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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

歯科医への往復と「小さい秋」

2012-11-08 00:53:24 | 写真とおしゃべり
 歯科医へ行きました。ここのところ、まる2年以上行っていません。
 それだけ歯が丈夫なのです。
 虫歯も子供の頃ろくすっぽ歯を磨かなかった頃にかかったきりで、成人してからは出来ていません。

                      
            ヒメツルソバとカラスノエンドウの共生

 どれぐらい丈夫かというと、もう時効だからいいますが、若いころ、数人を相手に浅蜊を殻ごと食べることができるかどうかを賭けて見事勝利し、なにがしかを稼いだことがあります。
 二年前にこの歯科医へ行ったのも、歯垢をとって掃除をしてもらうためで、別に痛んだりしたわけではありません。

          
             葉の長さ数センチのシダの紅葉

 今回行ったのは、さらにそれに先立つ頃に、硬さのあまり左上の歯が縦に割れて、それぞれがグラグラするので、その割れたものをくっつけ上から被せ物をしてもらったのですが、そのかぶせものが年月とともに緩んできたのを今一度固定してもらうためです。
 ですから、別に痛くも痒くもありません。

          
               カラスウリの葉の紅葉

 治療は、被せ物をとって、そこを乾燥させ、新たに接着剤を塗って、「ハイ、しばらく噛み締めていて下さい」で数分でおしまいです。
 あまりにもあっけないので、また歯垢をとったりしてもらうため、1、2度通うことにしました。

          
             鎮守様の境内で拾ったドングリ

 これにはもうひとつ理由があります。
 あまり行かないといっても10年以上のおなじみでしかもご近所(徒歩で数分)なので、先生とも顔見知りなのですが、今回、私の治療をしてくれたのはその先生ではなく若い人でした。
 それがその息子さんで今年からデビューしたのだそうです。

          
                アカマンマの群生

 今や大先生になった先生も一緒に治療しているのですが、院長の肩書きは息子さんに譲ったようで、その大先生から「今後ともよろしくお願いします」とわざわざ挨拶をされてしまいました。「ああ、やっぱりこれも家業なんだな」と改めて思った次第です。

          
             この季節でも元気なハルジオン

 で、とりあえずの治療は終わったのですが、やはりこの際は若い院長へのエールと、その腕前の程を見聞するためにも歯の大掃除を決意したわけです。
 もちろん、余分なカネを使うということではなく、そろそろケアーしておかないといくら丈夫な歯でも、歯槽膿漏などには要注意だからです。
 帰りには親子揃って笑顔で送り出してくれました。
 私の場合は、私自身が親の家業(材木屋)を継がず、また息子も私の家業(飲食店)を継がなかったので、そうした継承の味をまったく知りません。
 ですから、こうした跡継ぎをみて、素直に良かったなと思いました。

          
           これがズボンの裾などにくっつくと厄介

 先ほどいいましたように、わが家から徒歩数分の距離です。
 しかし町並みとは程遠い田舎道で、まず家を出ると両側が田圃で、角にアパートが立っている所を曲がるとまた両側が田圃で、しばらく行くと鎮守様があって、そこから昔の集落に入るのですが、梅林やマキの木の生垣などがあって昔の田舎家の風情を残したままの道なのです。

          
           わが家の鉢植えのナンテン 「タダイマッ」

 ここに載せた写真はその行き帰りに撮ったものです。
 まだまだこうした自然が残っているとはいえ、ここへ来た40年以上前に比べると、とてつもない変化を目の当たりにしてきました。
 でも、田園と住宅のまだらなこの地帯がけっこう好きです。
 何といっても、生涯10度ほどの転居のうちここが一番長く、人生の半分以上を過ごしたのですから。

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『私小説 from left to right』を読む(PartⅡ 完結編)

2012-11-05 22:23:07 | 書評
     
<承前> 
 これは私の偏見だが、私小説というものはプロットを欠いていて身辺雑記のようなことどもを文体だけで延々と読ませ、よって書き手の内面のようなものを忖度せよと強要されているようで、したがってこれまでほとんど読んではこなかった。
 
 しかし、この水村さんの小説は、真正面から「私小説」と銘打ったもので、事実シュチエーションとしてはたった一日のある女性の独白ともいうべき語りといえる。
 具体的には作者自身とおぼしき主人公とその姉との電話を通じての会話、そしてそこに挿入される様々な回想シーンから成り立っている。
 
