六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

太原・新幹線・北京・天安門・前門大街

2011-11-15 01:49:07 | インポート
 私の中国の旅もいよいよ大詰めになって来ました。
 往路の太原も復路の太原も到着は夜で出発は朝でしたのでそれら大都市(人口470万)をじっくり見る機会はありませんでした。
 車の窓から見たのみですが、片道5車線ぐらいの道路が縦横に走り、車が溢れています。

 かつて中国が紹介せれるときによく見た、イナゴの集団移動のような自転車の大群にはお目にかかりませんでしたが、自転車、バイクなど二輪車が夜になってもよく走っているのは事実です。二人乗りも当然のようです。 
 その二輪車が怖いのです。というのは数多いそれらの9割方は無灯火なのです。
 車を運転する立場になったらずいぶん怖いだろうと思いました。
 夜、食事などに出ましたが、歩いていても怖いものがあります。それらがいきなり暗がりから近づいてくるのですから。
 ただし、北京でも夜の街を歩きましたが、ここではそうでもないように見受けました。
 近代化への習熟度の違いでしょうか。

   
               これが天安門

 帰途、太原から北京へは新幹線でした(往路は飛行機)。
 太原駅でお世話になった通訳の温さんや、企画からあれこれの世話を全てしてくれたNさんともお別れです。温さんはもともと太原ですが、Nさんはこれからあのナツメの実る山の村、賀家湾まで帰るのです。
 本当にお世話になりました。おかげで生涯忘れがたい経験をすることが出来ました。
 別れは慌ただしかったのですが、感謝の意は通じたのでしょうか。
 この人達と別れていささか心細くもなりました。

   
          天安門広場に面した人民大会堂

 こちらの新幹線は身分証明がないと乗れないので、予め日本からパスポートのコピーなどを送って予約をとったものです。
 結論をいうととても快適でした。なめらかに滑るような運行ぶりで、時速は200キロ以内に抑えられているようでした。各車両ごとに乗務員がいてまるで航空機並みです。

   
         正陽門前楼とチンチン電車のコラボ

 北京西駅に着いたときにはもうすっかり陽が暮れていました。
 地下鉄にするかバスにするかで迷った結果、結局タクシー2台に分乗してホテルへ向かいました。
 夕方のラッシュ時とあってどこも大渋滞です。片道5車線の道路もびっしり車で埋まっています。
 なにがなんだか、どちらへ向いているのかもわからないまま夜の街を眺め、ホテルに着きました。
 もう一台の方は先についていて、そちらは51元、私たちの方は71元、はてなマークが頭をよぎります。

   
       北京の中華街 ではなくてこちらが本家本元

 ホテル近くの屋台に毛が生えたような所で夕食をとることとし、小籠包や餃子、その他の一品料理や麺類を頼んだのですが、出てくるのが早いこと、早いこと。
 メニューを指さすとサッと魔法のように料理が出てきます。
 うっかり、これにしようかなと迷ってメニューに指を這わせていると、それがもう出てきてしまいます。

 価格は実に安いのです。小籠包や餃子は小さい蒸篭に何個か入って5元(約60円)その他の単品でも高くて8元(96円)、ビールは4元(48円)です。
 かなり飲んで食べたのですが、日本円にして一人250円ほどでした。

 もちろん既製品ではなく完全な手作りです。私たちが食べている横で懸命に粉を練り上げていました。
 安いのは家族経営だということもあります。店の人たちがみんな同じ顔をしていてなんだか微笑ましく思えました。

   
            10元(=120円)ショップ

 翌朝、東京組は早い出発でしたが、私たち名古屋組は午後の便でしたので、私のたっての希望で天安門へ行くこととなりました。
 都市化されきった中心街はともかく、数々の歴史の舞台になったここだけは見ておきたかったのです。
 残念ながら故宮を見物するだけの余裕はとてもなかったのですが、天安門広場を抜けて正陽門に至り、その南方に広がる旧市内というか観光客目当ての商店街は見ることができました。
 この辺は中国各地からはもちろん、世界中からのオノボリさん(もちろん私たちも)が溢れていて、中国滞在の最終日にしてはじめてお目にかかった雑踏でした。

