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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「きりしま事件」と鶴彬(つる あきら)

2008-07-13 04:47:59 | 歴史を考える
 以下は、ネット上の別のところで、「和尚」さんというハンドルネーム(文字通り住職さんです)の方とのやりとりから派生したものを、独立した文章にしたものです。和尚さん、ありがとう。

    

 鹿児島での冤罪事件といえば、県会議員選挙を巡る違反事件のフレームアップが近年有名ですが、これを第二の「きりしま事件」という人たちがいます。
 では、第一のそれは何かというと、1943年6月、俳句同人誌「きりしま」の同人など37人が治安維持法違反で検挙された事件のことです。
 検挙の理由はというと、食糧難から馬肉を食す心境を詠んだ句を「厭戦的」と判断したり、
     
     熔岩に苔古り椿赤く咲く
 
 という句の「赤く」の言葉をことさらに取り上げて、共産主義の賛歌であるとこじつけたものでした。

 

 この第一の「きりしま事件」が、全くの濡れ衣であったことは今では明らかなのですが、これらの同人誌に目を通し、検挙成績を挙げるために勝手なこじつけを行い、検挙の指揮を自らとったのは当時の鹿児島県警察部特高課長であった奥野誠亮という男でした。

 この名前に聞き覚えはないでしょうか。
 そうです、戦後のどさくさでその責任を免れたこの男、戦後、国会議員となり、文部大臣や法務大臣を歴任しているのです。
 こんなところにも、日本の戦後処理が、たとえばドイツなどに比べ、全くいい加減であったことが示されています。
 ゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密警察)の要員とほぼ同様の位置にいた人物が、日本では、戦後、政権の中枢に位置するのですから驚きです。

    

 ところで、以上は俳句に関する弾圧事件ですが、川柳の方にも当時の治安維持法の犠牲者がいるのです。
 鶴彬(つるあきら)1909~38 という川柳作家で、当時の労働者の置かれた状況や反戦歌などを詠んだため、治安維持法で検挙され、獄中の病で、弱冠29歳で命を落としました。

 彼は、以下のような句を作っています。

 
 
   墨をする如き世紀の闇を見よ 

   重役の賞与となった深夜業
   もう綿くずも吸えない肺でクビになる
   みな肺で死ぬる女工の募集札

   つけ込んで小作の娘買ひに来る
   修身にない孝行で淫売婦

   旗立てる事が日本に多くなり
   人間へハメル轡を持って来い
   高粱の実りへ戦車と靴の鋲
   屍(しかばね)のゐないニュース映画で勇ましい
   手と足をもいだ丸太にしてかへし
   万歳と挙げた手を大陸においてきた
   胎内の動きを知るころ骨がつき
      (残された妻の胎児の話)

   暁をいだいて闇にゐる蕾
   地下へもぐって春へ春への導火線
   枯れ芝よ! 団結をして春を待つ

    

 今年は彼の没後70年です。
 来年は生誕100年で、映画化が企画されているようです。








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【フォトエッセイ】夏の緑・畑の緑

2008-07-12 00:10:26 | フォトエッセイ
 暇なわけではない。
 ほとんど毎日、半日を費やす往復にもいささか疲れてきた。
 どんよりとしたフィルターをかけられたような生活による圧迫感もある。
 こんなときには、何か生命感にあふれるものを目にして、心身共に和ませるに限る。

 歩いて5分ぐらいのところにある畑である。折から、夏野菜の緑がまぶしいほどである。もっとも、畑の緑は、自然そのものの緑に比べ、どこか優しげである。
 今の私にはそれが合っているようにも思う。

 

 アスパラガスの葉である。白い小さな花も付けている。
 アスパラガスはお尻にガスがついてるので、食べるとおならがでるというのは、高校生のときにやった演劇、田中千加夫・作「おふくろ」にあった台詞だ。
 半世紀前のつまらないことをよく覚えているものだ。

    
 
 トマトは野菜か果物かで論争があったと聞くが、変なことで論争するものだ。
 どっちだっていいじゃないかと思うのだ。
 これは、何でも言葉に当てはめねばならないとする人間の基本的な病気であろう。
 そういえば、何か事件が起こると知識人といわれる人たちがそれについてコメントを述べるのだが、そのほとんどは、既存の在庫から言葉を探し出して当てはめ、それでもってその事態そのものを克服できたかのように言い立てるものが多い。

