ひとは想像を絶するような壮大な景観や現象を目前にすると呆然として言葉を失うことがある。
カントはそうした経験を「崇高」と名付けたが、たしかに峻烈な山岳や滔滔と落下する巨大な瀑布にはそうした崇高感がある。
最近の私の経験でいうと、なぜこれほどの海水がと思うほど次々に押し寄せる大津波の映像に言い知れぬ畏怖の念を覚えたじろいだのだが、これもまた「崇高」のうちに入るのだろうか。
テニスボールぐらいか
確かに想像を絶する自然の秘めたエネルギーをまざまざと見せつけられ、己の狭小さや人力が築きあげてきたものの脆さや儚さをいやというほど知らされたという点では崇高というべきかも知れない。
とりわけ、「絶対安全」の神話がもろくも吹っ飛ぶさまは、ひとの思い上がりが神威にけ散らされたかのバベルの塔を思わせるものがあった。
何百キロも離れた場所で、TVの映像で観ていてもそうだったのだから、直接体験された人々、それに飲まれていった人々の恐怖感はいかばかりであったろうかと今更ながらにして思う。
小指より細いのに一丁前にトゲトゲが
そんなこともあってか最近は、なにか威圧感のあるものには少なからず恐怖の念やうっすらとした不快感を覚えてしまう。それらは、ビルなどの過度の巨大さ、乗り物などの過度のスピード、交通量の過度の混雑、駅頭などの人ごみの過度の多さなどなどである。
それらは、私たち人類が作り上げてきたものであり、もはや後退不可能な現象なのであろうが、一度視野を違えると恐怖感を伴ってしか見ることができない。
年齢もあるかも知れない。
そんなものたちが何にもなかったゆったりとした時代、とりわけあの戦争で全てが破壊されてしまい、何にもなかった時代を知っているせいかも知れない。
ジュウロクササゲの赤ちゃん。一つの花から二さや。バレリーナみたい。
それから今日へ至る時代は私が成長し、齢を重ね、老年に至る過程であった。いってみればこの光景に私は寄り添ってきたのだが、それらが今日なにかよそよそしい威圧感として感じられてしまうのだ。
この威圧感は先に見た自然の巨大さによって感じるものとはまた違うもののようである。
まだお尻に花の痕跡が付いている
何の被害をも受けなかった私がいうのもおこがましいが、なにか震災後遺症のようなものがあるのかもしれない。書が読めない。何かに集中できない。いたずらに時間が過ぎ去りそれにいらいらしている自分がいるのだが、それらすべてが疎ましい。
結果として近所に残った僅かな自然や田畑を散策したりなどして、小さきものたちに出会い、自分のギスギスした神経をほんの少しだけ癒したりしている。
しかし、小さきものたちにレンズを向けている私の背後から、まだあれも出来ていないだろう、これもしなければならないだろうという声にならない責務のようなものがまるで津波の波頭のように迫っているのを私は知っているのだ。
塩がつく前のシオカラトンボか?
「生きてるだけで丸儲け」という言葉があるが、生きているだけで結構疲れるものである。
むかし、年寄りが、「早くお迎えが来ないものか」などと言っているのを聞いたが、自分もその年令に差し掛かったのだろうか。
などと思いフト目をあげると、まだまだ頑張っている諸先達が前を歩いていて、その背中が「若造のくせに何を泣き言を行っているんだ」と私を叱咤しているのであった。
カントはそうした経験を「崇高」と名付けたが、たしかに峻烈な山岳や滔滔と落下する巨大な瀑布にはそうした崇高感がある。
最近の私の経験でいうと、なぜこれほどの海水がと思うほど次々に押し寄せる大津波の映像に言い知れぬ畏怖の念を覚えたじろいだのだが、これもまた「崇高」のうちに入るのだろうか。
テニスボールぐらいか
確かに想像を絶する自然の秘めたエネルギーをまざまざと見せつけられ、己の狭小さや人力が築きあげてきたものの脆さや儚さをいやというほど知らされたという点では崇高というべきかも知れない。
とりわけ、「絶対安全」の神話がもろくも吹っ飛ぶさまは、ひとの思い上がりが神威にけ散らされたかのバベルの塔を思わせるものがあった。
何百キロも離れた場所で、TVの映像で観ていてもそうだったのだから、直接体験された人々、それに飲まれていった人々の恐怖感はいかばかりであったろうかと今更ながらにして思う。
小指より細いのに一丁前にトゲトゲが
そんなこともあってか最近は、なにか威圧感のあるものには少なからず恐怖の念やうっすらとした不快感を覚えてしまう。それらは、ビルなどの過度の巨大さ、乗り物などの過度のスピード、交通量の過度の混雑、駅頭などの人ごみの過度の多さなどなどである。
それらは、私たち人類が作り上げてきたものであり、もはや後退不可能な現象なのであろうが、一度視野を違えると恐怖感を伴ってしか見ることができない。
年齢もあるかも知れない。
そんなものたちが何にもなかったゆったりとした時代、とりわけあの戦争で全てが破壊されてしまい、何にもなかった時代を知っているせいかも知れない。
ジュウロクササゲの赤ちゃん。一つの花から二さや。バレリーナみたい。
それから今日へ至る時代は私が成長し、齢を重ね、老年に至る過程であった。いってみればこの光景に私は寄り添ってきたのだが、それらが今日なにかよそよそしい威圧感として感じられてしまうのだ。
この威圧感は先に見た自然の巨大さによって感じるものとはまた違うもののようである。
まだお尻に花の痕跡が付いている
何の被害をも受けなかった私がいうのもおこがましいが、なにか震災後遺症のようなものがあるのかもしれない。書が読めない。何かに集中できない。いたずらに時間が過ぎ去りそれにいらいらしている自分がいるのだが、それらすべてが疎ましい。
結果として近所に残った僅かな自然や田畑を散策したりなどして、小さきものたちに出会い、自分のギスギスした神経をほんの少しだけ癒したりしている。
しかし、小さきものたちにレンズを向けている私の背後から、まだあれも出来ていないだろう、これもしなければならないだろうという声にならない責務のようなものがまるで津波の波頭のように迫っているのを私は知っているのだ。
塩がつく前のシオカラトンボか?
「生きてるだけで丸儲け」という言葉があるが、生きているだけで結構疲れるものである。
むかし、年寄りが、「早くお迎えが来ないものか」などと言っているのを聞いたが、自分もその年令に差し掛かったのだろうか。
などと思いフト目をあげると、まだまだ頑張っている諸先達が前を歩いていて、その背中が「若造のくせに何を泣き言を行っているんだ」と私を叱咤しているのであった。