   
             前門大街商店街の雑踏

 かくして賀家湾村から北京に至るめまいのするような多様性や落差を見てきたのですが、それすらもこの広大な中国にとってはほんの一部にすぎないのです。
 帰国してもう10日経つのですが、攪拌された頭脳はなかなか元に戻りません。
 人間が生み出すこの多様な文明というもの、それらを絶えず変転のうちへぶち込む歴史という怪物、その前で自分がいかに卑小であるか、またこれまで、どれだけ少しのものしか見聞して来なかったかをまざまざと知った旅でした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

毛沢東が黄河を渡った。

2011-11-14 01:12:52 | 写真とおしゃべり
 旅の一日、黄河河畔の磧口という街のホテルに泊まりました。
 ホテルといっても日本の民宿程度ないしはそれ以下といっていいでしょう。
 一応、トイレは室内にありますが、風呂はなくシャワーのみで、そのシャワーのお湯の出が悪く、危うく風邪を引きそうになりました。

        
             私たちが泊まったヤオトン風のホテル

 ただし、ありがたいことにはこのホテルには電源のコンセントがあって、撮り貯めたデジカメの映像を持参したパソに移しメモリーを初期化し、カメラや携帯の充電をすることが出来ました。

 そのホテルのすぐ前が黄河です。
 この辺りでは、比較的上流部ということもあって、世界有数の大河という印象はまだありませんが、しかし、日本の大河をすでにして凌ぐものがあります。
 この川の向こう側は陜西省で、そこにはかつての抗日戦争の際の八路軍の根拠地、延安があります。そのせいで賀家湾村というなんにもない静かな山村が前線扱いにされ非道な攻撃に晒されたことはすでに述べたとおりです。

        
                黄河 向こう岸は陜西省

 この地は、毛沢東が黄河を渡ったことで知られているようです。
 単に川を渡ったというこということのみならず、それが現在に至る中国の歴史に繋がるという意味で、象徴的ではあります。

 彼が黄河を渡り陜西省から山西省へと至ったのは二度あるのらしいのですが、その一度は、抗日戦線の頃で、1945年より前のことです。
 二度目は、国民党との内戦にほぼ勝利した1948年のことです(中華人民共和国の成立は1949年)。

             
                毛沢東渡河地点のでっかいモニュメント

 磧口の近くの索達干村の渡河地点には、それを記念するでっかいモニュメントが建っています。ビルにすると数階分にもなろうかという高さです。
 そのとき毛沢東は「君見ずや黄河の水、天から来るを。奔流海に到りて復た帰らず……源はいずこなりや」という李白の「将進酒」という詩を口ずさんだのだそうです。

        
                毛沢東が泊まった家の門構え

 ところで、その毛沢東が泊まった家があるというので見てきました。
 磧口という街から少し離れた村なのですが、そこにかなり大きいヤオトン風の家があり、そこに泊まったのだそうです。
 この家、もとは地主か何か特権的な身分の人の住まいだったのだそうですが、その後の動乱のなかで彼らはどこかへ去り、今は普通の三家族がそこを分割して住んでいるようです。
 門構えに派手な飾り付けと、中にそれを説明する手描きの壁新聞の様なものがありますが、それらはともに古びていて、あまり人が頻繁に訪れる様子はなさそうです。多分、何日かに一組といった具合でしょう。

        
 横断幕様の告知の左下には「抗日本国」のための第一回の渡河が、そして右下には「全中国解放」の渡河が記されている


 ただし、磧口を中心にして黄河河畔一帯の大規模な観光開発のプロジェクトがが進行中ですから、それが進めばこの家も名所のひとつとしてさらにスポットライトがあたることになるでしょう。
 とにかくこの国では事態の進行がやたら早いので、10年もしたらアッという変貌を遂げているに違いありません。

 水一滴を惜しむ山の民の暮らしと、この滔々とした流れの対比はやはり印象的でした。そんなことを考えると冷たいとはいえ、シャワーの水が出るだけマシで、文句をいったらバチが当たります。
 山の村では一生風呂などというものに入らずに過ごす人がいっぱいいるのですから。
 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山西省李家山村ヤオトン風民宿にて

2011-11-11 23:33:58 | 写真とおしゃべり
 都市を離れての最初の宿泊は李家山村にあるヤオトン風民宿でした。
 ここへ行く道のりが大変でした。
 車でスイスイと思ったのが大間違い、道が危ういので人間は降りろとのことで急遽身の回りの物のみをもって歩き始めました。
 