 

 ゴーヤである。もっともっと大きな蔓になるはずである。
 かき分けてみたら、小指ほどの実を付けている箇所もあったが、写真には撮らなかった。
 葉っぱをかき分けてまで撮るのは写真としては邪道だし、ゴーヤも恥ずかしかろうというものだ。

    

 おいしそうな大葉である。色合いもいい。
 私の家にもあるが、すぐ虫に食われてしまって使い物にならない。
 口に入れるものだけに、殺虫剤を撒くのもはばかられる。
 何かいい方法があったら教えてほしいものだ。

 

 畑の横にあるレモンの樹に赤ちゃんがぶら下がっていた。
 この樹、秋になるとこんなになる。
 去年の秋に映した同じ樹を以下に載せよう。

    

 日は少し傾いたが、風もなく暑い。
 しかし、この暑さの中、野外で汗して働いている人もいる。
 鮮やかな緑に接して元気をもらったのだから、不平は言うまい。
 さあ、うちの草木たちにも水をやらなくては。


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与えられた30分と木曽川河畔

2008-07-10 01:02:26 | フォトエッセイ
 いつものように母の病室に行く。
 いない! 母のみではなく、ベッドごとなくてガランとした空間が残るのみ。
 不吉なものを感じてナースセンターへ。

 「あ、たった今・・」
 「え? たった今?」
 「レントゲンなどの検査のため別室へ移動いたしました。30分ほどしたらお戻りになるかと」

 30分ぼんやり待っているのもと思い、いつも母の病室から見ているだけの木曽川河畔にいってみる。
 この辺りを境に木曽川は下流域に入る。
 かつては伊勢湾から遡上してきたセイゴやボラが釣れたというが今はどうだろう。

 

 どっしりとした橋は、一昔前は名古屋・岐阜間の大動脈のようなもので、この上の道路は国道22号線であったのだが、別途バイパスが出来、最初は名岐バイパスと呼ばれていたそれが国道22号線に昇格するに及んで、ついにはこちらは格下げとなり、現在は県道14号線になってしまった。
 それはともかく、この厳つい橋はどこか郷愁をそそるものがある。

 

 河川敷を歩く。
 この辺は整備され、パターゴルフだろうかガーデンゴルフだろうか、その競技場となっているが、少し下流へ行くにつれ畑になっている。河川敷の畑も、どこかのんびりした趣があって好きだ。
 しかし、この辺も豪雨の際などには水没することもあるらしい。

    

 ところどころに河川敷からさらに川岸に降りる道がある。
 川で作業をする人たちや釣り人のためのものであろうか。
 あまり人が通わず、マムシが出てきそうな鬱蒼としたところは敬遠し、比較的開けたところを降りる。
 ここはちょっとした船着き場になっていて、複数の船が舫ってあった。

 

 そこから先ほどの木曽川橋を撮る。アングルのせいで先ほどより橋が優しい。
 橋の下にかすかに見える赤い鉄橋は、名古屋鉄道のものである。

 他にもところどころ船が繋がれているようだ。
 向こう岸は愛知県であり、一宮市になる。

 
 
 かつて、この対岸は「雀のお宿」といわれ、数万羽ともいわれる雀たちが集まるところだったが今はどうなんだろう。やはり、夕方には雀が集まってくるのだろうか。
 害鳥の駆除ということで、特別に許可を得てかすみ網で文字通り一網打尽に雀を獲ったという映像をテレビで見たのは何年前のことだろう。アウシュヴィッツを連想させるその映像は、こののんびりした風景には似合わない猛々しいものがあった。

 
 
 久しぶりに懐かしいところを散策したせいで、記憶の底が揺さぶられ、いろいろな思い出の糸が改めて繋がれてゆく。
 それらを反芻しながら病室に戻ると、4人の看護師さんたちにベッドを押され、母が検査から帰ってきたところだった。
 病室の窓には、私が散策した辺りとはやや下流の風景が広がっていた。

 

 



