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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私の戦争体験  夏~が来れ~ば思い出す~

2011-07-05 03:57:30 | 想い出を掘り起こす
 あるところで私の戦争経験に触れた文章に関し、若い方から「六は戦争を経験したのかや」というお尋ねがありましたので、それにコメントとしてお答えしたものに一部加筆し、改めて載せることとしました。

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 〇〇さん
 たしかに私は戦争を経験しています。
 天皇陛下のためには命を賭して戦えと叩き込まれていたにもかかわらず、恥ずかしながら生きながらえ、今日まで齢を重ねてまいりました。
 とはいえ敗戦当時、私は国民学校の一年生でした。

 しかし、齢6歳の少年にも軍国教育は容赦ありませんでした。
 校門の左右に奉安殿(陛下の写真が祀られていました)と忠魂碑(国家に殉じてなくなった兵士の碑)が立っていて、そこを通る際は両方に最敬礼をしなけれがなりませんでした。

 ある日、校門を通りすぎようとする私を外から友だちが呼んでいました。
 つい私は最敬礼を忘れてそこを通り過ぎました。しかし、校門近くにいた教師に見つかり、「お前は陛下や国のために殉じたひとをどう思っているんだ」と怒鳴りつけられ、体が吹っ飛ぶほどの往復ビンタをもらいました。わずか、6歳の子どもにですよ。

 しかし私は、まったく彼を恨みませんでした。それどころか己の至らなさ、陛下への忠誠心のなさを深く反省し、そうした己に自己嫌悪を覚え、さらに愛国少年たるべく自己克己を誓ったのでした。健気でしょう。
 
 集団疎開ではなかったのですが縁故疎開で大垣の郊外へ参りました。
 そこでなんども空襲警報を経験し、名古屋が燃え、岐阜が炎上するさまも見ました。
 そして7月29日の大垣大空襲では焼夷弾が私の疎開先の掘っ立て小屋近くに落下し、その小屋は半焼しました。
 私たちの入っていた防空壕は、その衝撃で半壊し、入り口が完全に塞がれたのを大人たちが必死になって手で土を取り除きやっと外へ出ることができました。
 正直言って死ぬかと思いました。

        
         炎上する岐阜市街 上方が長良川 中央下方が岐阜駅付近
         一夜にしてほぼ全市が炎上 人口の6割10万人が罹災


 それからあとは本土決戦が取りざたされました。
 私は真剣に一人一殺でアメリカ兵と刺し違える方法を考えました。
 とはいえ、私の武器は手頃な竹の先を尖らせた竹槍しかありません。
 物陰に隠れていて米兵が来たら急に飛び出て刺す、というのが私の密かな戦術でした。

 それから半月あまり、裸同然で遊びまわっている私を母が探しに来ました。「これから陛下様のラジオ放送があるから」というのです。
 白いシャツとズボンをはかされて、疎開先の母屋の座敷におかれたラジオの前に、一族郎党とそしてラジオがない近所の人達総勢20名ほどが集まって正座をして「玉音放送」なるものを聴きました。

 チューニングが難しい真空管のラジオの雑音の彼方から、人間離れをした声が聞こえてきました。漢語がいっぱいのその放送内容は、私のような子供はむろん、大人たちさえ何を言っているのかほとんどわからなかったようなのですが、ひとりのインテリ風の男が「戦争に敗けたんだ」と言いました。
 
 私はその男はアメリカのスパイに違いないと思いました。
 つい昨日まで、我が帝国陸海軍(空軍はなかった)は着々と戦果を挙げ、敵の反撃もあるものの「当方の損害は軽微なり」とその同じラジオは言っていたからです。 敗けるはずはなかったのです。
 誰かが「役場へいって確かめろ」と言いました。

 結果は周知のとおりです。
 そして大人たちの手のひらを返すような変節、金科玉条であった教科書に墨を塗った経験、「死ね」と教え、幼児にビンタを食らわせた教師が急に民主主義を説く不思議さ、などなどを体験しました。

 毎年、夏になると思いだすことですが長くなるのでこの辺にします。

       玉音にわれ関せずと蝉しぐれ  六

コメント (6)
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