永年の知己からその句集をいただいた。
句歴が長いことを知っていたので、はじめてだというのは意外だったが、そのあとがきでいきさつを知ることができる。
序文は彼の師ともいうべき黒田杏子さんが書いている。
その中で黒田さんは、この作者と、いまや「プレバト」など、TVでの露出度が高い夏井いつきさんを門下中の双璧として挙げ、東大寺法華堂の日光菩薩、月光菩薩になぞらえている。
で、そのうち日光菩薩が夏井さんで、この句集の作者は月光菩薩の方だというのが面白い。
その序文の中で、黒田さんは15句を選び、その各々に思うところを書いてる。もちろん俳人としての専門家の眼差しによるものだ。なるほど、そのように読みとるのかと首肯する点が多い。
一方の私はといえば、俳句の道には暗い。俳句の道にもというべきか。
しかし、私の今池(名古屋)時代に培った関係により、作者の日常を多少は知る者として、たとえ岡目八目ではあれ、感想に近いものを記すことは許されるだろう。それらをページを追ってみてゆきたい。
もちろん、評価などではなく、私の琴線に触れたかどうかの極めて主観的にして無責任なピックアップに過ぎない。したがってこれらは、先に触れた黒田さんの選とも、作者自身がその帯に載せている自薦とも異なる(もちろん、一部重複もある)。
破芭蕉捨て犬の子も捨てらるる
世襲を思わせて哀れでもあるが、捨てられてもなお健気に生きてほしいという願いも。
寒昴よき終焉を見届けて
これは黒田さんも高評価をしているようで、帯のまん中に据えている。黒田さんとはいささか異なるかもしれないが、私には最も胸に響く句である。
歳月という冥き穴蝉の穴
地中で過ごす蝉の歳月の比喩としてのわれらが歳月。
坂町を昇りつめたる朝桜
坂町のここが頂点春の月
坂町の頂点という点で共通している。ところで、坂町の頂点というのは達成感のみならずその特異点としての寂寞さをも併せもつ場所ではあるまいか。
天職の一生と想え石蕗(つわ)の花
この句集の題名がよってきたる句である。
自分の人生をある種の「本来性」のようなものから外れたものとして、疎外論的なルサンチマンに陥ることなく、「ウィ」といってひきうけるニーチェ的な生の絶対的肯定がみてとれる。
音もなく軍靴集合雲の峰
時事句を思わせる句だが、軍靴が、しかも音もなく集合するというただならぬ様子と、あっけらかんとした雲の峰の対比がいっそう不気味でもある。
鰯雲天動説に親しみて
これはいくぶんシニカルな句だと思う。いまや地動説は子供でも知っている。しかし、日常的なわたしたちの感覚は、陽が昇って沈み、星が運行し、雲が流れるなかに生きている。この相対性の面白さ。
永く深き昭和の闇を鉦叩
昭和に主軸をおいて生きてきた私のような人間にはグッと来る。昭和へのレクイエムは、同じすだく虫でも、やはり鉦叩のようにメロディのないリズムのみの音でなければならない。
梅雨深し亡きマスターの蝶ネクタイ
これはおそらく作者と私とが共通に知っていた人を偲んだ句であろう。蝶ネクタイがこのマスターの歩んだ清冽な人生をよく表していると思う。
無言劇観て帰り道細き月
実際の無言劇なのか、無言での人との出会いなのかはわからないが、その帰途に似つかわしいのは饒舌な満月ではなくやはり細い月でなければならない。
佳き酒と永き平和と桐の花
やはりこれでなくっちゃ。私が選んだ句はどうも訳ありっぽいものが多いが、これは素直に首肯できる。桐の花のもとでなくとも良いから、また作者と佳き酒など酌み交わしたいものだ。