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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「ゆるふわ鉄ちゃん」のゆるふわ思い出

2018-05-07 01:04:56 | よしなしごと
 私は鉄道が好きだ。しかし、乗り鉄、撮り鉄をはじめ、やたらその歴史やメカに詳しいコアな鉄ちゃんたちがいるなか、私はそのどれにも属さないというか及ばないのだ。
 乗るのも好き、眺めたり写真を撮るのも好き、六角精児のように車内で飲むのも好き、ただし、それを極めるために、わざわざ乗りに出かけたり、どこかの撮影ポイントに出かけるようなことはしない。ようするに怠け者なのだ。
 だから自分のことを「ゆるふわ鉄ちゃん」と自称している。

 しかし、ある程度の努力はする。
 岐阜の樽見鉄道が第三セクター化した時、家族連れで途中の駐車可能な駅まで車で行き、そこから終点まで行って遊び、また折り返して帰ってきたことなどもある。

          

 駅構内に温泉があるときいて、やはり第三セクターに乗って友人たちとそこへ行ったこともある(長良川鉄道みなみ子宝温泉駅)。

          

 1991年のモーツァルトイヤー、ザルツブルグへ行く前、ウィーンに2、3日いたのだが、そのリングのトラムカーに乗りたくて、ホテルから2、3駅の間歩き、そこからホテルまで乗ったことがある。
 普通の編成の最後尾に、やや小さめの車両が連結されていて、それが珍しいのでそこへ乗車した。この写真でいうと最後尾の車両である。
 
          

 う~ん、これがウィーンのリング(ウィーン旧市街の城壁を壊した跡にできた環状道路を走るトラムカ-)かと感激していたのもつかの間、降車すべき駅にすぐ着いてしまった。
 さて、ここで料金を払って降りようとしたのだが、その支払い方法がわからない。車掌さんなどの影も形もなく、料金入れなどもまったくない。
 予め乗車料金を調べておいたので、その小銭を握りしめて降車口付近で戸惑っていると、当時の私よりも年配だった乗客たちが、「いいから降りろ降りろ」とゼスチャーで示すのである。もちろん、これ以上乗り続けても行くあてもないので、ためらいながらも降りることとなった。誰かに咎められないかと思ったがそれもなかった。

 トラムが発車する際、私に降りろと促してくれた人たちに向かって、深々と礼をした。人びとは手を降って車両は去っていった。

          

 それから十数年後のいまから10年ほど前、ハンガリーへ行った帰途、今度はオーストリーの第二の都市グラーツに寄った。
 この街にもトラムは縦横に走っていて、なぜかウィーンよりは生活感があるように思われた。なぜだろうと思っていたのだが、やがてその理由がわかった。
 ウィーンでは、私が観た範囲ではトラムはかなり広い道路を走っていたのだが、このグラーツのトラムは、もちろん広いところも走るのだが、これではまるで路地ではないかと思うような狭い道を、カーブなどでは建物に接触するのではと思うように走っている箇所があるのだ。
 私たちが泊まったホテルがそうだった。ホテルを出ると歩道があって、車道があって、そして軌道がといった具合ではなく、ホテルのフロントを出るとすぐ軌道があって、そこを鼻をかすめるようにしてトラムカーが走っていた。

 グラーツのみではなく、ヨーロッパの都市ではしばしばそうした光景が見られるようだ。それはひょっとしたら交通機関などのインフラ整備に関して、すぐさま既存の家屋を取り壊したり、立ち退かせたりして道路を拡張するなどする東洋的都市計画と、従来の都市景観などを壊すことなく、それに上塗りをするようにして新たなインフラを考えるヨーロッパ的な都市観の違いがあるのかもしれない。

 しかし、日本でもそうした狭い道を走るトラムを子供の頃、見たことがある。それはいまはもう廃線になった岐阜市と、関市、美濃市を結ぶ名鉄美濃町線で、廃線になった当時は岐阜の徹明町という広い交差点が起点であったが、1950年代までは柳ケ瀬の東の端、美殿通りから出ていた。
 まさにそれは、居並ぶ商店や住居の軒先をかすめるようにして走っていた。その通りを、当時は人も車も、そして電車まで走っていたのだから驚きだ。美殿町から殿町を経由し、梅林公園の南で広い道へ出るまでの約一キロはそんな具合だった。

            

 ドンピシャリ、それを撮した写真を探したのだが、ここに載せたモノクロのものがそれに近いと思う。この電車と右の家屋の近さを見てほしい。左の余白はこの写真ではかなり広そうに見えるが、実際にはこんなに広い感じではなかった。
 ちなみに、この通りは今では東への一方通行になっている。ようするに、街なかの一方通行になるような通りを市街電車が走っていたのだ。

 とまあ、こんな具合に私の鉄道への関心は散漫でまとまりがないものである。
 「ゆるふわ鉄ちゃん」を自認する所以である。

 
【おまけ】以下は、つい最近まで中国にいた私の友人のブログである。
 ちなみに私は、7年前、この写真にある新幹線型の特急に太原から北京まで乗ったことがある。客室ごとに乗務員がつき、お絞りのサービスなどがあった。飲食物、お土産の車内販売もけっこう頻繁だった。
  http://d.hatena.ne.jp/maotouying/20180130
 
コメント
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