津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

綱利の女(むすめ)達

2006-10-22 18:02:10 | 歴史
 綱利の正室「久」は、松平讃岐守頼重(高松藩12万石初代藩主=水戸松平)の養女だが、実父は水戸中納言頼房(家康十一男・頼重の実父)である。五人のむすめ達の嫁ぎ先に「親藩」が多いのが興味深い。
 ●長女「菊」は伊予西条の松平頼路に嫁した。紀伊松平家と呼ばれるこの家は、紀州徳川家の継嗣を出している。藩祖頼純は紀伊徳川家の初代頼宣(家康十男)の三男である。頼路は若死にしたのだろうか、嫡子ながら藩主とはなっていない。
 ●二女「光」については既に書いた。酒井左衛門尉忠真に嫁いだ。
 ●三女「松」は、西園寺左中将と婚約したが十七歳で亡くなった。
 ●四女「楊」は、出雲母里藩(一万石)の二代目藩主・松平美作守直丘に嫁いでいる。越前松平家(家祖・結城秀康)の支藩・出雲松江藩初代直政が三男直丘に一万石を分知して立藩している。娘初姫が細川綱利の養女となり(母親の死によるものだろう)、伊予今治藩の松平采女正に嫁いだ事は先に書いた。
 ●五女「吉」は、同族細川采女正利昌に嫁いでいる。

 その他の娘は妾腹である。子供は多い綱利だが、男子(いずれも妾腹)は與一郎が十四歳、千次郎吉利が十八歳で亡くなっている。綱利の跡は、弟細川若狭守利重(新田藩主)の二男竹之助が養嗣子となった。宣紀である。
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伊予今治藩・松平家

2006-10-22 10:06:42 | 歴史
 綱利女楊は出雲母里藩の二代藩主・松平直丘に嫁いでいる。娘初姫は綱利の養女となっている。そして伊予今治藩四代藩主・松平采女正定基(貞基とも)に嫁いだ。もっとも後には離別したらしいが・・・。この輿入れに当たって、当家三代目又之允がお供している。宝永二年十一月と先祖附には記されている。

 この采女正、江戸に采女原とか采女橋とか後世に名を残している。
(謎・NHKアナウンサー松平定知は、家康の生母お大の方『久松松平』の血を引いているらしいが、伊予松山松平の胤とするウィキペディアの記述は本当かなー。もしそうなら久松氏が名乗りだろう・・・)
コメント (1)
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