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【素朴な疑問】ネット時代のG8

2008-07-09 00:12:04 | インポート
 洞爺湖というところで、世界の偉い人たちが集まってG8という会議を開いています。
 いろいろな言説が飛び交っていますが、私も、世界のわずか14%を占めるにすぎない国の代表者が集まって、残りの86%をも含めた人々の将来を決めるのはいかがなものかと思っています。

 これらの国々が特に選ばれたのは、その経済力などでぬきんでているからでしょうが、要するに、現実の世界が激しい格差を生み出している中で、これらの国々が本当に底辺のところまで目配りをした判断をするでしょうか。
 たとえ、そうした素振りはあったとしても、自分たちだけ恵まれているのは何かと都合が悪いということで、若干の妥協をするに過ぎないのではないでしょうか。
 自分の国の権益を損なってまで貧しい人たちを救うことはまずないでしょう。

 それらの国々だけではなく、それ以外からも今回は中国とインドが招請されたといいます。
 しかし、この両国も、かつての「第三世界」を代表するというよりも、G8に限りなく近い実力を身につけたがゆえに招請されたのであり、やがてはG10になる候補者に過ぎません。
 従って、中国やインドに貧しい国々の代弁を期待するというのはとんでもないお門違いです。

 


 しかし、私の疑問はそんなことではありません。
 いいでしょう、G8もG10も認めましょう。
 でも、それはどうして一堂に会して行われなければならないのでしょう。

 今回の最大のテーマは、地球温暖化に対する対策で、そのための二酸化炭素の排出規制だといわれています。

 
 
 しかし、このサミットに費やされた諸エネルギーの総体、その準備過程で費やされたもの、諸外国からやってきた首脳の専用機だけでも20機といわれている大型ジェット機、会場へ向かう一国の代表の前後に二十台が走るという大名行列風の車列、そして、あらゆる点と線を結ぶ地点で待機する何千台という厳重きわまりない警備の車両、そこへと動員された日本全国からの警察官の大移動、くわえて全世界からの報道陣の襲来等々のエネルギー消費とそれによって排出される二酸化炭素の総量は、貧しい国々の年間の排出量を優に超えると思われます。

 この三日間の会議で、地球の未来に関する事柄が本当に討議され、決められると考えるのは愚かなことです。
 あらゆる首脳会議といわれるものがそうであるように、この会議についてもその水面下で実務担当者による何度かの摺り合わせが行われており、すでに発表さるべき結論は決まっているのです。

 

 従って、会議そのものはセレモニーに過ぎません。
 少なくとも、集まる前とは全く違う結論などは決して出るはずがないのです。
 せいぜい私たちは、それ以前の摺り合わせで、どこが優位に立ったのか、どこが苦汁を飲んだのかを、その首脳の表情で読み取るのみなのです。
 それすらも豪華な晩餐会の、まさに外交的な笑みによって打ち消されてしまうものなのですが。

 
 
 もういちどいいます、なぜこれほど膨大はエネルギーを浪費して一堂に会さねばならないのでしょうか。
 インターネットが世界中をカバーしその交流が可能な時代においてです。
 ネット会議で十分ではないでしょうか。
 それも公開の会議でいいのではないでしょうか。
 私たちは報道というスクリーンを経由することなく、世界の首脳の言動に触れることが出来るのです。
 そうすれば、準備過程や警備、来日の手間暇、報道陣の襲来なども全て必要なく、無駄なエネルギーを消費することもなく、また、いたずらに温暖化に荷担することもなくすむのではないでしょうか。

 
 
 二酸化炭素の排出規制を本当に考えるならば、世界の首脳を一堂に集めるというばかげた催しを止めることです。
 このセレモニーに使われる莫大な経費とエネルギー、排出ガスがある一方、一日、1万2千人のアフリカの人々が栄養失調で死亡しているというのが赤裸々な現実です。

 このG8ないしはG10は、そうした死にゆく人たちへの目配りを本当に持ち合わせているのでしょうか。
 会議は踊る、されど人々は飢え、そして地球は乾くのです。


昨日の遅い時間のニュースを見ていたら、G10 どころかG13という案も出ているらしい。
 そんな拡大案を見ていると、今度は別の疑問が出てくる。
 じゃぁ、国連って何なんだ。そういえば最近影が薄い。
 アメリカの一方的な武力行使を阻止しえなかった時点で、自らの生命を絶ったのだろうか。

