推理小説である。
一時期、といってもうずいぶん前だが、推理小説をよく読んだ時期があった。恥ずかしい話だが、自分でも書いたことがある。公表には至らなかったから、書いたうちに入らないが。
この中山七里のものについては、10年位前からちょっと集中して読んだ時期がある。どうしてかと言うと、この作者が岐阜の出身であり、この ペンネームも、木曽川の支流飛騨川の下呂温泉のやや下流にある景勝地をそのままとったものであるという地理的親近感(何という単純な)と、それにデビュー作が『さよならドビュッシー』であり、それに続くシリーズが、『おやすみラフマニノフ』、『いつまでもショパン』、『どこかでベートーヴェン』、『もういちどベートーヴェン』、『おわかれはモーツァルト』など、クラシック絡みのものを書いていたからである。
彼のものを読んだといっても、これらのクラシックシリーズ以外は読んでいない。だから、ここに挙げた書はその系列からは外れる。
にもかかわらずなぜ手にしたかというと、これを原作とし、21年に映画化された同名の作品が、第45回日本アカデミー賞の優秀作品賞(最優秀賞は『ドライブ・マイ・カー』)に選ばれるなど高い評価を得たからであり、今一つは、生活保護など社会福祉の書を読んでいたら、この小説への言及があったからである。
だから私は、この小説はを推理小説としての面と、その題材や舞台になっている生活保護などの福祉行政についての記述について面との二つの貌をもつものとして読んだ。
事件はこうだ。
仙台市青葉区福祉保険事務所の課長が失踪してから2週間後、空き家で死体となって見つかる。その犯行はは異常で、被害者の全身を拘束し、口をテープで塞いだまま放置し、何日もかけて脱水症状と飢えとで死に至らしめるものであった。
身につけた金銭には手がつけられておらず、当然怨恨の線が浮かぶのだが、この被害者の周囲の評価は極めて高く、人格者といえるものだった。
続いてもうひとり、今度は県会議員が同様の手口で死にいたるのだが、この議員もまた、県議のうちで随一といわれるほどの清廉潔白な人物だった。
実はこの殺し方のうちに、この連続犯罪の動機が見えるのだが、やがてそれは明らかになる。
小説は、その捜査陣と前半で早くも現れる犯人と目される人物が終盤で交わるという推理小説にありがちなプロットで進む。そのプロットに乗って読み進むのだが、推理小説を読み慣れている人は、この犯人と目される人物が実はそうではないこと、この犯罪に先立つ物語に登場する「もうひとり」の人物こそが疑うに値することに気づくであろう。
しかし、この過去の物語に登場する人物が、今の誰であるかを特定することはかなり困難であろう。
この人物の正体が明らかになる場面こそがこの小説のクライマックスであり、筆者得意のどんでん返しの完成の場面である。
これ以上は、推理小説を語る上でのマナーを超えてしまう恐れもあるので、やめておこう。
さて、この小説が描くもうひとつの面、この国の福祉行政、とりわけ最後のセーフティネットトモいうべき生活保護の運用に関する問題である。
生活保護はかつて激しいネガティヴキャンペーンに晒されたことがある。自公政権の担当大臣もが口火を切った不正受給追放の呼び掛けは、確かに一定の不正をあぶり出したものの、同時に、受給者そのものへの監視の視線を強化したり、それらの人へのいわれなき否定的視線を蔓延させた。
もともと生活保護は、資本主義社会の必然として、想像を超える貧富の差を生みだし、その一定層を生活不能な水準にまで陥れる自体を前提に、それらを補填するものとして共同体が実施する補正的再配分を試みるものである。したがってその対象者は、憲法25条を持ち出すまでもなく、このいびつな社会を補正するに必要な措置の受給者として、堂々と名乗りを上げる権利がある。
しかし、上に見たネガティヴキャンペーンは、受給者の肩身を狭くするのみか、新たに日々生み出されつつある受給可能な人々の申請そのものを足止めする要因として働いたのだ。
