宇野東風著「細川霊感(重賢)公」に、綱利に関する記述がある。言葉は穏やかであるが、綱利の奢侈ぶりを批判している。
「按(あんずるに)本藩の困窮なりし事は、上編にも既に記述せし所なるが、其の原因を察するに、単に奢侈の風に感染せるのみならず、幕府の政策として、諸侯の富を削り、江戸の邸宅参勤の費用のほか、其の身代に應じて公邉属役を命じ、金穀を徴収せしより、入費増々嵩み、且綱利公甫(はじ)めて七歳にて就封せられ、又其際は削封分知の風説もありて、一藩大に動揺せし程なりしが、特例を以て遺領相続あり、又公子二人ましましゝかど、皆早世し給ひて継嗣なく、故に当時養子の法なく、遺子なき諸侯は没収せられければ、公は自身一代との考えにて、後世子孫の計なく、万事闊達に取賄はれ、収支相償はざることとなりしに、後養子の許可ありて、同族若狭守重利公の二子宣紀公を養子とせられ・・・・・・(以下略)」
綱利には側室・安住院に二人の男子(與一郎・吉利)があったが、惜しくも14歳・18歳で亡くなっている。ここで興味深いのは、「当時養子の法なく」という記述である。「二人の男子が亡くなり養子も取れないので、細川家も自分一代限り」と闊達に振舞われたと、いう訳である。
「按(あんずるに)本藩の困窮なりし事は、上編にも既に記述せし所なるが、其の原因を察するに、単に奢侈の風に感染せるのみならず、幕府の政策として、諸侯の富を削り、江戸の邸宅参勤の費用のほか、其の身代に應じて公邉属役を命じ、金穀を徴収せしより、入費増々嵩み、且綱利公甫(はじ)めて七歳にて就封せられ、又其際は削封分知の風説もありて、一藩大に動揺せし程なりしが、特例を以て遺領相続あり、又公子二人ましましゝかど、皆早世し給ひて継嗣なく、故に当時養子の法なく、遺子なき諸侯は没収せられければ、公は自身一代との考えにて、後世子孫の計なく、万事闊達に取賄はれ、収支相償はざることとなりしに、後養子の許可ありて、同族若狭守重利公の二子宣紀公を養子とせられ・・・・・・(以下略)」
綱利には側室・安住院に二人の男子(與一郎・吉利)があったが、惜しくも14歳・18歳で亡くなっている。ここで興味深いのは、「当時養子の法なく」という記述である。「二人の男子が亡くなり養子も取れないので、細川家も自分一代限り」と闊達に振舞われたと、いう訳である。
「当時養子の法なく」とはいかなることなのか、次のようなことではないかと思い至った。
18歳で二男吉利が亡くなったのは、宝永三年四月廿五日である。
この時期綱利は「夜中越中」とあだ名されながらも、柳沢吉保の元を度々訪れている。
吉利の死後綱利はあろう事か、吉保の三男・安基を養子にすべく画策している。吉保は承諾したらしいが、当時の老中稲葉正住が「国許の家中は同心するのか、近親はいないのか、無縁の者の養子は御条目にたがう」と反対をしたというのである。これは武家諸法度に定めがあるところであり、柳沢も綱利も承知の上での養子話であったのだろう。処が老中稲葉正住は、柳沢吉保のしっぺ返しを受けて老中を罷免されてしまうのである。宝永四年十二月、綱利は弟・利重の二男・利武を養子とすべく幕府に願い出、翌年の正月十九日に許可された。
この時期綱利は「夜中越中」とあだ名されながらも、柳沢吉保の元を度々訪れている。
吉利の死後綱利はあろう事か、吉保の三男・安基を養子にすべく画策している。吉保は承諾したらしいが、当時の老中稲葉正住が「国許の家中は同心するのか、近親はいないのか、無縁の者の養子は御条目にたがう」と反対をしたというのである。これは武家諸法度に定めがあるところであり、柳沢も綱利も承知の上での養子話であったのだろう。処が老中稲葉正住は、柳沢吉保のしっぺ返しを受けて老中を罷免されてしまうのである。宝永四年十二月、綱利は弟・利重の二男・利武を養子とすべく幕府に願い出、翌年の正月十九日に許可された。
綱利は幕府に願い出て帰国を先延ばしにしている。江戸では「帰国すれば押し込めにあうからだろうと」うわさが立つほどであった。(尾張藩朝日定衛門重章・鸚鵡籠中記)
家老木村半平が諫言すべく次之間に詰めて数日を過ごしたという。(肥後先哲遺跡)
綱利が隠居し、宣紀(利武)が襲封するのは、正徳二年七月のことである。
綱利が隠居し、宣紀(利武)が襲封するのは、正徳二年七月のことである。
生母・清高院とともに奢侈の質であった綱利の時代、側近の横暴もあり細川家の財政は悪化の一途をたどる。宝永九年の九州筋巡見使報告「九州土地大概」によると、「国政悪民大ニ困窮ニオヨフ」と痛烈である。
このような資料を読まされると、気が重くなってしまう。