 






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蕎麦たぐる 地軸傾く二、三寸

2008-07-08 00:22:20 | 川柳日記
    
       水のある風景 岐阜市加納天満公園 清水川

歩く
 こんなにも歩幅が違う人といる
 頑なに歩けば不意に海がある

 
     水のある風景  木曽川からの取水溝 笠松町
 
時計台
 わたくしの時計台には針がない
 振りまいた時を悔やんで時計台

 
       水のある風景 名古屋エンゼルパークの黄昏

麺類
 哀しみも絡み合ってる焼きうどん
 カップ麺底に残した白い月
 何はともあれ焼きソバに紅生姜
 蕎麦たぐる 地軸傾く二、三寸

 
      水のある風景  可児市 花フェスタ記念公園


 自画像に塗れない色が多すぎる
 もう戻れないこの色を塗ったから

    
      水のある風景 岐阜市荒田川 左前方が六のでた中学校
             もちろん当時は木造校舎


何でもない歌
 年輪の狭いところに住んでます
 つむじ風やはりここらが行き止まり
 立て板に流れる水を汲みに行く
 


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『ぐるりのこと』のぐるり

2008-07-06 04:32:01 | 映画評論
 気になっていた映画『ぐるりのこと』を観ました。
 ぐるりとは「周り」のことです。
 家族、親族、親子兄弟、職場、近所などなどです。
 もっと大きく輪を広げると、世間とか社会とかとの関係全体ということになるでしょうか。
 
 しかし、それがそれ自体として問題であるわけではありません。
 問題はそれと否応なしに関わらずにはいられない私たちの方にあります。
 少し難かしいいい方をすれば、私たち自身がそうした諸関係の総体なのであり、私たち一人一人は、それぞれ、その結び目のひとつなのかも知れません。
 従って、「ぐるりのこと」とはそうした周りでありながらその実、内面化された周りと私の関わりの話に他なりません。

 冒頭近く、週に三回のセックスを予定通り進めようとする若い奥さんの登場に、これはいささかパラノイック(偏執的)だなあと心配しました。
 彼女はけっして淫乱ではなく、「きちんとしなければ」が口癖の潔癖症なのです。

 周辺との関係を「きちんとする」という彼女の潔癖症は、それでも、普通の条件下では「きちんとした人」で済まされてゆきます。
 そのバランスが崩れるのは、子供ををなくすという悲劇に見舞われたことに依ります。

 
 
 その悲劇を抱えたまま「ぐるり」とうまくやって行くには彼女は繊細すぎます。
 それはある種の鬱症状とし、またあるときには自傷的な振る舞いとして、「ぐるり」との疎外感はいっそう深まってゆきます。
 要するに、自分が「きちんとしていなかった」からではないかという自責の念から逃れがたいのです。

 ここで、今まであえて述べなかったその夫である男性について触れねばならないでしょう。
 彼は幸いにして、彼女のようにパラノイック(偏執的)ではなく、逆に、どこか飄々としてこだわらない、悪くいえば芯の通らない、よく言えば抱擁力のある存在なのです。
 前半では、「きちんとしない」ことにより、彼女の批判の的であった彼が、後半においてはそのことによって、救いや脱出を支えることになるのです。

 

 
 彼がもし、彼女同様にパラノイックな潔癖症であったら、この関係は悲劇以外ではなかったでしょう。
 別に彼が偉いわけではありません。彼のその有り様そのものがよかったのでしょう。
 感情の起伏をあまり表現しない彼の、スケッチブックに描かれた子供への思いを知ることにより、彼女の中で再び何かが繋がり始めます。

 全く性癖を異にする(結果的にはだからよかったのだが)二人が、深いところで結び直される契機がここにあります。
 もちろん、話は一筋縄では行かず、紆余曲折はあるのですが、彼女は「ぐるりのこと」との関係の再構築を成し遂げます。

 物語はこうして、さしたるクライマックスもなく淡々として進むのですが、しかし、この映画では10年の歳月が流れているのです。
 脚本の優れている点は、二人の周辺に配置された人々の経過(たとえば、不動産業の兄)を挿入することにより、その「ぐるり」がきわめてリアルな歴史性を持つものであることを逃さなかったことです。

