『カフェ・シェヘラザード』 アーノルド・ゼイブル 菅野賢治:訳 共和国
シェヘラザードはいうまでもなく『千夜一夜物語』の語り手の王妃である。
しかし、この小説では、語り手は複数であり、聞き手がマーティンという登場人物の中ではおそらく一番若い物書きである。
カフェ・シェヘラザードは、オーストラリアのメルボルンに1958年から99年にかけて実在したカフェであり、しかも、この小説の最初と最後に登場するこのカフェの経営者、エイヴラムとマーシャ夫妻も実在し、その他の語り手であるザルマン、ヨセル、ライゼル(カフェ・シェヘラザードの常連客)なども基本的には実在するのだそうだ。
「基本的には」というのは、この書はルポルタージュではなくあくまでも小説であり、したがって、それら登場人物は彼ら自身の経験と同時に、それを類型とする同時代人の経験をさまざまに重ね合わせたものだという。
すでに述べたように、カフェ・シェヘラザードは、オーストラリアのメルボルンにある。したがって、その周辺の情景描写はでてくるものの、物語の主な舞台はポーランドやリトアニアの都市、ヴィルニュスやカウナス、それに、シベリア、舞鶴、神戸、上海と広範囲に及ぶ。
リトアニアのヴィルニュス 旧市街
なぜこんなことになるかというと、このカフェの経営者や常連には、地理的、歴史的共通点があるからだ。その共通点とは彼らが、ナチスドイツ成立後の混乱のなかで、ポーランドやリトアニアに暮らすユダヤ人だったこと、そのそれぞれが身の危険を感じて命からがらそこを脱出したり、あるいは、現地にとどまり、パルチザンとして地下闘争を展開した人たちだからである。
カフェの経営者、エイヴラムはブンド(リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)に属したパルチザンの闘士で、ナチスドイツと果敢に戦うのだが、解放後は、ボルシェビキとの路線の違いからソ連当局からの抑圧を受ける身になる。
このあたりは、東ヨーロッパユダヤ人が「前門の虎、後門の狼」(あるいは、ヒトラーとスターリン)状態にあったことをよく表している。ナチスからの解放は、スターリニストによる粛清の始まりだったのだ。
注目すべきは、混乱の東ヨーロッパ脱出してきた語り手の二人が、それぞれ、リトアニアのカウナスにいた日本領事館の杉原千畝の発行したビザによって、シベリア鉄道から船旅で舞鶴にいたり、その後、神戸でのしばらくの滞在を経験していることだ。
そのうちの一人は、神戸で上演された日本人によるオペラ、ヴェルディの『椿姫』を観たと語る。いくぶん歌舞伎調に様式化されたその演出は、それはそれで魅惑的だったという。
神戸組はその後、上海に渡り、1941年12月の日本の正式参戦後の混乱を生き抜かねばならなかった。
様々な経路をたどり、彼らが辿り着いた先がメルボルンだった。そして、エイヴラムとマーシャ夫妻のカフェ、シェヘラザードがそのたまり場となる。激動の20世紀を生き抜いた東ヨーロッパのユダヤ人たちの終の棲家ともいうべき安らぎの場である。
その語りは、悲惨を絵に書いたようなものも含め、その安らぎを保証するカフェ・シェヘラザードにおいてこそはじめて語りうるものだったろう。
なぜそのカフェのネーミングが「シェヘラザード」だったのかは章を読みすすめるうちにわかるようになっている。
私のように固定した島国でコソコソと生きている人間にとって、亡命者にして漂流者、難民を生き抜いてきた彼らの人生はまさに地球規模の壮大な物語をなしている。しかし、読み終わったいま、彼らの織りなす物語は、私が生きてきた一見凡庸な物語の裏面に確実にはりついていたものだと了解することができる。事態は、常に、既に、グローバルなのである。
作者のアーノルド・ゼイブルはニュージランド生まれだが、その両親はポーランド系ユダヤ人で、やはり亡命者である。だからこの小説は、彼にとってもそのルーツを辿るような意義をもっていたことだろう。
いまは、この小説の舞台、メルボルンで、作家として、また人権派の活動家として著名であるという。オーストリア国内では五指に余る文学賞を受賞しているということだが、その内容はわからない。
なお、日本語訳はこれが最初だという。
当時の歴史的背景が多少わかっていれば、波乱万丈で読んでいてとても面白いのだが、少々お勧めしにくいのは、その価格が3,500円と小説にしてはいくぶん高いのだ。
私のように、図書館でのご利用をお勧めする。
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