 この姉妹は、父のアメリカ転勤などによって20年間にわたってアメリカに在住していて、当然のこととしてバイリンガルであり、しかも交友関係がアメリカを舞台としているとあって、二人の間での会話にも、そして他の人物との会話にも英語が出てくるのは必然なのである。そしてここに、それが横書きにされる必然性もあるといえる。
 
 彼女の日本語論からいって、それを英語に適用した場合、やはり英語でしか表現できないニュアンスがあるということだろうか。ただし、あくまでも日本語の小説であるから、すでに述べたように難解な英語は回避されている。

 さて、こうしたニューヨークの彼女の部屋での雪のある一日の、あえて出来事ともいえないことがらが記述されているのだが、それがまた、大変な時空の広がりを持った物語として紡ぎだされていて、その意味では私の偏見のうちににある「私小説」をはるかに凌駕しているといえる。

 彼女のうちで当初は日本とアメリカという軸で思考されてきたものが、アメリカ人から見れば、コリアンもチャイニーズも同様ということから、日本人としてのアイディンティティ・クライシスにいたり、やがては、東洋と西洋、白人と有色人種、さらには白人や有色人種内での差異などを「認識」(彼女の言葉)してゆくくだりは、身辺雑記をはるかに越えて、インターナショナルというかトランスナショナルというか地球大の広がりを持つに至っている。

 それらを混じえて、この物語では姉との間でのあるひとつの問題が進行してゆくのだが、その展開は限定された状況下にもかかわらずとてもドラマティカルで、次のページを捲るのに胸が騒ぐほどなのである。

 そうそう、私がこの本を手にするに至った動機、『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』という評論の中で彼女が述べていた日本語論が、彼女自身の小説のなかでどう作用しているかという好奇心の結末について触れねばならないだろう。
 彼女がその評論のなかで語っていたのは、日本語で書かれた「読まれるべき言葉」を読もうとする者はより日本語に習熟すべきだということであったが、なんとこの横書きの英語混じりの小説のなかで、彼女はそれを見事にやってのけているのだ。
 また、この小説のなかで志向されている「日本語で小説を書く」という決意の中にもそれを見ることができる。
 
 評論が書かれたのは2008年であるが、この小説はそれに先立つ13年前、1995年の刊行である。とすればその評論は、あらためての論述というより、むしろ彼女がその創作のなかで実践してきたことの集大成であり、しかもこの小説のなかで彼女が語るように、異国の地で日本の近代文学を読みふけり、日本語そのものを再認識し、しかもそれを内面の問題に留めるだけではなく、他の言語、民族、人種、歴史、文化との格闘のなかで練りあげてきた彼女自身の立ち位置を示すものであったといえる。

 しかもそれは、先にみたように実に広い視野によって支えられている。
 それもそのはず、彼女は、ポストコロニアル批評家ガヤトリ・C・スピヴァクなどと並んで、イエール大学でのポール・ド・マン(1919~1983)の教え子なのであった。
 この小説のなかで、「大教授」として登場するのがそのポール・ド・マンだと思われる。

 まだ言い足りないのだが、またまた長くなりそうなのでこのへんにしよう。
 あ、そうそう、この本にはところどころに堀口豊太氏の美しい写真が出てきて、英語混じりの文章で疲れた眼を慰めてくれる。
 
 それからこれはどうでもいいことだが、主人公の姉がブラームスの言葉といい張る「Lonely but free」は、ブラームスの友人ヨアヒムの言葉で、この言葉を主題とした「F・A・Eソナタ forヨアヒム」という曲がシューマン、ブラームス、A・ディートリッヒ(シューマンの弟子)の3人の合作で存在する。F・A・Eとはドイツ語で「Frei aber einsam」(自由に、しかし孤独に)のことである。

 これを読んで水村さんの他の作品も読みたくなったが、友人の「さんこさん」おすすめの『本格小説』は上下2巻で長そうだし、とりあえずは最新作の『新聞小説 母の遺産』(2012)でも読んでみようかと思っている。
 この小説は、女系三代のお話らしいが、その三代にまつわるエピソードの片鱗は、私が読んだこの『私小説』の中でもときおり示唆されている。

