ちょっと違ったコースでの散歩と洒落込んだら、あたりまえだが、ちょっと違ったものに出会った。
だがここで書くのはまったく違った話。
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過日、名古屋へ出かけ、プラットフォームで地下鉄を待っていた折のことだ。私の前にはベビーカーに連れ添った若い夫妻が。その二人の間から見えていたベビーカーの主、1歳になるかならぬかの子どもと視線が合った。待ち時間が退屈なのだろう、ややむずかり気味だった。
そこで私が、カッと目を見開いたらその子の視線が私の顔へ。ウンウンとうなずく素振りをしたら、じっと視線を外さない。
声に出さないで、「コンニチハ」と口元だけで言ったらとたんに相好が緩み、笑顔になった。
そこで今度は、両親の影に顔を隠し、しばらくして顔を出した。いわゆるイナイイナイバアである。その子は満面の笑みで応えてくれた。
二、三度繰り返したらついにケタケタと声に出して笑った。
この時点で夫妻は「異変」に気づき、サッと振り返った。その折にはすでに私はすました顔をしていたのだが、子供の視線の先を見れば、そこに私がいるのは明らかだった。
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夫妻は、なにか得体のしれぬ汚らわしいものを見るかのように私を見つめ、わが子を保護するべく、私の視線を遮るようにサッと身体をくっつけた。親の警戒心がビンビンと伝わってくる瞬間であった。
間もなく電車が到着したが、私は彼らが進んだ方向とは逆の方に進み視線も合わせないようにした。降りるのは私のほうが先だったので、やはり視線を合わせないままに降りた。
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これだけのことである。
若い夫妻を非難しようとは思わないが、ちょっと可愛そうな気もする。彼らは、経験則からして、世間には悪意が満ちており、したがってそれとわが子とをシャットすることに専心しているのだろう。
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子育てもむつかしい時代になったといえる。
かつては、子どもは社会全体の共有財産のようなもので、近所のおばさんやおっさんが、わが子同様に子どもたちを甘えさせたり、ときには叱り飛ばしたりもした。いまではそれは「要らざる」干渉とされる。
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いまでは子育ても自己責任の時代である。
家族以外は基本的にその子に干渉しないし、家族も他者の干渉を拒否する。だから、私のような怪しいオジイサンとの関わりは、即、シャットされる。
悲しい現実だが、仕方がないのかもしれない。
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ところで、万国共通、子どもがイナイイナイバアで喜ぶ事態を、精神分析学者のフロイトはこう説いている。
それは、自分の親しい者(フロイトはそれを「母」とする)の喪失と再現のドラマだというのだ。「イナイイナイ」で失われた母が、「バア」でまた戻ってくる、だから子どもはそれを喜ぶ、というわけだ。
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「イナイイナイ」で去った者が、「バア」で戻ってくるのは、おそらく子どもの遊戯のみに許された世界なのだろう。
私の歳になると「イナイイナイ」で去った者たちは、もうそのまま戻ってはこない。
それどころか、自分がもう「イナイイナイ」に限りなく接近しているのである。
だがここで書くのはまったく違った話。
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過日、名古屋へ出かけ、プラットフォームで地下鉄を待っていた折のことだ。私の前にはベビーカーに連れ添った若い夫妻が。その二人の間から見えていたベビーカーの主、1歳になるかならぬかの子どもと視線が合った。待ち時間が退屈なのだろう、ややむずかり気味だった。
そこで私が、カッと目を見開いたらその子の視線が私の顔へ。ウンウンとうなずく素振りをしたら、じっと視線を外さない。
声に出さないで、「コンニチハ」と口元だけで言ったらとたんに相好が緩み、笑顔になった。
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そこで今度は、両親の影に顔を隠し、しばらくして顔を出した。いわゆるイナイイナイバアである。その子は満面の笑みで応えてくれた。
二、三度繰り返したらついにケタケタと声に出して笑った。
この時点で夫妻は「異変」に気づき、サッと振り返った。その折にはすでに私はすました顔をしていたのだが、子供の視線の先を見れば、そこに私がいるのは明らかだった。
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夫妻は、なにか得体のしれぬ汚らわしいものを見るかのように私を見つめ、わが子を保護するべく、私の視線を遮るようにサッと身体をくっつけた。親の警戒心がビンビンと伝わってくる瞬間であった。
間もなく電車が到着したが、私は彼らが進んだ方向とは逆の方に進み視線も合わせないようにした。降りるのは私のほうが先だったので、やはり視線を合わせないままに降りた。
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これだけのことである。
若い夫妻を非難しようとは思わないが、ちょっと可愛そうな気もする。彼らは、経験則からして、世間には悪意が満ちており、したがってそれとわが子とをシャットすることに専心しているのだろう。
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子育てもむつかしい時代になったといえる。
かつては、子どもは社会全体の共有財産のようなもので、近所のおばさんやおっさんが、わが子同様に子どもたちを甘えさせたり、ときには叱り飛ばしたりもした。いまではそれは「要らざる」干渉とされる。
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いまでは子育ても自己責任の時代である。
家族以外は基本的にその子に干渉しないし、家族も他者の干渉を拒否する。だから、私のような怪しいオジイサンとの関わりは、即、シャットされる。
悲しい現実だが、仕方がないのかもしれない。
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ところで、万国共通、子どもがイナイイナイバアで喜ぶ事態を、精神分析学者のフロイトはこう説いている。
それは、自分の親しい者(フロイトはそれを「母」とする)の喪失と再現のドラマだというのだ。「イナイイナイ」で失われた母が、「バア」でまた戻ってくる、だから子どもはそれを喜ぶ、というわけだ。
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「イナイイナイ」で去った者が、「バア」で戻ってくるのは、おそらく子どもの遊戯のみに許された世界なのだろう。
私の歳になると「イナイイナイ」で去った者たちは、もうそのまま戻ってはこない。
それどころか、自分がもう「イナイイナイ」に限りなく接近しているのである。