 さらにいうならば、その夫を法廷画家(TVなどで、法廷の被告をスケッチした映像が流れるあの画家です)に配置することにより、主人公たちの、そして私たちの、この間の歴史上の変遷をきわめて具体的に描いていることです。
 そこには様々な事件の被告が登場します。
 オウムを思わせるもの、池田小事件を思わせるもの、幼児連続殺人を思わせるもの、東南アジア女性を商品にしたセックス産業、政治家や官僚の収賄事件などなどがエピソード的にさりげなく登場するのです。

 

 こうした状況もまた、私たちにとっては「ぐるりのこと」なのです。
 主人公やその周辺が、そうした世間の変貌に直接対峙することはありませんが、にもかかわらず、社会状況のこうした変化は、彼らの、そして私たちの「ぐるり」を形成しているのは間違いないし、私たちのものを観る観方そのものを揺さぶっているのです。

 かくしてこの映画は、観方によっては20世紀から21世紀に及ぶヒストリーを背後に控えもったものともいえます。
 そしてそれが、この映画をやや硬質のホームドラマの域に留めることなく、広く普遍性を持った、そしてまた否定しがたいリアリティをもったものにしているといえます。

 おそらく、近年の邦画でのおおきな収穫ではないかと思うのです。

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私流「癒しの午後」

2008-07-05 03:22:33 | よしなしごと
 決めたんです。
 次にこれをして、それからあれをして、ということを一時ストップし、あれを書き、これを読みもやめて少しのんびりしようと・・。

 とりあえず、与えられた時間は三時間余。
 結局はいつものお気に入りの場所、県立美術館と図書館界隈の散策。

 

 まず美術館の庭園へ。
 暑い! 35℃近くはあるはず。
 でも、子供たちは元気です。

 
 
 親子三人のほほえましい風景に出会いました。
 野外の彫刻作品を挟んで、その間から「こんにちは」、「こんにちは」と呼びかけ合っていました。

 
 
 「<こんにちは>が見えたかい?」と訊くと
 「うん、見えたよ」との返事。
 いいなあ、子供には「こんにちは」がちゃんと見えるんだ。

 
            これは作品の一部です

 それからガラバッシャンギャン(私の勝手な命名・やはり野外作品)を見てから、いつか日記で紹介した定点観測の南京ハゼの樹へ。

 折から花盛り。栗と同じ匂いがします。
 写真を撮っていると、おばさんの二人組に「何の樹ですか?」と訊かれました。
 「南京ハゼといって、この実からは蝋が採れるのですよ」とこたえると、「ふ~ん」といってひとしきり一緒に樹を見上げていました。

 
    右が話しかけてきたおばさん 真ん中がバスを待つ女性

 「地味だけどよく見ると綺麗ね」
 そう、その感想が聞きたかったのです。

 樹下にはもう一人、物憂げにバスを待つ女性がいましたが、残念ながらその人とは話せませんでした。
 
    

 道路を渡り、図書館の庭園にはいると、またしても元気な子供たちが。
 今度は流れる水の中でいかにも楽しげです。

 

 こちらも一緒に入って遊びたいが、その筋へ通報されそうなので、図書館の中で涼をとることにしました。

 
 
 入ってしまうと結局はめぼしいものを借りてしまうことになります。
 かくしてまた「読まねばならない」ものを作ってしまったのです。
 
 私ってやはり、何かに縛られないと生きて行けないのでしょうか。

 

              責務への階段





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【お願い】SMAPの歌と金子みすず

2008-07-03 03:25:07 | よしなしごと
 どこかのテレビ局のディレクターかなんかが、酒場で「40過ぎてアイドルだなんてSMAPもキモイ」とか何とかいったのを、そこでバイトをしていた売れないタレントの女性がブログで暴露し、そのディレクターが処分されたとかされないとか、そんな話をしようとしているのではありません。

 しかし、せっかく枕に使ったのだからいわせてもらうと、ディレクターについていえば、そんな「キモイ」タレントにぶら下がって稼いでいるくせに外で批判を展開するなんて潔くないと思います。
 それに、40過ぎたらキモイなんて言い過ぎで、私なんか古稀に近いのに、よく街で、「郷ひろみの弟さんですか」と訊かれたりします。そんなとき私は、「いいえ、あれは私の叔父です。いつもお世話になっています」と答えることにしています。