 その道というのが幅三〇センチぐらいで、片側は断崖絶壁、一歩踏み外せばジ・エンド。山の落日は早く、辺りは次第に暗くなり心細い事この上なしです。おまけに、なんとその道も途中で崩れていて、石垣状の箇所を登って(若い人達に引っ張り上げられて)やっと安全地帯に。

     

     
       民宿へ着いたらもうすっかり日が暮れていました


 その証拠はありません。命がけの事態で写真を撮っている余裕など全くなかったのです。
 もっとコンディションの良い時に似たような危険な道を通りましたが、やはりその折も写真を撮る余裕はありませんでした。
 しかし、山の人たちはそんな道を天秤棒で荷物を担いで平気で歩きます。
 それを避けていては自分の畑へ行けないからです。

        
             ヤオトン民宿の食堂

 そんな訳で、民宿へ着くと同時にとっぷりと日は暮れました。
 大きな荷物は車に置いてきたので着替えもできません。着の身着のままなのですがどうせ風呂もシャワーもないのですからこれでいいのです。

 夕食です。
 大皿に盛られたものをとり合って食べます。
 ひと通り料理が出たところでいきなり真っ暗になりました。
 停電です。
 こんなことはしょっちゅうらしくて、3、4個の懐中電灯での晩餐になりました。
 二〇分ぐらい経ったでしょうか、たまりかねた私が胡錦濤主席に電話をして何とかしてくれといった途端に回復しました(嘘です。理由もわからず消え、理由もわからずついたのです)。

     
                並べられた夕食

 料理は可もなく不可もなくです。だいたい評価の基準がありません。郷に入れば郷に従うのみです。
 ただし、昼食を食べた山の村の食堂より、味は落ちるものの白菜などの野菜が多かったように思いました。この辺は黄河が近く、その河川敷で採れた野菜が手に入りやすいのでしょう。

        
             民宿の女将と隣りの老人

 食事中、Nさんがかつて取材をしたという隣に住む老人がやってきて本の贈呈式を行いました。その老人、1m近くもありそうなキセルを首から吊るし、美味そうにタバコを吸っていました。
 そして、貧しい若者が故郷を離れて出稼ぎに出るのを物語風にした二〇番までぐらいある長い歌を唄ってくれました。

        
            デザートはやはり乾燥ナツメ

 夜のトイレは怖いものがありました。
 部屋の外はもちろん、屋敷の外側にしかないのです。
 こんな所でも夜は門を閉め閂をかけますから、それを外して外へ出ます。
 門灯などはありませんからほとんど手探りで進み、細い紐を見つけなければなりません。
 それを引っ張るとやっと裸電球が灯るのです。
 下に開いた穴に落っこちないようにその淵に敷かれたブロックのようなものに乗って用を足します。
 あいにくの曇りで月も星も見えず、真っ暗な夜でした。

 寝る場所はカンという日本の床の高さの倍以上のところに敷かれた布団で寝ます。着の身着のままでその上から布団を被って寝ました。

     
            朝の民宿 右の部屋で寝た

 朝起きて辺りを散歩しました。
 夕べ着いたときには辺りの家々にまったく灯りがなく、廃村状態かなと思ったのですが、何のことはないどの家も健在で、それぞれ山の畑などへ行く準備をしています。無駄に電灯をつけたりしないのです。

 夕べ遊びに来た老人の家に行って見ました。民宿からそこまではさほどの距離ではないのですが細くて急な坂を登り降りしなければならず、あの真っ暗ななかでの往復、慣れとはいえすごいなあと改めて感心しました。

     
  民宿の朝食 中央に積まれたのは饅頭 手前のカボチャのスープが美味しかった

 帰りも途中で車を降ろされ歩かされたのですが、昨日来る時とは別の安全な道があり、あの大冒険は一体何だったのかとはてなマークが頭の中で交錯していました。

 もう一回来るか問われれば微妙ですが、もっと気候がいい頃の晴れた日でしたらという条件付きで◯です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山西省 山の民の暮らしを覗く

2011-11-10 01:47:40 | 写真とおしゃべり
 短い滞在期間でしたからまさに垣間見たにすぎないのですが、その一端を写真を中心に載せてみたいと思います。
 
 もちろんもはや自給自足などではないのですが、自分たちで作れるものはすべて作る、利用できるものは徹底して
利用するという点で、私たちの生活に比べるとはるかに自給率が高いことはわかります。
 ある意味で自然の恩恵にいちばんよく浴している民だともいえます。

