アドルフ・ヒトラーといえば20世紀の前半、ヨーロッパの近隣諸国を侵略し、600万に及ぶユダヤ人を殺戮した稀代の大悪党ということでその評価は終わりになることが多い。
もちろん、なぜ彼のような存在が現実に一国の独裁者として成り上がり、上記のような大変なことをしでかしたのかということについての研究などはかなりある。
例えばハンナ・アーレンとは、その著『全体主義の起源』でナチズムが現れた要素を歴史的な経緯やそれを準備した思想的な背景とともに詳しく分析している。と同時に、この書で彼女は、スターリン統治下のソビエトロシアもまた全体主義のひとつの形態であるとして摘発している。
私たちはそれらの否定的な研究吟味を通じてナチズムやスターリニズムの全体主義について追体験的に学習することができるし、私もまたそのようにしてある程度学んできたつもりだ。
しかし一方、その全体主義の渦中にあった主要人物の主張や見解をその人物の言葉として学ぶ機会は意外と少ない。
私自身の経験で言えば、若いころ(あゝ、もう60年ほど前のことだ)スターリンの著作、例えば『弁証法的唯物論と史的唯物論』などという往時の左翼にとっては必読的な聖典ともいうべき書に接したことはある。チャート的にまとめられたそれは、わかりやすく箇条的に暗記すらできるものであったが、それだけに薄っぺらなもので、それ自身、形而上学的教条主義の典型のようなものであった。ついでながら、毛沢東の『矛盾論・実践論』もその手に属するものだ。
もう一方のヒトラーのそれに対しては、私はほとんどというかまったく接したことはない。その主著といわれ、往年のナチズムの聖典ともいわれた『わが闘争』についても未見である。
この稀代の人物が自分の思想形成並びにその思想内容について語ったこの書はやはり一度は目を通す必要があるのではないかと思い、このたびそれを入手した。要するに彼の思想を内在的に検討してみようということである。
ただし年内は読むべき書が山積しているし、その他にも課題を抱えているので、この書と本格的に向かい合うのは来年ということになろう。
その折、もし、この書に書かれた事柄に対してちゃんと批判的に対応しきれない場合には私はヒトラーの軍門に下り、ネオ・ナチズムの日本における担い手になるかもしれない。来年、出会った折に、ナチス式敬礼をするようだったら、そうなったと思ってほしい。
鬼がでるか蛇が出るかそれは読んでのお楽しみである。
そして、こうして公言する以上、ちゃんと来年まで生き延びる必要がある。ただし、こうして宿題をドンドン溜めながら、それらをきちんと捌くこともなく、だらだらと生き延びてきたのだから、実際にはどうなるかわからない。
この歳にしてアドルフ・ヒトラーと正面から出会うことは多少わくわくすることではある。
来年のいつ頃になるか分からないが、読了した折にはまたその報告したいと思う。
*なお、同書は、ドイツにおいては2014年に学術研究用に出版された以外、一般には出版は事実上禁止されている。
【おまけ】
Macに音声入力があるというので、それを使ってみた。些細な件ではかなりミスがあるなそれらをこまめに直せばある程度使えると思う。
これも実はその音声入力で部分的に書いている、書いているというよりも喋っているといったほうがいいかもしれない。
もちろん通常の入力のように改行や句読点を入れることもできる。なんとも便利な方法があるものだ。
ただし、これに話しかける場合には明瞭に発音する必要がある。ありがたいことには声の美醜、要するに良し悪しはほとんど関係ないないようで、私のこの悪声でも十分に入力が可能である。
もちろん私の雨だれのようなポチポチとしたタイピングよりもこのほうがはるかに速い。
漢字ヘの変換も同時にやってくれて、しかも特別面倒な単語でない限り、ほぼ正しい変換が行われることだ。
ただし、やはり入力は日常言語の短いものに限るようだ。専門的用語などは随分怪しげなものになってしまい、ほとんど事後的に入力しなおさなければならない。しばらくはその使用のメリット・デメリットを確かめながら様子を見たい。
