(承前)
叔母の再婚相手が在日の人であることを知ったのは、私が40歳過ぎて実姉に再会したあとのことである。
私と姉は、叔母に会い、その家を訪れた。叔母の連れ合い、在日の彼、つまり私の義理の叔父にも会った。彼は亜炭鉱の炭住でも権威をもっていたように、親分肌の豪快な人物だった。ただしその折は、いまの私より少し若いぐらいの年齢で、もう現役を引退した好々爺風であった。
姉と私の訪問をとても喜んでくれた彼だったが、とりわけ私が、「あなたは総連系、あるいは民団系どちらだったのですか?」尋ねたときには、「お前、そんなことを知っているのか。もっとこっちへ来い」と、私を抱きかかえるほどの近くへ招き、酒肴を勧め、その経歴を話してくれた。
彼はいろんな軋轢の末、民団を選び、引退まではこの地域の幹部を務めていたようだ。私と同じ年代の人で左翼を自称する人たちの間では、総連は左翼、民団は右翼という一般論が支配的だったが、スターリニズム批判を経過した私にはそんな評価は無縁であった。
日本敗戦後、在日の人たちはただただ勝ち誇ったようだったと語る人たちがいるが、そんな単純なものではない。日本の敗戦は同時に朝鮮半島の動乱の始まりでもあった。新たな朝鮮の出発を期して希望を胸に帰った在日の人たちが、チェジュ事件など思いがけぬ惨事に逢い、日本へ再入国したり、戦後、新たに日本へ亡命同然にたどりついた朝鮮の人たちも多い。
私は一応それらの事実を知っていた。それらが彼との間に共感を生んだのだろう。現役時代には、きびしい表情で過ごしたであろう彼が、私に対しては破格の笑顔で対応してくれたのをいまも思い出す。
姉と2回ほど彼と叔母の元を訪れたであろうか。やはり歓待してくれた。彼の訃報は家族主体の葬儀を済ませたあとに届いた。姉と私は、その四十九日に相当する日に彼の霊前に赴き、叔母や義弟、義妹の力になってくれたことを改めて感謝した。
これが、私と姉を外に出すことにより、継続した「家」の物語の顛末である。これはまた、実父の戦死などを含め、先の戦争が影を落とす物語でもあった。
再会して以降はできるだけ交流を保つようにした姉も亡くなり、いま、その末裔で私が連絡を取れるのは姉の娘たち(姪二人)と実父と叔母の間にできた義妹だけである。
毎年、5月の八十八夜、その年の新茶を贈ってくれるのが静岡県に住む姉の習いであった。それをいま、その娘、つまり姪が引き継いでいてくれる。
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