そう、私はずっと子供に期待をかけていた。
kekeは大学を出て、しっかりした会社に勤めてほしい。。。
元旦那にもいつも思ってた。
もっと家庭に尽くしてほしい、いいお父さんでいい旦那さんでいてほしい。。。
その裏には自分自身にも「もっとこうでなければいけない」と課していたのだと思う。
自分に自信がなかったから、もっとこうするべきだ、親としてこうであるべきだ・・
いろんなべき論を持っていたのだと思う。
自分が、家族が一人一人が頑張る事で、周りの人に認められたい。
「この人は仲の良い素晴らしい家族を作り上げて来ましたね」と認められたい。
元夫に、子供に、ハッキリとはたぶん示していないと思うけれど、「こうあってくれたら私はうれしいのに。。」そういう気持を抱いていたのだと思う。
どこかで表現してしまっていたように思う。
それから元夫は去り、子供は引きこもる。
でもおそらく一番きいたのは好きな人がこう言ってきたことだ。
「sakeさんそれはできないよ。できることはするけどそれ以上の事はできないから、それを望むなら他の人と付き合うしかないよね。」
はぁ~!アンタよくもそんなことをイケシャーシャーとまぁ!
でもまてよ。
私が人を好きになる基準は「自分のために何かをしてくれる人だから」なの?
順序が逆じゃない?
魅力があったり尊敬できたり、だから自分は好き、そしてその人が自分のためにもし何かしてくれたらうれしい。
そうじゃないの?
それから私は求めることをとめてみた。
(もちろん、そこに至るまでにはものすごく時間が掛かっている。)
見返りはなくていい。一方的にこちらから与えるだけの関係。
もちろん子供へも。
そして少しづつ、私は変わっていったのだ。
こんなことをしたら、喜んでもらえるんじゃなかろうか。
ちょっと面白半分で。
そして、会社のビールを自分の持分はなくなってもみんなに分けてみたり。。。
ちょっと奮発して、kekeの好きなさぼてんの高いフライにしてみたり。。。
そしたらどうしたことだろう。
誰かに何かしてもらっているのと同じぐらいに、気持が満たされていく。。。
むしろ、誰かに何かしてもらって得をしている以上に、心がうるおってくる。。。
今まで得か損か、黒か白か、頑張るか怠けるか、
そんな二者択一の世界に居た自分の心は、とっても乾いていたノドに水分を与えられたかのように、すーっと満たされてくるのを感じた。
これは言葉では説明できない不思議な感覚だ。
何も得なんてしていないはずなのに。。。
それから私にはいろんなものがよみがえってくる。
今まで両親が自分にしてくれたこと。
「これはアンタのためにやってあげたんだよ!」そんなこと1度も言われた事がなかった。
当たり前だと思っていたこと。
当然の権利のように思っていたことも。
それから私は周りを見渡してみる。
kekeもできることはしている。
私の求め方が高過ぎただけ。。。
「できることはやってるよ」その通りだ。
他の誰かと比べなければ、自分が追い求めなければ。
それ以上何の権利があるのだろう。
「私のためにもっと動け」だのどうして言えよう。
そして私は一つ一つ赦していく。
元夫もできることはやっていたのだ。
私がそれを見ようとしなかっただけで。
そうしているうちに、私は一番大きなことに気づく。
こんな自分が好きでいることに気づく。
私はこのままでいいんだ。
欠点もあるけれど、このままで充分にイイ奴じゃんか。
ありのままのコイツでいいじゃんか。
ありのままの自分を赦そう認めよう。。。
もうこのままでいいんだよ。
ありのままの自分が好きになったら、周りもみんなありのままで充分な気がしてきた。
別に大学を出ていなくたって。。完璧に愛されていなくったって。。。
その人はその人なりに変わらず輝いている。
すると何となく周りから笑顔が増えてきたような気がして、毎日が満たされていくのを感じる。
そしてなぜか、ちょっとした小さな「ありがとう」に気づく。
ほんのささいな、自分を喜ばせてくれる小さなことがとてもうれしい。
もしかしたら、これが「愛する」に近い気持ではないかと。
kekeは大学を出て、しっかりした会社に勤めてほしい。。。
元旦那にもいつも思ってた。
もっと家庭に尽くしてほしい、いいお父さんでいい旦那さんでいてほしい。。。
その裏には自分自身にも「もっとこうでなければいけない」と課していたのだと思う。
自分に自信がなかったから、もっとこうするべきだ、親としてこうであるべきだ・・
いろんなべき論を持っていたのだと思う。
自分が、家族が一人一人が頑張る事で、周りの人に認められたい。
「この人は仲の良い素晴らしい家族を作り上げて来ましたね」と認められたい。
元夫に、子供に、ハッキリとはたぶん示していないと思うけれど、「こうあってくれたら私はうれしいのに。。」そういう気持を抱いていたのだと思う。
どこかで表現してしまっていたように思う。
それから元夫は去り、子供は引きこもる。
でもおそらく一番きいたのは好きな人がこう言ってきたことだ。
「sakeさんそれはできないよ。できることはするけどそれ以上の事はできないから、それを望むなら他の人と付き合うしかないよね。」
はぁ~!アンタよくもそんなことをイケシャーシャーとまぁ!