もちろん、なぜ彼のような存在が現実に一国の独裁者として成り上がり、上記のような大変なことをしでかしたのかということについての研究などはかなりある。
例えばハンナ・アーレンとは、その著『全体主義の起源』でナチズムが現れた要素を歴史的な経緯やそれを準備した思想的な背景とともに詳しく分析している。と同時に、この書で彼女は、スターリン統治下のソビエトロシアもまた全体主義のひとつの形態であるとして摘発している。
私たちはそれらの否定的な研究吟味を通じてナチズムやスターリニズムの全体主義について追体験的に学習することができるし、私もまたそのようにしてある程度学んできたつもりだ。
しかし一方、その全体主義の渦中にあった主要人物の主張や見解をその人物の言葉として学ぶ機会は意外と少ない。
私自身の経験で言えば、若いころ(あゝ、もう60年ほど前のことだ)スターリンの著作、例えば『弁証法的唯物論と史的唯物論』などという往時の左翼にとっては必読的な聖典ともいうべき書に接したことはある。チャート的にまとめられたそれは、わかりやすく箇条的に暗記すらできるものであったが、それだけに薄っぺらなもので、それ自身、形而上学的教条主義の典型のようなものであった。ついでながら、毛沢東の『矛盾論・実践論』もその手に属するものだ。
もう一方のヒトラーのそれに対しては、私はほとんどというかまったく接したことはない。その主著といわれ、往年のナチズムの聖典ともいわれた『わが闘争』についても未見である。
この稀代の人物が自分の思想形成並びにその思想内容について語ったこの書はやはり一度は目を通す必要があるのではないかと思い、このたびそれを入手した。要するに彼の思想を内在的に検討してみようということである。
ただし年内は読むべき書が山積しているし、その他にも課題を抱えているので、この書と本格的に向かい合うのは来年ということになろう。
その折、もし、この書に書かれた事柄に対してちゃんと批判的に対応しきれない場合には私はヒトラーの軍門に下り、ネオ・ナチズムの日本における担い手になるかもしれない。来年、出会った折に、ナチス式敬礼をするようだったら、そうなったと思ってほしい。
鬼がでるか蛇が出るかそれは読んでのお楽しみである。
そして、こうして公言する以上、ちゃんと来年まで生き延びる必要がある。ただし、こうして宿題をドンドン溜めながら、それらをきちんと捌くこともなく、だらだらと生き延びてきたのだから、実際にはどうなるかわからない。
この歳にしてアドルフ・ヒトラーと正面から出会うことは多少わくわくすることではある。
来年のいつ頃になるか分からないが、読了した折にはまたその報告したいと思う。
*なお、同書は、ドイツにおいては2014年に学術研究用に出版された以外、一般には出版は事実上禁止されている。
【おまけ】
Macに音声入力があるというので、それを使ってみた。些細な件ではかなりミスがあるなそれらをこまめに直せばある程度使えると思う。
これも実はその音声入力で部分的に書いている、書いているというよりも喋っているといったほうがいいかもしれない。
もちろん通常の入力のように改行や句読点を入れることもできる。なんとも便利な方法があるものだ。
ただし、これに話しかける場合には明瞭に発音する必要がある。ありがたいことには声の美醜、要するに良し悪しはほとんど関係ないないようで、私のこの悪声でも十分に入力が可能である。
もちろん私の雨だれのようなポチポチとしたタイピングよりもこのほうがはるかに速い。
漢字ヘの変換も同時にやってくれて、しかも特別面倒な単語でない限り、ほぼ正しい変換が行われることだ。
ただし、やはり入力は日常言語の短いものに限るようだ。専門的用語などは随分怪しげなものになってしまい、ほとんど事後的に入力しなおさなければならない。しばらくはその使用のメリット・デメリットを確かめながら様子を見たい。