きっと、いいことあるよね!

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「生きることば あなたへ」/瀬戸内寂聴さん

2014-01-24 | 女だから思ったこと
瀬戸内寂聴さんの「生きることば あなたへ」を読む。
冒頭に「あなたの悩み、苦しみを、どうかわたくしに話して下さい。そうしてこの本の中から、わたくしの答えを探して下さい。」とあり、それだけの自信を持ったことばとはどんなものであろうか、と開いてみた。

読んでみると本当にその通りで、どの頁を開いても正座して聞き行ってしまいそうなことばが並んでいる。魂を磨きながら長く生きているということはそういうことなのだろうか。「殊玉の」と言ったら失礼になるのだろうか。


つたない記憶であるが、瀬戸内さんが仏門に入ったのはたしか52歳ぐらいであったのではないかと思う。
その前は小説家一本であった。

これもつたない記憶なのだが、当時瀬戸内さんは不倫をしていて、相手の男性は瀬戸内さんと奥さんの間を週に半々で過ごされていた状態だった。(とどこかで聞いた。)
そして、52歳のある日、エイヤー!と尼さんになってしまうのである。

これもいつかどこかで見たか読んだかしたのだが、インタビューで「あの時に何故出家されたのですか?」と訊かれて瀬戸内さんは「なんでかしら?更年期だったんでしょうかねぇ~勢いで出家しちゃったのよ」とカラカラカラと笑って答えていた。


とは言うものの、そんな簡単な答えではないと私は図々しくも勝手に推測する。

当時はさらに頑なな世の中である。不倫をしそれを小説として世に出すなんて、並大抵のことではない。
相当な世間からの批難もあったと思うし、それ以上にその恋愛を貫く厳しさがあったと想像する。それでも書いて書いて書き続けたのは、当時の瀬戸内さんなりの正義感ではないかと思う。

恋愛は決して生易しいものでないのは、そのことばにも現れる。
「男女の間の渇愛は、水を飲んでも飲んでものどの渇きが止まらない状態」とこの本のどこだったかで書かれている。飲めば飲むほどノドが渇くのだと言う。

それから逃れるためには一度死ななければならなかった。
「仏門に入ったことで一度私は死んだのです」みたいな言葉もここにはある。

単純に、どっちが悪い、どっちが得か損か、相手の欠点、あんな相手だったら、など、そんなものが見えて計算がたっているうちは別れるのは難しくない。それを理由にすれば済むからである。
そうでなくなってくると別れる理由がなくなってくる。相手が一方的に言ってくれれば済むが、自分からは言えなくなってくる。

苦しい恋愛、辛い世間体、しかし別れても後の後悔や辛さもおそらくそれ相当のものだと想像される。だから、どちらかが死なねば、もう絶対届かない遠い所にいかなければ、これは終わらないと判断されたのではないだろうか。
(実際にどこかの本で、こうしなければこのままこの状態がずっと続くと思いました、と書かれている。)

瀬戸内さんが仏門に入った時の世間の声を私は幼すぎて知らないが、ほれざまあみろ的なものもあったと想像される。そう思う人はそう思っていくしかない。


最近うすうす感じていたけれど、この本を読んで、人は所詮1人で寂しいものなのだ、と確信した。
男女の愛情なんて、その時その時のものでしかなく、例えいっとき捕まえたって、どんなに思っても、何をしても、永遠に100%手には入らない。むしろ少し距離をおいて、求めず放っておかないと続かないものなのだろう。

だとしたら、いったい何の意味があるのだろう。
結婚もしない、共に築きあげるものが何もない男女の中なんて。
いつか別れるしんどさを味わうためなのか。
そう思うと、結婚届と言う紙きれ一枚がとても重要なものだと思うのである。


先のことは何の約束も約束はできないけれど、私はたぶんこの先、もう誰かを好きになることはないと思う。
ひとりを、自分だけを見つめて安心したいから。
ひとりにならなければ、いつも傷ついていなければならないから。