でもまてよ。
私が人を好きになる基準は「自分のために何かをしてくれる人だから」なの?
順序が逆じゃない?
魅力があったり尊敬できたり、だから自分は好き、そしてその人が自分のためにもし何かしてくれたらうれしい。
そうじゃないの?
それから私は求めることをとめてみた。
(もちろん、そこに至るまでにはものすごく時間が掛かっている。)
見返りはなくていい。一方的にこちらから与えるだけの関係。
もちろん子供へも。
そして少しづつ、私は変わっていったのだ。
こんなことをしたら、喜んでもらえるんじゃなかろうか。
ちょっと面白半分で。
そして、会社のビールを自分の持分はなくなってもみんなに分けてみたり。。。
ちょっと奮発して、kekeの好きなさぼてんの高いフライにしてみたり。。。
そしたらどうしたことだろう。
誰かに何かしてもらっているのと同じぐらいに、気持が満たされていく。。。
むしろ、誰かに何かしてもらって得をしている以上に、心がうるおってくる。。。
今まで得か損か、黒か白か、頑張るか怠けるか、
そんな二者択一の世界に居た自分の心は、とっても乾いていたノドに水分を与えられたかのように、すーっと満たされてくるのを感じた。
これは言葉では説明できない不思議な感覚だ。
何も得なんてしていないはずなのに。。。
それから私にはいろんなものがよみがえってくる。
今まで両親が自分にしてくれたこと。
「これはアンタのためにやってあげたんだよ!」そんなこと1度も言われた事がなかった。
当たり前だと思っていたこと。
当然の権利のように思っていたことも。
それから私は周りを見渡してみる。
kekeもできることはしている。
私の求め方が高過ぎただけ。。。
「できることはやってるよ」その通りだ。
他の誰かと比べなければ、自分が追い求めなければ。
それ以上何の権利があるのだろう。
「私のためにもっと動け」だのどうして言えよう。
そして私は一つ一つ赦していく。
元夫もできることはやっていたのだ。
私がそれを見ようとしなかっただけで。
そうしているうちに、私は一番大きなことに気づく。
こんな自分が好きでいることに気づく。
私はこのままでいいんだ。
欠点もあるけれど、このままで充分にイイ奴じゃんか。
ありのままのコイツでいいじゃんか。
ありのままの自分を赦そう認めよう。。。
もうこのままでいいんだよ。
ありのままの自分が好きになったら、周りもみんなありのままで充分な気がしてきた。
別に大学を出ていなくたって。。完璧に愛されていなくったって。。。
その人はその人なりに変わらず輝いている。
すると何となく周りから笑顔が増えてきたような気がして、毎日が満たされていくのを感じる。
そしてなぜか、ちょっとした小さな「ありがとう」に気づく。
ほんのささいな、自分を喜ばせてくれる小さなことがとてもうれしい。
もしかしたら、これが「愛する」に近い気持ではないかと。