 

 ブログに書いたという女性についても、飲食店で働く以上、そこでの客の会話を人物が特定できる形で公表するなんて決してしてはならないことです。完全な守秘義務違反ですね。そんな人は客商売に従事する資格はありません。

 ついでながら、悪口を言われたSMAPの面々が、そのとばっちりでネット雀の悪口の対象になっているのは気の毒という他はないですね。
 もっとも、私はこのSMAPというグループについては余り詳しくはなく、木村某という私によく似た人がいるという話を聞いたことがあるぐらいなのですが。
 (え? さっきは郷ひろみに似ているといったって? あんまり細かいこと覚えていると出世できませんよ。いいですか、郷ひろみは私の叔父、木村某は私の兄、それで良いのです)

 

 というようなわけで(どんなわけだ?)、べつにSMAPの悪口を言うつもりはありません。
 ただ、彼らが歌っていて最近よく耳にし、聞くところに依れば、音楽の教科書にも採用されるとかという歌の歌詞について感じたことを書いてみたいのです。
 
 題名は『世界にひとつだけの花』(詞:槇原敬之)です。
 この詞の主題は、冒頭に凝縮されているといって過言ではありません。
 
 「NO.1 にならなくてもいい もともと特別な Only one」

 これに引っかかるのは先日の日記に書いた差異と差別に関連するからなのです。
 あの日記で私は、差異が序列化されることによって差別が形成される経緯を書きました。
 もうひとつ、それらの差異そのものが実はさほど明確なものではなく、実はボーダレスなものに過ぎないとも書いたのですが、上の歌詞は一見それと似ているように見えます。

 「世の中にはいろいろ違いがあって、、それはそれで良いんだね」という言い分は今や一般化していてだれにでも受け入れられやすいものですね。しかし、私の先の日記は、そうした中で、なおかつ差別が形成される経緯を書いたのでした。

 

 さて、上の歌詞に戻りましょう。
 ここでも一見、差異が序列化されることに反対していて、それぞれの独自性が強調されているかに見えます。しかしです、私たちは本当に「NO.1・NO.2・NO.3~」の序列を拒否したところで、「Only one」になれるのでしょうか。この競争社会の中でです。
 下手をするとこれは、そうした序列化、あるいは勝ち組・負け組の対比の中で、負けてしまったものの慰めの歌でしかないのではないかとも思うのです。
 早い話が、花屋に並ぶ花はすでにして雑草と区分されていますし、園芸農家の選別の中でできの悪いものは抜き取られたり捨てられたりしています。そして、なおかつ花屋の店先では厳然として値札が付けられているのです。これが現実なのです。

 

 この歌詞は、それらに目をつむってはいないでしょうか。そうした、差異が厳然とした序列となる現実から視線を逸らせてはいないでしょうか。あるいは、それはそれとしていいのだといっているに過ぎないのではないでしょうか。
 「Only one」になることは悪いことではありません。しかし、それ自身は「NO.1」に遜色のない、いや、それ以上の努力を必要とするのではないでしょうか。

 マスコミの既存の報道をほとんど鵜呑みにし、周りと同じような商品を買いあさり、視聴率の良いTV番組で、テロップに従ってみんなが笑うところで「ワハハハ」と笑っているのでは「Only one」ではなくて、「one of them」にしか過ぎないのではないかと思うのです。

 「みんな違っていいんだね」は序列の中で敗残することの自己弁明であってはつまらないのではないでしょうか。それくらいならまだしも、序列化の中で徹底して戦った方がましだし、それがいやなら、序列化の構造そのものをちゃんと批判の対象にすべきではないでしょうか。



 先に述べた「みんな違っていいんだね」は、金子みすずの詩に似ていますね。
 事実、それを引いて、上に見た「Only one」の例証にすらしているものも見かけます。
 しかし、それを目にすると、私は呆れるばかりか、ある種の怒りすらこみ上げてくるのです。