 あなたはここで暮らせるでしょうか?
 写真をよくご覧の上、ご判断を。


 この時期どこにでも見られる豆がらの山


 トウモロコシ 乾燥して粉にする これもどこにでも見られる


 唐辛子 寒い冬を乗り切る必需品であろう


 中央の数珠状はナツメ 唐辛子とのコラボ


 豆がら、唐辛子、トウモロコシのトリオ 左の大ザルにもご注目


 種を採ったあとのヒマワリ これも乾燥して燃料などに


 現役の石臼 周りに散らばる穂から見てアワを挽いたあとらしい


 これも違う方式の石臼


 炭鉱が近いせいで石炭を燃料にするところも


 積(ホントは石偏)口のヤオトン風ホテルの石炭置き場 ほうきの下の岩石状も石炭


 ヤオトンのトイレ 屋根壁なし 積み上げられたレンガ状も腰の少し上まで 手前は公道で
 もちろん人が通る 大も小もここ もちろん女性も 夜にはライトなどはない


 村で唯一の医者 西洋医学の心得もあるという


 廃校になった小学校の庭にある井戸(雨水を貯める)


 屋根の黄色いものはトウモロコシ 庭の丸い穴は傾斜をつけて雨水を貯める井戸 水はまさに貴重品


 あるヤオトンの水瓶 大→中→小と順次上澄みを移す だから小の水が一番きれい


 村長さんの家 上の白いのは山羊


 農耕用牛とオート三輪 黄河沿いの道ではもっと綺麗な運転席付きのオート三輪が大活躍


 穀物など食料を保存するザル 大きなものは2m超も 私も小さいのをもっている(自慢)


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

賀家湾村の戦跡 こんな山村でこんな悲惨なことが・・・

2011-11-09 01:07:30 | 歴史を考える
 これまで、風俗習慣としての山のお葬式や、全体の風景、そして山の民などを紹介してきましたが、いよいよ私たち日本人にとってはいささか耳の痛い話をしなければなりません。
 その確認こそ、今回の旅の私なりの目的のひとつだったのですから。
 それはすぐる日本と中国との戦争の話です。

  今回の旅そのものが、現地に住みついて当時を知る老人たちからの聞き語りをしてきたNさんの業績が認められ、歴史的資料として「東京大学東洋文化研究所」から刊行されたのを機会に、その書(中国語)を取材に応じてくれた人たちに配布して歩くのに同行するというものでした。

     
               日本軍が撃った銃弾の跡

  配布するといっても、隣近所にささっと配るわけではありません。
 一軒一軒がそれぞれ離れた集落にあり、途中までは車で行けても道路が崩落していてそこから先は険しい道を徒歩で辿るような行程です。
 おそらく距離にして半径何十キロ単位に及ぶものと思われます。
 それだけ、Nさんの取材対象が広範にわたり大変だったことが偲ばれます。

  事実、そこまで行ったけれどもう引っ越していなかったり(数年間にわたる調査ですから亡くなっていらっしゃる人もかなりいます)、アポを取るという習慣のないこの地では、せっかく行っても不在だったりした場合もありました。

     
            この山から谷越しに撃ったのだという

  それから、特筆すべきは、それらの人々はほとんど文字が読めないということです。山の民の写真で紹介した元教員だった人などを除いては、一定の年齢以上の人たちは無文字社会に暮らしてきたのです。
 それだけに記憶力は微に入り細に入り優れています。どこかへメモをしておくことなどできないのですから、ひたすら記憶する以外ないわけです。

  そんな訳で読めはしないのですが、その本に自分の写真が載っているだけで感激してくれるのです。
 こちらの人々は、写真に撮られることが好きです。
 当初、Nさんに、「写真を撮ってもいいですか?」というのはどう言えばいいのかと尋ねたのですが、「そんなものまったくいらない。写真機をもっているだけで向こうから寄ってくる」とのことでしたが事実そうでした。ただし、年配者はカメラを向けるとすぐ「気をつけ」の姿勢をしてしまいます。