もちろん、申請者の可否は、然るべき機関、まさにこの小説の舞台となった福祉保険事務所によって審査され、適法性を獲得しなければならない。
この小説も、その生活保護の申請やその査定の問題を対象としている。そしてその審査そのものが、どちらかといえば窓口での拒否の方に力点が置かれていることを示す。
窓口での拒否の陣営は、申請条件、申請書類の煩雑性、それに、それらを適応する窓口役人の官僚的対応によって敷き詰められている。
そうした背景が、この小説にはかなりリアルに描かれている。食料の入手が不可能で、ティッシュペーパーを口にする老人すら生活保護の対象たり得ないのだ。そんな・・・・といってもしょうがない、それが法の定めるところだというのが窓口の言い分である。
しかし、この事態を役人性悪説に留めるとしたらそれは早計だろう。彼らがいかに自己犠牲的に尽くそうとも、そこには超えられない限界がある。福祉予算全体の枠組みである。
福祉は選挙公約の必須アイテムだが、それを掲げた連中が当選したところで、それが急速に充実した試しがない。一部で増額が図られたとしても、まさに雀の涙である。
それに比べて、軍事予算の増額の早いこと。専守防衛から先制攻撃可能葉の転換はあっという間に防衛費倍増への道を開きつつある。
限定された予算の中での運営、生活保護申請者への線引は、書類の不備、許容条件の厳密な適応たらざるを得ないのだ。
そしてそれが、新自由主義下の冷酷な現実なのだ。
現実には、勝者と敗者が必ずいる。
しかし敗者は自己責任である。
お情けのセーフティネットも敷いてあるだろう。
そのネットでも救われない?
それぞまさに自己責任だろう。
ティッシュでも食べるが良い。
ほのかに香料の臭いがして乙なものだろう。
と、まあこんなことなのである。
中山七里の作品をすべて読んだわけではない。 ただ、おそらくその作品の中では最も社会性に富んでいるのではないだろうか。
おそらく、これを読む人は誰ひとりとして容疑者や犯人を憎まないはずだ。
*一番上の本の表紙以外は、映画版のものを借用。
一時期、といってもうずいぶん前だが、推理小説をよく読んだ時期があった。恥ずかしい話だが、自分でも書いたことがある。公表には至らなかったから、書いたうちに入らないが。
この中山七里のものについては、10年位前からちょっと集中して読んだ時期がある。どうしてかと言うと、この作者が岐阜の出身であり、この ペンネームも、木曽川の支流飛騨川の下呂温泉のやや下流にある景勝地をそのままとったものであるという地理的親近感(何という単純な)と、それにデビュー作が『さよならドビュッシー』であり、それに続くシリーズが、『おやすみラフマニノフ』、『いつまでもショパン』、『どこかでベートーヴェン』、『もういちどベートーヴェン』、『おわかれはモーツァルト』など、クラシック絡みのものを書いていたからである。
彼のものを読んだといっても、これらのクラシックシリーズ以外は読んでいない。だから、ここに挙げた書はその系列からは外れる。
にもかかわらずなぜ手にしたかというと、これを原作とし、21年に映画化された同名の作品が、第45回日本アカデミー賞の優秀作品賞(最優秀賞は『ドライブ・マイ・カー』)に選ばれるなど高い評価を得たからであり、今一つは、生活保護など社会福祉の書を読んでいたら、この小説への言及があったからである。
だから私は、この小説はを推理小説としての面と、その題材や舞台になっている生活保護などの福祉行政についての記述について面との二つの貌をもつものとして読んだ。
事件はこうだ。
仙台市青葉区福祉保険事務所の課長が失踪してから2週間後、空き家で死体となって見つかる。その犯行はは異常で、被害者の全身を拘束し、口をテープで塞いだまま放置し、何日もかけて脱水症状と飢えとで死に至らしめるものであった。
身につけた金銭には手がつけられておらず、当然怨恨の線が浮かぶのだが、この被害者の周囲の評価は極めて高く、人格者といえるものだった。
続いてもうひとり、今度は県会議員が同様の手口で死にいたるのだが、この議員もまた、県議のうちで随一といわれるほどの清廉潔白な人物だった。