 彼女の小説は読みだすと面白くて止まらないようだ。他にしなければならないことがいっぱいあるのに困ったもんだ。


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『私小説 from left to right』 転向の話ではありません。

2012-11-05 02:17:58 | 書評
    

 久々に400ページ近い長編小説を読んだ。しかも、英和辞典を片手にである。
 とはいっても、別に英語の小説ではない。
 日本人の作家による、基本的には日本語で書かれた日本の小説である。それなのになぜ英和辞典が必要かというと、大部分は日本語表記の「漢字かな交じり文」なのだが、部分的には英語も混じっているからである。

 こう書くと読書人たちは、「ああ、あの小説か」といっせいに思いつかれるであろう。その通りである。
 『私小説 from left to right』(新潮社 1995年 のち新潮文庫、ちくま文庫)がそれで、作者は水村美苗さんである。
 この小説のツボは、サブタイトルにある「from left to right」にあり、ようするに、「左から右へ」横書きに書かれているということにある。これからすると、日本語の縦書の小説などは「from top to bottom」ということになり、本書の中でも、アメリカの少年が日本語の小説本を見て、そういうシーンが出てくる。
 そしてこの縦横の相違は、この小説のテーマというべき問題とも深く関わっていて、決して奇をてらったものではないことが了解されることとなる。
 
 若干の英語が混じるというのは上記に加えて、後述するようこの小説の内容そのものにもよるが、こうした横書きだからこそ可能だともいえる。縦書の日本語の文章に、英語がごちゃごちゃ混じったりしたら読みにくくってしょうがない。
 もっとも、混じっている英語といってもそんなに難しいものではなく、高校の英語あたりで十分読めるものである。ただし、私の場合はその高校英語も怪しいので、しばしば辞書のお世話になったという次第だ。

 You know what's so wonderful about driving alone?
 あなたもひとりっきりでドライブするってどんなに素晴らしいことか知ってるでしょう?

 と、まあこんな程度の文章で、ちなみに上の訳は私によるものである(間違ってたりして)。

 どうしてこんなややっこしい本を読む破目になったかというと、つい先般、図書館で見かけて興味を覚えた、やはり水村美苗さんの『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房 2008年)という長編の評論を読んだことによる。
 それについての感想めいたことは10月15日の記事で掲載した。
 その『日本語・・・』はで展開された日本語論はとても刺激的で、それを書いたひとが自分の小説でそれをどのように実践しているかを読んでみようと思ったわけである。

 それ以前に水村美苗さんを知らなかったわけではない。この『私小説』がでた折にもけっこう話題になったのを覚えているが、機会がなくて読まなかった。
 それのみか、彼女の日本でのデビュー作で、80年代末から『批評空間』に連載されていた『續明暗』の一回や二回は読んでいたはずなのだ(詳細は覚えていないが)。
 で、今回あらためて彼女の小説と向き合った次第なのである。

 まだ前置きなのに十分長くなってしまった。
 続きは明日にしようと思う。
 

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【晩秋の散策】写真展、そして美江寺観音と旧県庁舎

2012-11-03 16:57:38 | よしなしごと
 知人が出品しているという写真展を観にゆきました。
 その知人のものも含めて、皆さん上手いものです。
 対象の面白さ、アングルの面白さ、そしてなんといっても陰影の面白さ・・・なるほどと感心して見て回りました。

 受付の人と挨拶代わりに少し会話をしました。
 「これらの作品のうち、昔ながらの銀塩とデジの割合はどうなんでしょう」
 と、私。
 「そうですね、もう大半がデジですね」
 と、その人。

 そうか、銀塩でなければ写真展に応募できなかった昔とはすっかり様子が変わったのだ。
 私も出してみようかな。
 とはいえ、私は、デジと銀塩の二股派で、どこかへ出かけるときは2つのカメラを持って行ったりします。それが重いんです。

   
               内側から見た山門と私の守護仏     
 
 写真展を観て、夕方からの会合までに時間があるのを利用して、近くを散策することにしました。
 まずは美江寺観音です。
 説明によると、「養老3年(719年)、元正天皇の勅願により本巣郡十六条(現在の瑞穂市美江寺)に空海の師である勤操を開山として創設された」とありますから1,300年以上の歴史ですね。
 それが「その後、戦国期に至り、天文年間(1532-55年)、 斉藤道三が稲葉山城を築いた際に現在の場所に移し、 城下の鎮護に当たらせた」とあるから、この地(岐阜)へ来てからは500年ということになります。
 