  いろいろな人のいろいろな証言があるのですがその内から私自身が直接見聞したことのみを書きましょう。

  出発する前に、ここは日本軍による三光作戦(奪い尽くせ、焼き尽くせ。殺し尽くせ)が展開された地であると書いたのですが、それ自身が中国側のフィクションであるというコメントがありました。
 しかし戦闘はあったのです。
 なぜこんな山地にまで日本軍が大挙して押し寄せたかというと、黄河を挟んだ隣の陜西省の延安に毛沢東の八路軍の根拠地があり、この地域には民兵というゲリラもいたからです。
 ですから、こんなのどかな山村が八路軍相手の戦争では前線に近かったのです。

     
        村人273人がいぶり殺されたヤオトンの前で説明を聞く

  日本軍はそれまでも賀家湾村へ現れ、家畜を食料として奪うなどしていたのですが、もっとも大きな悲劇は1943年12月19日から20日にかけて起きました。
 19日、民兵の何人かが日本軍に手榴弾で抵抗し、村人が隠れていた元小学校のヤオトンから続く洞窟へと逃げ込んだのです。
 別の説明によれば、中国人(二人)が日本軍を手引きし、そこへ案内したともいわれています。
 そこには合計273人の村人が息を殺して潜んでいました。

     
      ヤオトンの奥にはさらに洞窟が続きそこに村人たちが隠れていた

  日本軍は出てくるよう命じましたが、出れば撃たれるので誰も出ませんでした。
 そこで日本軍はヤオトンの入り口に石炭の塊を積んで(このあたりは石炭の産地でもあります)、収穫後の綿の木を積み上げ、さらに大量の唐辛子(どこの家にもたくさん吊るしてあります)を乗せて火を放ったのです。

  20日、日本軍が去ったあと、他のところに隠れていた村人が駆けつけたのですが、結果として273名全員が燻し殺されていました。
 その遺体は見るも無残で、近親者すら恐れをなして近づけなかったといいます。

     
      この人の父が9歳の時とのことでうまく説明できず年長者に代わる

  このヤオトンの周りに集まった私たちに、村の人たちがこもごも説明してくれるのですが、あんなに柔和だった山の民も、さすがにこの時ばかりは毅然として、「私の親族は何人殺された」「私の家は〇人殺された」と口々に訴えるのです。 
 別のところでは、その折、ここに入ったもののまだ赤ん坊だったので、泣くと日本軍に見つかるからとそこから出されて助かったという人の兄弟に会いました。

  私たち日本人はただただ言葉を失ってそれらを聞いていたのですが、やがて、全員で一分間の黙祷を捧げることにしました。黙って瞑目していると、正面のヤオトンの中から当時の村人たちの阿鼻叫喚が聞こえてくるようで、何かがジンジンと体の中を巡る思いがしました。
 周りの山の民の表情が心なしか和らいだように思いましたが、私たちは重い足取りのままそこを去りました。

     
          今は入口部分は豆殻などの貯蔵に使われている

  戦争についての話はNさんの聞き取りによる優れたレポートがすでにあるので、あえて聞き出さなかったのですが、訪問する先々で断片的にそれを耳にしました。
 しかし、山の人たちは当時の日本軍と私たちとをほぼ完全に分離させて迎えてくれているようで、こちらが一方的に悲しい思いをしたことはありましたが、彼らから直接の非難など不快な思いをさせられたことは一度もありませんでした。

  こんな素朴な人たちがそんな悲惨に直面しなければならなかったなどとは信じがたいのですが、一方、加害者としての日本の兵士たちも日本では農山村の素朴な民であった可能性が十分にあるのです。
 かくいう私の父も、同じ大陸の満州に派兵されていましたから、ひとつ間違ってこちらに派遣されていたらその残虐行為に加わっていたかも知れないのです。

     
     日本なら記念碑の一本も建つのにと思いながら重い足取りて立ち去った

  前にも書きましたが、私は敗戦時、国民学校の一年生でしたから、前線でどんなことが行われていたかも知る由もなく、大きくなったら兵隊さんになって敵をやっつけるのだと素朴に覚悟を決めていた軍国少年でした。
 その頃、私と同じ年頃の少年や幼児があのヤオトンのなかでいぶし殺されていたのでした。
 
  この話には結論も落ちもありません。
 人間の世界では、そんなことが起こりうるということです。
 これから先の可能性も含めてです。
 そしてそこからが人間の智恵の働かせどころだとだけいっておきましょう。
 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山西省 山の人々 <付・北京にて>