 金子みすずの詩はこうです。

  「私と小鳥と鈴と」

   私が両手をひろげても、
   お空はちっとも飛べないが、
   飛べる小鳥は私のやうに、
   地面(じべた)を速くは走れない。

   私がからだをゆすっても、
   きれいな音は出ないけど、
   あの鳴る鈴は私のやうに、
   たくさんな唄は知らないよ。

   鈴と、小鳥と、それから私、
   みんなちがって、みんないい。


 
 確かに字面は似ています。
 しかし、金子みすずの「みんなちがって、みんないい」には、実は、血を吐く思いが込められていることを知るべきなのです。
 書店員の妻として一子をもうけながらも詩作を続ける彼女を、亭主は酒を食らっては陵辱し、よそで拾ってきた淋病をうつし、あまつさえ、彼女の唯一の希望であった詩作をも取り上げ、離婚に際してはその子供の親権をも奪い、ついには彼女を自死に追い込んだのでした。

 彼女の詩は、そうした伝記的事実の片鱗も見せない美しさで、まさに、「Only one」として輝いています。

 

 
 これを、先に見た「NO.1 にならなくてもいい もともと特別な Only one」と比べれてみばよく分かります。
 彼女は「もともと特別なOnly one」などでは決してなかったのです。彼女は、凡庸であることを強制されるなか、「Only one」になるために、まさに命を削り続けたのでした。
 それを、「もともと」の「Only one」、つまり「one of them」が、「そうだよね、みんな違っていいんだよね」というとき、彼女との違いは歴然としているといわねばなりません。
 私が先に、この二つの詩を一緒くたにする言説にある種の怒りすら覚えると書いたのは以上のようなわけによるのです。

 「NO.1 」を横目で見ながら、「私はもともとOnly oneだもんね」とのたまうのは許すとしましょう。
 しかし、お願いですから、それと金子みすずを一緒にするのはやめてほしいのです。

*この文章に、 游氣 さんという方から、若干の事実を補足したコメントをいただきました。
 それを勘案しながら、私自身のコメントも補足しておきました。併せてお読みいただければと思います。

 
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「差異」と「差別」と五人の殺人者

2008-07-01 03:55:02 | よしなしごと
 最近、差異について考えています。
 世の中にあるものたちはたいていというかすべからく差異をもっていて、そのおかげであるものが特定できたりします。だから、差異をなくしたら、私たちはある特定のものを取り出すことすら出来なくなるわけです。
 早い話が、私が私であるのは、私があなたではないからです。
 こんなあたりまえの事実でありながら、そうした差異ゆえに、抑圧や排除が行われてきたという事実があります。 
 
 たとえば人種や民族の差、職業の差、男女の差などにつき、人々はその差異に序列を付けるのが常でした。
 黒人や有色人種より白人が偉いとされ、同じ白人の中でも、ユダヤやロマは劣等とされました。肉体労働は頭脳労働の下僕であり、女性は社会的には一人前の人間としては認められませんでした。
 何も遠い昔のことではありません。それが制度として固定化されていたのはさほど昔のことではないのです。


 
    二階の窓からぼんやり外を見ていたらなにやら白いものが 
         木槿(むくげ)の花が咲いたのだ
    これから9月ぐらいまで私の目を楽しませてくれるだろう

 
 1945年以前、ナチスにとってはユダヤ人は殲滅の対象でしたし、1960年代まで、アメリカの南部では黒人は白人と同じバスにすら乗れませんでした。
 南アフリカの有色人種隔離政策(アパルトヘイト)が解除されたのは1990年代に至ってからなのです。
 職業については、「職業に貴賎はない」というきれいごとで、形だけの平等は歌われてきましたが、現在の日本やいわゆる先進国においては、3Kといわれる仕事はほぼ外国人に任され、その外国人を差別するという形が一般的なようです。
 
 男女間の問題については、日本で女性が初めて参政権を得たのは現行の憲法によるものであり、たかだか60年の歴史しかありません。さらに一歩突っ込んだ機会均等などについての実質はお寒い限りといえます。
 なお、日本の国会議員に占める女性の割合は10%台にやっと乗ったところで、明らかに低い水準であり、アジア、アフリカ諸国と大差ない(追い越されているところもある)し、さらには、宗教上の理由などで、極端に女性の人権が押さえられているアラブ諸国にも迫られているのが実情です。