 本尊の「乾漆十一面観音立像」は国の重要文化財ですが、一年に一度、4月18日にご開帳とのことです。
 そういえば、飲食業をしている頃、市場へ仕入れに行くと、「カンノン」という符丁は「18」を意味したことを思い出しました。「18日といえば観音様の祭日」というのが一般化していたのですね。
 ついでながら「テンジン」というのは「25」のことで、これは天神様、すなわち菅原道真の命日、3月25日によるものだそうです。

 脱線ついでですが、市場の符丁に桁はありません。18円でも1万8千円でも「カンノン」、250円でも2,500円でも「テンジン」です。その桁や単位は「ジョーシキ」で判断しろということでしょうね。
 こうして思い出すと、市場の符丁もなかなか粋で面白いと思います。

   
               ぼけ封じ観音 よろしくお願いいたします。

 話を戻しましょう。
 ご本尊よりも興味のあるものがありました。
 「ぼけ封じ観音」です。
 日頃、「ぼけるが勝ち」とうそぶいてはいるものの、やはりそう簡単にはボケられません。
 極彩色の翁と嫗の小さな立像の間に、黄金の観音様がそびえています。
 ボケそうになったら、このキッチュな黄金の観音様を思い出すことにしましょう。

 
                   旧県庁舎 正面全体図

 まだ少し時間があったので、すぐ近くの旧岐阜県庁に立ち寄ってみました。
 司町といういかにもそれらしい所にあるこの建物は、3代目の県庁舎で、完成は1918年(大正13年)といいますから私よりも20歳ほど年上です。当時の記録によれば、鉄筋3階建て、工費約150万円、工期1年7ヶ月とありますから、今の私がタイムスリップして当時に行ったら建てることが出来る金額です。

 現在は岐阜県総合庁舎として使われているこの建物、県庁として使われていた折には社会見学かなんかの他には訪れたことはありません。というのは1966年には現在の岐阜市薮田に新庁舎ができ、引っ越してしまったからです。
 この新庁舎ができる折には、そのロケーションが岐阜市と現在の瑞穂市との間の田園地帯で、当時の知事M氏のお膝元であったために、いろいろな噂が飛び交いました。たとえば、その近辺の土地をM氏とその一族で買い占めてあったという話などです。

   
                 正面玄関部分とひなびた看板

 さて旧庁舎の方ですが、文献によれば、
 「デザインはモダニズム的志向が見受けられる。立体美、重厚な表現に配慮されていると共に装飾などは最小限に抑えている。また、天窓にステンドグラスを採用し、槍ヶ岳、焼岳、穂高岳、乗鞍岳などの飛騨山脈(北アルプス)を図案化している。平面形は単純なE字形プランであるが、内外装の仕上は素晴らしいという。特に旧知事室、旧会議室等の暖炉や、食堂、手洗所等の大理石装飾は矢橋大理石商店からの寄贈品である。正面玄関などに使用されている大理石は金生山(大垣市)産の石で、古生代二枚貝のシカマイアの化石を含み、学術的にも貴重である。」
 と、あります。

 
             二階への大階段と踊り場の手すり(ここで電池切れ)

 まず外観を撮し、入り口の案内所の女性に「内部を撮影させてただいてもよろしいですか」とたずねたら、「どうぞ」と快く承知してくれました。
 しめたとばかり、まずは一階から二階へ通じる大階段などを撮影し始めたときです。非情にもわが携帯は「ジー」と不気味な警戒音を発し、電池切れを告げたのでした。

 先ほどの女性の顔に、「おや、もうお帰りですか」という表情が浮かんでいたのですが、「ありがとうございました」と挨拶をして泣く泣くその場を辞したのでした。
 一足飛びに晩秋というか初冬に至った街をかろうじて照らしていた弱々しい日差しが、今や黄昏へと至ろうとしていました。
 そしていつの間にか、落ち葉の舞い散る風情が似合う季節になったことを実感したのでした。

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女子会に混じって黒一点、美濃路を往く

2012-11-01 02:50:43 | 写真とおしゃべり
 愛知県から、妙齢のご婦人からなる女子会の面々が岐阜へと小旅行でいらっしゃるとのことで、現地参加でお仲間に加えていただくこととなった。黒一点である。
 女子会の四人の方々は気心の知れた旧知の方ばかりなので、人見知りが多く、初対面の女性の前では畳に「の」の字を描くばかりの私でも、打ち解けた雰囲気でご一緒することが出来た。