2011-11-08 01:53:23 | 写真とおしゃべり
 こちらを出るとき、ちゃんと向こうの人に挨拶ぐらいはできるようにと、「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」などを覚えようとしました。
 そしたら、現地にいるNさんが、「そんなものはいらない。せいぜいニーハオで、それすらも必要がなく、にっこりするだけでいい」といわれました。
 それなら「百万ドルの笑顔」といわれた私のこと、大安心です。
 事実そのとおりでした。
 私の「百万ドルの笑顔」に相手は「二百万ドルの笑顔」を返してくれました。

      

 しかし中には泣かせてしまった人もいます。
 92歳の老人の一人暮らしで、私たちがそのヤオトンを訪ねた時、だれも居ないのかと思いました。しかし隅のほうで猫と寝ていた老人が、前に取材にきたNさんのことをかろうじて覚えていて、延々と涙混じりに語りかけてきました。
 私がそばに座ると私の手を握りながらしきりに話しかけます。
 通訳によると太原の人が綿入れを持ってきてくれたとかそんな話なのですが、それを堰を切ったように話すのです。
 
             
                       泣いてしまった老人 離れ難かった

 すぐとなりに息子さんが住んでいて、衣食住最低限のケアーをしてはいるのですが、それだけでも大変で、メンタルな面にまではとても無理なのです。
 下手をするとこの老人は、何日間も人と会話をしていないのかも知れません。
 目ももう見えず、耳もあやしいとのことです。
 立ち居振る舞いも杖にすがってやっと何歩かを歩けるくらいです。

       
          ヤオトン民宿の女将と隣のおじさん      元教員のインテリ 新聞や雑誌があった    

 これに比べたら、私たちが容易に使う「孤独」などという言葉はまったく贅沢なものです。
 握られた手を振りほどいて帰るにはつらいものがありました。
 不覚にも涙をしました。

       
      黄河河畔の屋台のお姉さん 手さばき鮮やか        親切に説明してくれ自慢のぶどうをくれた

 反面、天秤棒を担いだ、まだあどけなさが残る女性の笑顔にはずいぶん癒されました。
 しかし、この娘だって一つ前の写真を参照していただけばわかるように、かたや千尋の谷という崖の細い道を重い荷物を肩に運んでいるのです。

  
                                 この屈託のない笑顔が素敵
 
 この集落に住み、あのにぎやかな葬式で旅立ちたいという思いもあるのですが、それにしてはヤワな文明や技術に毒されてしまっている身、おそらく今回の旅ぐらいの期間が限度だと思います。

             
                この子たちが大きくなるときにはどうなっているのだろうか

       
            <おまけ・1> 天安門の衛兵       <おまけ・2>天安門見物に来た少数民族
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国山西省賀家湾村周辺の自然(?)と風景

2011-11-07 14:16:52 | 写真集
 タイトルに「?」を付けたのは、周辺全ての山の天辺まで耕かされている風景を自然といえるかどうかと迷ったからです。
 不幸にして滞在したすべての日は、どんよりとした曇りか小雨で、遠景は全て霞んでいます。望遠で引っ張った風景もくすんでいます。
 それが少し残念です。
 遠景に影のように見える山々も天辺まで耕かされています。
 まさに今なお機能しているマチュピチュを観る思いです。
 疲れていて文章がうまく書けません。

 とりあえず今言えることは、イデオロギーや思想などは人がプリミティヴに生きている状況については何も記述し得ないということ、そればかりかそれらの思想を必要としない人々にたいしてまで、そこから抽出されたという「歴史の法則」などを提示し続け、それによりその対象化された歴史という怪物がプリミティヴな山の民をも今まさに飲み尽くそうとしているということです。

 とりあえずは、賀家湾村周辺の風景を御覧ください。
  それら必要な記事は追って載せたいと思います。
 (二つのカメラで撮ったため、重複している箇所もあるかと思います)

     

     

         

     

     

     

     

     

     

     

         

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

         

     

     

     

     

     


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナツメの実る村・ 賀家湾村のお葬式

2011-11-06 03:58:01 | 写真とおしゃべり
 山西省の省都・太原から車で数時間、北へさらに数百キロ走れば内モンゴルかというところに賀家湾村があります。
 賀家「湾」というから水に縁があるところかというととんでもない話で、人々は庭に傾斜をつけ、雨水を井戸に溜め込み、その上澄みを使います。
 それでも足りないので、下から給水車が来ます。

