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スーパーマンなどのヒーローもの、怪獣もの、ドンパチドカスカのジャンルはあまり私の鑑賞対象になることはない。
にもかかわらず、今回のものを遅まきながら観ようと思ったのは、観た人たちの間にじつに様々な解釈があることを知ったからだ。評論家や映画好きの一般の人までを含め、様々な人たちが様々な観方をしているようだ。たとえば、9・11になぞらえる人もあれば、3・11になぞらえる人もある。来るべき戦争、他国の攻撃、あるいはテロリストの跳梁になぞらえる人もある。
確かに、それらしい要素が散りばめられた映画ではあるが、その共通点はいわゆる危機管理、しかもそれを行う側の問題だということであろう。したがって、この映画には、政治家と官僚、自衛隊、メディアの情報屋などのほかは、逃げ惑う群衆が登場するのみで、一般市民やその日常性などはまったく出てこない。
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その前半では、私たちが日常経験しているように、誰がどこでどう支配しているのかが全く不透明なノウ・ボディ支配の体制の実態が内側から描かれている。
このノウ・ボデイの支配というのは、3・11の原発事故で直面した、いわゆる「原子力ムラ」の、「政・官・財・学・メディア」の混成からなる得体の知れない体制、誰が決断したのかもわからず、したがって誰も責任を取らないまま、ズルズルと現状維持の禍根が温存されるというといった状況にもみられるが、それと相似の事態がゴジラの出現に伴って、度重なる膨大な会議のなかで繰り返される。しかも、そのほとんどは前例を慮った形式的なものに終始するのだ。
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事態が変わるのは、その中心で仕切っていた首相以下11名の重要閣僚などが別の拠点に避難移行する途次で、ゴジラの放つレーザー攻撃で、死んでしまってからである。
あとを託された後継の首相代理は、一見、頼りなさげだが、それが幸いしてか、すべての実務面を、それぞれの部署から集められた「巨大不明生物特設災害対策本部(巨対災)」のメンバーに丸投げすることとなる。
そのメンバーを適切に表現するのが、取りまとめ役の森課長(厚生労働省医政局研究開発振興課長)が言い放つセリフだ。
「そもそも(君たちは)出世に無縁な霞が関の外れ者、一匹狼、変わり者、オタク、問題児、鼻つまみ者、厄介者、学会の異端児、そういった人間の集まりだ。気にせず好きにやってくれ」
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彼らはまさにその通り、相互に意見や情報を交換し、自由に発想し、もっとも可能性のある方法を探り出してゆく。それらは、日米安保条約や、昨年成立した集団的自衛権容認の安保法案を思わせる多国籍軍の思惑などを計算に入れながら実行されねばならない。
この怪獣ゴジラが成長し、拡散分裂する可能性すらあるという状況下、核兵器使用こそがもっとも現実的な作戦だとして最後通告のように彼らに突きつけられているからだ。
広島、長崎についで、今度は東京が原爆の対象になるかどうかの瀬戸際だ。
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これ以上詳細に述べると完全にネタバレになってしまうので控えるが、私の観方の要点は、上に述べた前半と後半を隔つもの、つまり、ノウ・ボディの統治による情報の伝達や実務的行動についてのもどかしさという前半から、実務者の相互協議方式によるプロジェクトチームによってこそ事態が掌握され打開への道が開けるという後半への変化にこそある。
ここでいうノウ・ボディの統治というのは、繰り返しになるが、誰と名指せる支配者、責任者がいないにも関わらず、厳然として所与の支配が貫徹し特定の体制が維持されるという事態である。もはや独裁者すら不要で、相互自主規制のような暗黙の了解のなかでことが進められる状況、そう、これこそが官僚制の極地なのである。
さきにみた、原発事故で顕になったいわゆる「原子力ムラ」の、「政・官・財・学・メディア」の混成からなる得体の知れない体制、これもまた官僚制そのものだったのである。
ただし、この体制は、ゴジラのようなまったき他者の出現に対しては為す術をもたない。さきの原発事故においても、原子力ムラがそのほころびを見せ、こんにちにおいても完全に修復はされていないように。
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だとするならば、後半にもっぱら状況と具体的に対峙する、「一匹狼、変わり者、オタク、問題児、鼻つまみ者、厄介者、学会の異端児、そういった人間の集まり」というのはある種の示唆をもたらしてはいないだろうか。
そう、真の変革ともいえる事態に対応しうるのは、複数の単独者たちによるいわば協議会方式ともいうべきものではないだろうか。彼らはイデオロギー的な同一性や倫理的キヅナで結ばれているわけではない。だから、お互いの顔色を読み合う自主規制の制約からも自由である。
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したがって、この映画は、ゴジラという危機によって反照されるノウ・ボディの支配としての官僚制と、それが崩壊したあとの協議会方式のコンミューンとの差異を示唆しているように思える。
というように観るのはやはり穿ち過ぎというべきだろうか。冒頭に書いたように、様々な観方があるなか、私のようなもって回った観方がひとつぐらい紛れ込んでもいいと思うのだがどうだろう。