということになります。
したがってそれに、頭部以外の体積を足した約54,600c㎥ というのが私の体積ということになります。
一応単位が「万」ということになると、何だか自分が大きくなったような気がするのですが、この広大な宇宙空間からしたら本当に微々たるのもです。
同じく南口
しかし、こんな風にも考えられないでしょうか。
たとえ微々たるものでも、この宇宙空間、地球空間に一定の体積をもって存在するということは、この空間に対してそれなりの責任があるのではないか。ましてや私というこの空間を占める存在は、他の空間を占める他者たち、ものであったり人であったりするそれらと相互関連のうちにあるとしたら、なおさらです。
早い話が、道を歩いていて向こうから人が来た場合、どちらかが避けなければ衝突します。一定の低さや、狭さを通り抜けることができません。
ようするに、一定の体積を占める私は、他の体積を占める物や人との接触や排除、共存の関係にあるのです。私は他者に影響を与え、他者もまた私に影響を与えるという関係はまさに私が体積をもつということによって否応なしにあるのです。
南口付近道路標識 根尾は淡墨の桜があるところ
だとするならば、私は、体積をもつということにおいて、否応なしに他者との倫理的な関係のうちにおかれているのだということになります。
体積をもってしまった私は、そうしたありようを、もはや自分はあずかり知らないとはいえない関係性のうちへと組み込まれてしまっているのです。
ただし、私が体積をもっていられるのは、ある限られた時間においてなのです。この世に生を受ける前の私には体積はありませんでした。受精卵になってからもそれらはほとんど無視しうるほどだったことでしょう。
しかし、ひとたびこの世に生を受け、妊婦だった母の体積から分離され、自分の体積をもってしまって以降は、私が私である責任を負うことになります。
もちろん、私の生命は永遠ではありませんから、やがて焼かれ、灰やいくつかの骨片になり、体積そのものを失うことになります。
その段階では、もはや私は物質的な存在ではなく、私を記憶する人のうちにその残滓を留めるに過ぎません。
南口から徒歩一分の醸造元のビル 酒はこの地下で造っている
しかし、ひとたび体積をもってしまった私は、それをたんなる無常観へと委ねるわけにもゆかないと思うのです。
人間はすべて死を免れ難いが、しかし、死ぬために生まれてきたのではない、というのはハンナ・アーレントの言葉ですが、ひとたび、体積をもったものとしてこの世に現れてしまった以上、私たちは、その時代、その場所、その立場という制約を受けながら、体積をもった存在として、そこでの自己表出を求められます。
体積というのは私の存在のある数値にしか過ぎないのですが、私の周辺のものや人々との関係のうちで、私がしかるべく行動することによっって、私の体積にはある質的なものが付与されることになります。私は「何」ではなく、複数者のうちの単独者として「誰」になることができるのです。
もちろんのことですが、私は霊的存在ではなく物質的な物体です。ということは、この宇宙空間において、一定の座を占める、つまり、一定の体積をもって存在しているということなのです。
もちろん、霊的存在ではないみなさんも私同様、一定の体積をもってこの世に存在していらっしゃるわけですが、ところでみなさんは、ご自分の体積がどのくらいかご存知でしょうか。
岐阜駅付近の高層ビル 岐阜には高いビルはこの二つしかない
ちょっと困っていませんか。
人間の体は、立方体や直方体、四角柱や円筒ではありませんから、数式に強い人でも計算しにくいですね。
しかし、私は、数学にはめっぽう弱く、算数もままならないにもかかわらず、おおよその自分の体積を知っているのです。
その秘密は自宅の浴槽にあります。
私んちの浴槽は木製の直方体なのです。
かけ湯で若干のお湯を使いますが、まずは浴槽に浸かります。幼児のようにあと30とか数えたりして、然るべき後、浴槽を出ます。
その折、全身を浸かっていた折の吃水線と、出たあとのそれとの差がくっきりと残るのです。
北口広場 中央上部に金の信長像 催し物が行われる
浴槽の縦横は60cm✕70cm、そして吃水線の差は約12cmほどなのです。
これで容易に、60cm✕70cm✕12cm=50,400c㎥ という値が出ます。
おっと、これには頭部が含まれていません。幼児ではありませんの、ブクブクと頭まで沈めたりはしません。
そこで頭部は別途計算をします。
頭部の直径を20センチの球形と仮定して計算します。
南口正面 ただし岐阜は北口がメイン
半径10cmの三乗✕π✕三分の四がその値で、それはおおよそ4,200c㎥ ということになります。
したがってそれに、頭部以外の体積を足した約54,600c㎥ というのが私の体積ということになります。
一応単位が「万」ということになると、何だか自分が大きくなったような気がするのですが、この広大な宇宙空間からしたら本当に微々たるのもです。
同じく南口
しかし、こんな風にも考えられないでしょうか。
たとえ微々たるものでも、この宇宙空間、地球空間に一定の体積をもって存在するということは、この空間に対してそれなりの責任があるのではないか。ましてや私というこの空間を占める存在は、他の空間を占める他者たち、ものであったり人であったりするそれらと相互関連のうちにあるとしたら、なおさらです。
早い話が、道を歩いていて向こうから人が来た場合、どちらかが避けなければ衝突します。一定の低さや、狭さを通り抜けることができません。
ようするに、一定の体積を占める私は、他の体積を占める物や人との接触や排除、共存の関係にあるのです。私は他者に影響を与え、他者もまた私に影響を与えるという関係はまさに私が体積をもつということによって否応なしにあるのです。
南口付近道路標識 根尾は淡墨の桜があるところ
だとするならば、私は、体積をもつということにおいて、否応なしに他者との倫理的な関係のうちにおかれているのだということになります。
体積をもってしまった私は、そうしたありようを、もはや自分はあずかり知らないとはいえない関係性のうちへと組み込まれてしまっているのです。
ただし、私が体積をもっていられるのは、ある限られた時間においてなのです。この世に生を受ける前の私には体積はありませんでした。受精卵になってからもそれらはほとんど無視しうるほどだったことでしょう。
しかし、ひとたびこの世に生を受け、妊婦だった母の体積から分離され、自分の体積をもってしまって以降は、私が私である責任を負うことになります。
もちろん、私の生命は永遠ではありませんから、やがて焼かれ、灰やいくつかの骨片になり、体積そのものを失うことになります。
その段階では、もはや私は物質的な存在ではなく、私を記憶する人のうちにその残滓を留めるに過ぎません。
南口から徒歩一分の醸造元のビル 酒はこの地下で造っている
しかし、ひとたび体積をもってしまった私は、それをたんなる無常観へと委ねるわけにもゆかないと思うのです。
人間はすべて死を免れ難いが、しかし、死ぬために生まれてきたのではない、というのはハンナ・アーレントの言葉ですが、ひとたび、体積をもったものとしてこの世に現れてしまった以上、私たちは、その時代、その場所、その立場という制約を受けながら、体積をもった存在として、そこでの自己表出を求められます。
体積というのは私の存在のある数値にしか過ぎないのですが、私の周辺のものや人々との関係のうちで、私がしかるべく行動することによっって、私の体積にはある質的なものが付与されることになります。私は「何」ではなく、複数者のうちの単独者として「誰」になることができるのです。