10月1日のことだが、7月以来久々に名古屋へ出た。
名古屋の友人から、チケットが一枚浮いたから来ないかというコンサートへのお誘い。「行きま~す」ということで急遽実現。
このコンサートはちょっと変わっていて、9月3日、那覇をスタートして北上し、12月25日の札幌をもって終了という、13都市、19会場でのリレー公演で、題して、「クラシック・キャラバン2021 クラシック音楽が世界をつなぐ」。
実は、名古屋での公演は既に9月14日の行われたものに次ぐ2回目なのだが、今回のものは、公演の形式も出演者もまったく違う内容であった。
今回のそれは、第一部は、それぞれの演奏者や歌手が、小品を2曲ほど演奏するもので、例えば、ピアニストの中野翔太は、ショパンの「幻想曲op49」と「練習曲 革命」を弾き、「ピアノの詩人」の部分というより「咆哮するショパン」を表現していた。
同じく第一部にはカウンターテナーの藤木大地が「からたちの花」と「落葉松」の二曲を繊細に歌い上げた。ファルセットなどを駆使してソプラノ並みの澄んだ歌声を響かせるカウンターテナーは、ラジオなどの媒体を通じては何度も聞いていたが、ライブでははじめてで、なるほど、こんなふうに表現するのかと納得した次第。
1990年代に観た映画「カストラート」を思い起こしたが、もちろん、カストラートとカウンターテナーとは根本的に違うし、表現の内容も異なる。
第二部は、サン=サーンスの組曲「動物の謝肉祭」で、もちろんポピュラーな曲である。しかし、一般によく聴くのはオーケストラ版のそれだが、今回はサン=サーンスが作曲直後、親しい仲間を集めて演奏したとされる楽器の種類や数に即した形式の演奏ということで、なるほど、彼はこんなイメージでこの曲を書き演奏していたのかと思わせるものがあった。
なお、彼は、こうした内輪での演奏後、自分の死後までこの曲全体の演奏を禁じたという。この曲が含む諧謔や風刺がもたらすある種の反発を恐れたのだろうか。
ただし、その禁忌から、「白鳥」のパートは除外された。したがって白鳥は「動物の謝肉祭」という組曲のパートとしてではなく、独立した小品として演奏される機会がもっとも多い。
サン=サーンスについての個人的な想い出は(といっても私が生まれる17年前にこの世を去っている彼に逢ったことなどないのだが)、2018年の夏、パリはサン=ラザール駅前のホテルに逗留した際、オペラ座界隈や、各種パサージュなどを散策し、夕方にたどり着いたのがマドレーヌ寺院であった。その周辺のちょっとモダンなデザインのベンチに腰を下ろして、まどろみゆく寺院周辺を眺めることとした。
なぜそれがサン=サーンスと関連するかというと、このマドレーヌ寺院こそかつてオルガニストの最高峰といわれる奏者を抱えていて、わがサン=サーンスはなんとここで1857年から77年までの20年間、その奏者の地位にあったのだった。
彼の交響曲第三番が、「オルガン付き」として親しまれているのはむべなるかなである。
マドレーヌ寺院は、パルテノン宮殿に壁を付けたようないわゆるコリント様式の教会で、ゴシックやロマネスクに比べるとその形状も装飾性も地味である。
しかし、どっしり安定したその佇まいは、どこか心落ち着かせるものがある。そういえば、同年、三日ほど滞在したロンドンのユーストン駅近くのセント・パンクラスニューチャーチもこのコリント様式で、滞在中、朝夕、この教会の鐘の音を耳にしたものだ。
マドレーヌに戻ろう。夕刻とはいえ、ヨーロッパの日暮れは遅い。ゆったりとした寺院の敷地の周りにはさまざまな人達がたむろしていた。子連れの女性がその子と戯れながら追っかけっこをしたり、ジョギングで寺院の周りを回る人、もっと本格的なランニングで汗を飛び散らして駆け抜ける人。おしゃべりな若人たちが戯言に笑いを交わしながらにぎやかに通り過ぎてゆく。
そして、私と同じように、それらをくつろいで観ている人・・・・。おっと、目の前のカップル(フランスだからAbekというべきか)がキスを始める。
そろそろ潮時と、腰を上げてホテルへの帰路につく。やがて夕闇が深みを増し始め、寺院周辺のカフェの灯りが色濃くなる。
ホテル近く、マドレーヌとは打って変わったプランタンデパートのロココ風の装飾が華やいでいる。
サン=ラザール駅のさまざまな時計をよじるように塔に設えたオブジェがライトアップで光っている。
あれあれ、脱線が著しいではないか。先般のコンサートと、三年前の夏の思い出が渾然となってしまった。
*写真、はじめの三点は先般名古屋伏見付近で撮した都市の夕焼け。
その他は、18年夏、パリで撮したもの。
【付録 今日の昼餉】
おそらく今期最後の冷やし中華…というより冷やしラーメン。