きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

みんな、いい

2011-07-19 | 母子家庭だから思うこと
そう、父は歌が大好きで、家族思いで仕事もバリバリだったんだ。
私は今の父がどんな姿で、これからどうなろうと、私の中ではずっとあの頃の父なんだ。

それでも永遠にこのままということは無い。
命は限りがあるし、出会いは必ず別れが訪れ、体はいつかは壊れる。
人は永遠に幸せであるように、最後が誇り高き自分でいられることを目指すけれど
それが正しいと思いがちであるけれど、ほんとに目指す所はそれしか無いのだろうか。

死ぬと言う事は、不幸で悲しいことだけど、必ず訪れることなのである。
病気かもしれない、事故かもしれない。もっと違う形かもしれない。
私は死ぬ形にランクをつけたくない。

生きる形にもランクをつけたくない。

もしも人生にこうなるべきレール(目標)があって、それから脱落することが失敗だとするならば、頑張って残れる人間だけが生きるべき人間であり、残りは死んだ方が早くなってしまう。
 
一生懸命やったかどうかが評価点だとしたって同じだ。一生懸命やれない人間は死んだ方が早くなってしまう。

こうやって書けば、「いいや、死んだ方が早い人間なんていないんだよ」って誰もが思うだろうけれど、もし心からそう思うとしたら、もっといろんなものに優しくなれるのではないか?

もっとうんと、こだわりが少なくなっていると思う。
いろんなものが赦せているはずだ。

私はkekeに最低でも大学ぐらいは出なきゃ話にならないだろうと思ってたし、まぁ自分も学歴にしがみついているような部分があったから、無意識のうちにも望んでしまって、失敗(少なくても現時点では)したわけだが、そう言う勘違いをしている大人はメチャメチャ多いと思う。

その全てが間違いだと否定はしないけれど、少なくてもそれを「子供のため」と言うのは勘違いだろう。
私はずっと「kekeのためだから」と思ってきたけれど、それは自分のエゴだったと思う。
自分がそう言うkekeであってほしかったんだと思う。

「あなたのためにこう言う人生がいいと思うからこうしなさい。」と言われたら、それができているうちは良いけれど、そうでない、それができないと子供が気付いた時に「死ぬ」しかなくなってしまう。


kekeが「死ねばいい」と言い出したのは、私のせいだ。


もう学校なんて行かなくてもいい。
就職なんてできなくてもいい。

私はいつまで稼げるか分からないけれど、無理して我慢して何のために生きてるか分からないから死んでもいいなんて言うなら、目一杯好きな事して、桜のようにいっしょに散ろう。

頑張るのが好きな人なら頑張って長く生きるのも立派になるのも良いけれど、
そうじゃないのも、人からとやかく言われることじゃない。


ゼミ仲間のM君はG子に「止めなさい」と言うらしい。
理由を訊くと、「後で泣くハメになるから」だと言う。

後で泣くハメになったら、それまでの全てが無意味なのか。
結果男に騙されたら、それまでの全てが間違っているのか。

そう言われて断念できるなら、たしかにそれもひとつの答えではあるけれど。



死んでしまうのはとても重要。
もう絶対後がないから。

でも私達は生きている。
生きているから、その後からまたやり直せる。
思うように生きて、すっ転んだらまた立ち上がればいい。

一度も転ばないより、はるかにいい。