実はこの殺し方のうちに、この連続犯罪の動機が見えるのだが、やがてそれは明らかになる。
小説は、その捜査陣と前半で早くも現れる犯人と目される人物が終盤で交わるという推理小説にありがちなプロットで進む。そのプロットに乗って読み進むのだが、推理小説を読み慣れている人は、この犯人と目される人物が実はそうではないこと、この犯罪に先立つ物語に登場する「もうひとり」の人物こそが疑うに値することに気づくであろう。
しかし、この過去の物語に登場する人物が、今の誰であるかを特定することはかなり困難であろう。
この人物の正体が明らかになる場面こそがこの小説のクライマックスであり、筆者得意のどんでん返しの完成の場面である。
これ以上は、推理小説を語る上でのマナーを超えてしまう恐れもあるので、やめておこう。
さて、この小説が描くもうひとつの面、この国の福祉行政、とりわけ最後のセーフティネットトモいうべき生活保護の運用に関する問題である。
生活保護はかつて激しいネガティヴキャンペーンに晒されたことがある。自公政権の担当大臣もが口火を切った不正受給追放の呼び掛けは、確かに一定の不正をあぶり出したものの、同時に、受給者そのものへの監視の視線を強化したり、それらの人へのいわれなき否定的視線を蔓延させた。
もともと生活保護は、資本主義社会の必然として、想像を超える貧富の差を生みだし、その一定層を生活不能な水準にまで陥れる自体を前提に、それらを補填するものとして共同体が実施する補正的再配分を試みるものである。したがってその対象者は、憲法25条を持ち出すまでもなく、このいびつな社会を補正するに必要な措置の受給者として、堂々と名乗りを上げる権利がある。
しかし、上に見たネガティヴキャンペーンは、受給者の肩身を狭くするのみか、新たに日々生み出されつつある受給可能な人々の申請そのものを足止めする要因として働いたのだ。
もちろん、申請者の可否は、然るべき機関、まさにこの小説の舞台となった福祉保険事務所によって審査され、適法性を獲得しなければならない。
この小説も、その生活保護の申請やその査定の問題を対象としている。そしてその審査そのものが、どちらかといえば窓口での拒否の方に力点が置かれていることを示す。
窓口での拒否の陣営は、申請条件、申請書類の煩雑性、それに、それらを適応する窓口役人の官僚的対応によって敷き詰められている。
そうした背景が、この小説にはかなりリアルに描かれている。食料の入手が不可能で、ティッシュペーパーを口にする老人すら生活保護の対象たり得ないのだ。そんな・・・・といってもしょうがない、それが法の定めるところだというのが窓口の言い分である。
しかし、この事態を役人性悪説に留めるとしたらそれは早計だろう。彼らがいかに自己犠牲的に尽くそうとも、そこには超えられない限界がある。福祉予算全体の枠組みである。
福祉は選挙公約の必須アイテムだが、それを掲げた連中が当選したところで、それが急速に充実した試しがない。一部で増額が図られたとしても、まさに雀の涙である。
それに比べて、軍事予算の増額の早いこと。専守防衛から先制攻撃可能葉の転換はあっという間に防衛費倍増への道を開きつつある。
限定された予算の中での運営、生活保護申請者への線引は、書類の不備、許容条件の厳密な適応たらざるを得ないのだ。
そしてそれが、新自由主義下の冷酷な現実なのだ。
現実には、勝者と敗者が必ずいる。
しかし敗者は自己責任である。
お情けのセーフティネットも敷いてあるだろう。
そのネットでも救われない?
それぞまさに自己責任だろう。
ティッシュでも食べるが良い。
ほのかに香料の臭いがして乙なものだろう。
と、まあこんなことなのである。
中山七里の作品をすべて読んだわけではない。 ただ、おそらくその作品の中では最も社会性に富んでいるのではないだろうか。
おそらく、これを読む人は誰ひとりとして容疑者や犯人を憎まないはずだ。
*一番上の本の表紙以外は、映画版のものを借用。