 
               同じく木槿

 上に述べたような差異が差別に転じるようなことは、一見、次第に減少しつつあるように見えますが、実情はそれほど単純ではないようです。

 差異が差別に転じる要因はいろいろありますが、ひとつは単なる差異に序列が付けられることにあります。それらの序列は、伝統的な古い思考様式や、疑似科学などから素材を借り、単なる横並びの差異を縦並びの序列に編成します。
 序列の基準は様々ですが、現今においては、その人の持つ生産性のようなもの(それは獲得する貨幣量として換算されるのですが)が大きくものをいうようです。
 従って、肉体的にも精神的にも生産性を欠く人間は低いものとして、ある場合には邪魔者として隔離されたり管理の対象になります。

 そうした差異は本来はさほど歴然としたものではなく、ボーダーレスなものなのにもかかわらず、そこにはっきりした溝があるかのように考え、自分は常にその溝のこちらにいると思っている人がいます。しかし、その溝は決して確固としたものではなく、シチュエーション次第では、「こちらがわの」はずの私たちが、容易に「あちらがわ」に移行しうることがあるのです。
 心身の障害を持つ人や犯罪を犯した人も私たちと連続した、いわばボーダーレスな地点で共存しているのです。

 
     アイスクリームなどに乗ってくるミントの花です

 そればかりではありません。いわゆる「こちらがわのひと」や健常者(これってあまりいい言葉ではないですね)といわれる人がそのようであることは、一定程度の割合でそうでない人がいることによって、もっといえば、そうでない人を日々、再生産することによってそれが可能になっていることすらあるのです。
 現今のはやりでいえば、「勝ち組vs負け組」の図式がそれです。
 現在の世の中の仕組みが、必ず一定の負け組を生み出すことによって成り立っているとしたら、「勝ち組vs負け組」はいわゆる「自己責任」の問題ではなく、まさに構造の問題としてあると思うのです。

 
    この間載せたマサキに似ていますがこちらはモチノキの花

 それと関連するのですが、差別を固定して考える人は時間というものの作用を見ようとはしません。
 時間はかなり劇的に自分とそれを取り巻く状況を変化させます。
 まず状況の変化から見ましょう。ほんの少し前までは、男性が酔っぱらって女性を抱き寄せたりするのは宴席の戯れぐらいに思われていました。今では立派な犯罪行為です。
 街中をくわえたばこで歩くなんて風景もどこででも見られました。今や罰金刑です。

 状況が変わるばかりではありません。私たち自身が変わるのです。
 私はかつての職業柄、多くの人の相手をしてきましたが、結構親しく話を交わした人の中で五人の殺人犯を知っています。そのうち二人は、「あいつならやりかねない」と思われる人物でしたが、それとて、私が出会ったときにはすでに崩れていたのだと解釈できます。
 後の三人に関しては、「まさかあの人が」という人でした。
 後者のひとたちは、別に、悪い意図を隠していたわけではありません。本当に普通の人だったのです。

 そして、ここが肝心のところですが、後の三人はもちろん前の二人も含めて、自分がその当事者になる前には、世に報道される殺人事件を見て、「何もそんなことで人を殺さなくとも」と思っていたということです。
 にもかかわらず、彼らは殺人という行為へといざなわれたのです。

 
    花は地味でも蜜はうまいのだろうか。ミツバチがいっぱい

 私は別に、性善説をとなえようとしているわけでありませんし、彼らの倫理的責任を無視しようとしているわけでもありません。
 要するに、昨日まで「こちら側=人も殺さぬ人」であった私たちが、時間や状況の変化の中で、「あちら側=殺人者」へ転化する可能性はいくらでもあるということなのです。

 差異が差別へと転化する可能性についてのべるつもりがいささか脱線したようです。
 フランスのある哲学者は、「差異とは権力である」とか、「権力は偏在する」とかいっています。その意味は、権力とは、どこか私たちの外部にあって、一方的に私たちを抑圧してくるといったようなものではなく、差異があり、その差異に序列を付けるようなところでは、そしてそうする私たち自身がいるかぎり、権力関係は常にすでにあらゆるレベルで形成されつつあるということです。

 最初、これらとの関連で、SMAPと金子みすずに触れようとしたのですが、長文になりすぎるので次回に回します。










コメント (3)
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