ガブリエル・マルクスの書はこれで三冊目だが、まだこの著者については捉えきれない面があって、確信をもって語ることはできない。
ただし、この書は中島隆博との対話ということで、概念の展開が続くという形はとらないので、比較的読みやすいとはいえる。
テーマは題名通り、「全体主義の克服」なのだが、 途中、形而上学的な側面への言及もかなりあり、ガブリエル・マルクスのよって立つ ところが見えたりもする。それは例えば、シェリング哲学からハイデガー批判、 それに意外にも中国古代哲学からの吸収もあったりして、その幅の広さに驚くのだが、それら形而上学的な問題についてはここでは触れない。
本書のタイトルに従って「 全体主義」に焦点を絞って見ていこう。
ガブリエル・マルクス(対談相手の本田も含めて)は、この21世紀の全体主義の危機について語る。そしてそれは、前世紀、20世紀における全体主義とはいささか状況が異なると指摘する。
いずれにしても、全体主義は公と私の区別が破壊され、全てが公のうちへと統合され ていくシステムであるが、20世紀の場合には、それが特殊な主義主張、ないしはそれを象徴する人物の独裁的支配のもとで 展開されることが多かった。例えばヒトラーのもとにおけるナチズム、スターリンのもとにおけるソ連邦のそれ、 そして天皇を中心にした日本の戦前のファシズム体制などである。
しかし、と彼らは言う。この21世紀の全体主義はデジタル化の進行により公的な領域と私的な領域の境界線が破壊されていくこの内にあると。
確かにデジタル化の進行は、諸個人の主義主張、趣味や欲望、その諸行動などの情報の一元的集約として実現されつつある。こうした監視・監督の具体的例は中国における今や3億台とも4億台ともいわれる監視カメラの設置、それによる諸個人の行動の軌跡の追跡可能性などに 顕著に見ることができる。
それはこの国でも、今年9月に開設が予定されているデジタル庁の設置によって加速されようとしている。
ようするに、この私たちは、自分固有の欲望に従って独自の行動を選択しているように思いながらも、その実、ネットなどの情報を通じた誘導に従った結果としての欲望に従い、それを追求するために予め敷かれたレールの上を、ひたすら走っているのであり、その行為の軌跡もまたデータに記録され、次に密かに与えられる「指令」にも反映される。
そうしたデジタル化全体主義を許したものはなにかが問われる。
近代は、科学技術によって神話的世界観は克服されたという「神話」によってスタートした。神話的な世界統一原理に、科学技術がとって代わったというわけである。
しかしである、そこからすべてが生み出される神話的「一」としての統合原理などがないのと同様、科学技術もまた、全てを生み出す「一」ではありえないのだ。
この点だけで言うなら、前世紀後半のポストモダンが既に指摘していたところであるが、G・マルクスはそのポストモダンがあらゆるものを相対化することによって、逆にある特殊なものを強調し、それに固執するようなそうした傾向を激しく批判する。
それは例えば、とてもショッキングなタイトルで注目された彼の書、『 なぜ世界は存在しないのか』などのいわゆる「新実在論」が支えているところである。
それを平たく言うことは困難だが、 事実は無限の錯綜した連鎖の絡み合いのうちにある。それらは私たちの観察の対象ではなく、私たちもまたそのうちにあるものである。確かにそれらの一部を取り出せば、 そこには反復がみられ、科学技術はそれら一部の反復に依存した方法に過ぎない。しかし現実の反復は単に同じものの反復ではなく、その都度何らかの差異を含んだものとしてある。ようするに、実験室のような完全な反復はリアルでもなんでもないのだ。
ようするに、現実は何らかの「一」から出発した体系ではなく、常にそれから逸れてゆく偶然性のうちにこそある。そうした偶然性の生起に開かれた立場こそが「全体主義」に陥らない立場といえる。
なぜなら、全体主義は「一」からなる原理原則に固執し、それに反して偶然的に生じるものを異端、ないしは魔女として暴力的に抑圧することで成り立っている。
こうして、21世紀の全体主義の様相と、それに対峙する私たちのありようが語られるのだが、それでは、実践的な面で私たちは何をなすべきかという点では、いささか心もとないものがある。
まずは政治の中立化が図られるべきであり、そのためには、学者や学問、大学が政治的中立を確保し、その立場から政治にコミットすべきだとする。
また、一方では大企業の倫理コンプライアンスチームの要員として哲学者が参加し、フェアトレードを実現すべきだともいわれる。
また、新たな望ましい市民宗教として、強力な哲学的思考と科学的思考を融合させたものが提唱される。
どれもまあ、実現すれば結構とは思うが、何かいまひとつインパクトに欠ける。
また、政治、経済、市民社会での哲学の覇権というイメージを考えると、なんとなく、プラトンの「哲人政治」を想起してしまうのは私の的はずれな感想だろうか。
まあ、いろいろ考えさせられる書ではあった。
なお、昨年の夏、ガブリエル・マルクスの『新実存主義』(岩波新書)を読んでいるが、その折のノートを読み返してみて、やはり、いささか消化不良であるといえる。
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