 
             快晴の岐阜城と金華山    この楓の前で落ち合った

 岐阜の河原町筋で、女子会のみなさんのランチタイムが終わるのを待って合流し、最初の目的地、「Le Cours せきや」という素敵なガーデン付きのカフェへと美濃路を北上した。
 おおまかな場所は美濃市から板取川沿いに北西方向にいったところで、集落を離れて、昼なお暗き杉並木をしばらく進んだあたりにある。

 
             蝶が重なり合っているような飛行機草 蜘蛛の巣も風情のうち

 ここは一度、今年の六月五日付の拙日記で紹介した場所でもある。
 で、そのガーデンだが、春の名残をとどめ、加えて初夏の花々が妍を競い、植物たちがその頂点を極めようとしていた六月に対し、その華やぎにおいては比べるべくもない有様ったが、このロケーションならではの季節に応じた山野草の佇まい、一見無造作ながらそれなりに手入れがされた風情はやはり一見に値するものであった。

 
            六地蔵は六文銭と大いに関連がある    風知草
 
 ここのテラスで飲むお茶は美味しい。眼の前に広がる板取川の河川敷は明るく、前日の雨で濁るほどでもなく水量を増した渓の流れは、滔々として観るものを飽きさせることはない。
 それに第一、空気が違う。
 時折走る車や散在する人家の放出する不純物は、豊富な水とあたり一面の緑ですっかり純化され、いわばシングル・モルトの空気がここにはある。

 
                 美濃市旧市街のうだつのある町並みから

 しばし歓談の後、板取川沿いに下り、うだつの街・美濃市の旧市街地へと向かう。
 ウィークデイとあり、観光客もまばらで、電柱を撤去した街の通りは実際以上に広く見える。うだつを見上げて歩くうちに、製造販売の提灯屋さんに捉まる。提灯を実際に作りながらの説明は確かに面白いのだがそれにしてもここのお姉さんはよく喋る。
 一行の中の、百戦錬磨のおしゃべりのプロもタジタジといった感であった。
 その弁舌に免じて、何人かが室内灯兼インテリアになる小型の提灯を求めた。
 梱包をする時、「飛行機にお乗りですか?」と訊かれた。中国かインドネシアからの観光客に間違われたのだろうか。

 
                     和紙屋さんにて

 続いてはこの街でも有数の品揃えを誇る和紙屋さんに立ち寄る。
 素朴な和紙から、いくぶんキッチュなものまで、紙そのものからそれを使った加工品まで、実に品数が多い。
 好きな人はここで半日を過ごすという話を聞いたことがある。
 「句帳」など、なるほどと思うものを買う人もいて、その店をあとにする。

 美濃から去るにあたって、長良川沿いの川湊と川灯台を見に行った。
 確かこちらへゆくと川灯台という狭い道路に一台の車が居座って動かない。そのへんをふらふらして戻ってきたら通れるようになっていた。
 かつて、陸上の道路のインフラが進んでいない頃、大量輸送の主役は水路であった。海のない岐阜県では、それは河川に設けられた航路で、その名残が川湊であり川灯台である。
 ここの他では、芭蕉の「奥の細道」終焉の地、大垣の川湊と川灯台もよく知られている。
 その折の、「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」の句は、旧暦の九月とされているから、新暦なら今頃に相当するのかもしれない。

   
               和紙屋さんの続き     おみやげに頂いた麦焼酎40°

 秋の日は傾くのが早い。岐阜への帰路は薄暮になったが、ほぼ予定通りに女子会の面々が宿泊するホテルに到着した。
 そこで私は別れたので、その後は知る由もないが、黒一点が去り、混じりっけなしの女子会になった面々の歓談がいっそう弾んだであろうことはいうまでもない。
 聞くところによると、半年間にわたる鵜飼の長丁場を終えて(十月一五日で終了)、羽を休めてまどろんでいた鵜たちが、響き渡る嬌声によってしばしばそのまどろみから引き戻されたとか・・・。

     美濃の天いや高まりて四輪草
     四輪の花に美濃路の秋が笑む

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