 その村へ着いた途端、賑やかな楽隊の音が聞こえます。その音は遮るものがないまま、山々のてっぺんまで作られたすべての畑に届きます。
 お葬式なのです。

     
 この白い提灯はお葬式があるぞという知らせです。

     
 花輪は日本と似ていなくはありませんがはるかに色彩が派手です。

     
 黒い門のようなものは空気でふくらませたもので、葬儀が終わると空気を抜いて撤収します。

     
 楽隊が演奏しますが決してしめやかな曲ではなく、アップテンポのにぎやかな曲です。

        
 この人が喪主ですが、カメラを向けるとさっとこちらへ向けてポーズを取ります。

     
 楽隊が交代し、今度は女性の太鼓手の勇壮な演舞です。

     
 白い装束の人たちは遺族や親族です。

        
 これがお葬式があった家の装飾です。

     
 祭壇はしめやかというよりきらびやかな感があります。

     
 遺族や親族が村を一周します。

     
 楽隊もついてまわります。

        
 一方、山のほうでは遺体を埋める墓穴が掘られています。
 ここは綿畑の真ん中ですが必ずしも遺族の土地ではありません。
 この場所は風水師が決めます。
 この決定にはだれも逆らいません。逆らえば、今度自分の家族がなくなったとき埋める箇所がなくなるからです。

        
 黄土高原の土質は掘り進むには適しています。
 縦に2メートル以上堀り、さらに横穴を掘り、そこへ遺体を収めます。
 
     
 これはその近くにある少し前にできた墓で、綿畑の真ん中にあります。

        
 さらにこれは、100年以上と言われている墓です。
 (犬は案内してくれたNさんの愛犬「なつめ」です)

 こうした葬儀や墓作りの違い、それは多分、人の死生観(中国では生死観という)の違いでしょう。
 しかし、その違いがなんなのか、私にはそれを解析する能力はありません。
 ただし、村人たちの暮らしぶりを見ているとなんとなくぼんやりとした輪郭が見えてきます。
 
 それは例えば、土から生じ、土に還るということかも知れません。
 還ってゆく人に対してはもちろん愛惜の情は禁じ得ないのですが、一方それは、土と人とが循環してゆく摂理の実現であり、「ことほぎ」の一種であるのかも知れないのです。

 ほかにもいろいろ細々とした取り決めがあることを教えてもらいましたが、煩雑になるのであえて書きません。
 私も願わくばこのように葬られたいと思うのですが日本では無理でしょうね。

 


*現地のしきたりに詳しいNさんから、以下のようなコメントをいただきました。そのまま掲載します。
 
 「あの故人の写真を持っている人は喪主ではないのです。こちらでは喪主というのは日本のようにはっきり決まっているわけではなく、だいたいは子どもたちのうちの男性たちとか、男が少なければ女性も入るし、特に限定されるわけではなく、複数です。

 写真を持つのも、特に決まっているわけではなく、だいたいは男の内孫が、写真が持てるほどに大きければ(7、8才くらいとか)その子が持つし、孫がまだ小さければ息子の内の若い方が持ちます。場合によっては女性のこともあります。ここらへんの役割分担というのは、割合にいい加減です。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国最後の朝 北京から

2011-11-05 09:43:57 | インポート
 おはようございます。
 これから荷物を撤収して出発です。
 中国での最後です。
 二枚の写真を併記します。
 このめまいがするような落差が中国なのです。

 これに「社会主義国」という建前とスーパー資本主義という現実の落差がオーバーラップします。
 もっとじっくり整理をしてレポートをしたいと思います。
 それでは中国からはこれでおしまいです。
 再見!


       
                 太原空港前の広場

          
                 ヤオトンの佇まい
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナツメの実る村からの帰途に from 北京

2011-11-05 00:21:12 | よしなしごと
 ご無沙汰しています。
 3日間のナツメの実る村探訪を終えて、昨夜太原へ、そして今は北京です。
 5日早起きをして天安門広場を見て帰途につきます。
 ナツメの実る村ではネットは繋がりません。
 太原のホテルでは不安定で繋がったかと思うとすぐ切れてしまいました。
 この北京はエアーランで快適です。
 ただし、明朝(もう今日だ!)早いので、予告編の写真のみ。
 詳しくは帰国してから。


       

       

       

           

       

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする