きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

鳩サブレー

2017-01-18 | 父の記録と母の思い出
会社にある鳩サブレーを見ているうちに祖母を思い出した。

私が記憶に残っている頃の祖母はすっかり丸くなって、何かにつけ私をほめてくれた。
ドリルや問題を解くたびにほめまくるので、私は自分が「頭がイイ」と勘違いして、祖母が持ってきた問題集やドリルをどんどん解いていったのだった。

小学校低学年の頃ちょっと難しい高学年の本を読んでいると、また祖母がほめてくれたので、私はズンズン難しい本にチャレンジするのだった。(中身はどこまで理解していたか定かではない。)

それからありえない事に、私のこのくすんだ鼻声まで「sakeはきれいな声をしているね~」とほめていた。

しかしだんだん小学生も学年を経ていくに従い、それがアホに思えてきた。
現実的に、友だち一人も作れないいじめられっ子だったのである。

私にはそれがただの「しらじらしいお世辞」にしか思えなかった。

それにかの家は祖母と母親の折り合いが悪く、母は祖母の悪口ばかり言っていたので、思春期的にもだんだん祖母から遠ざかっていった。
何か言うたびにウザイなぁと思っていた。

祖母はだんだん愛想がなくなった孫に「小遣いあげようか」しか言わなくなっていった。
でもそれも冷たく断っていた。

別に祖母が嫌いなわけではなかった。
そんな祖母のお金を無駄にしたくなかったという気持からだったけれど、私は無愛想だった。
冷たくいつもあしらっていた。

妹は祖母とどんなからみをしていたか分からない。

妹はいつも気が利いて優しかったので、両親の愛情を独り占めしていた。
(少なくても私はそう感じていた。)
自分のことより、まずは周りの人のことを思いやる妹だから、いつも親から好かれて比較されて、私は疎んじられていた。(少なくても私はそう感じていた。)

だけど祖母は相変わらず、小遣いあげようかとか、白々しいお世辞を言うのだった。

身体も弱くなり、いつしか祖母は病院に行ったり戻ったりになり(結構ワガママから出たり入ったりだったというウワサもある)、家の中から存在が薄くなっていった。
私は中学生になり、家のことより友達が学校のことが中心になっていったし、帰ってからは部屋にとじこもりきりになった。

祖母が亡くなったのは高校生の頃である。
もう家にはほとんど居なかったので、「あぁそうなのか」と思った。

あの頃は父が働き盛りだったので、いくつも花環が届いた。
あぁすごいなぁと思った。


そんなことをぼんやり思い出す。

それから何十年もしたある日、ブログを通じてお会いした女性に「いい育ち方をしているのね」と言われた。
どこがどうそうだったのか、何となく訊かずに終わってしまった。


でも、私が今こうしてここにあるのは、祖母の存在がたぶん大きいと思う。
何十年も経って、今そんなことを思い出す。


鳩サブレー。
どうして時々、家にあったのだろう。
よく分からないけど。