家臣の召出しについては、その仲介(肝煎)にあたった人物についても興味をそそられる。
■ 木野左兵衛 妻吉左(妻木之徳)内々被申候ハ、主女之親類ニ、歳廿計なるもの御
座候、吉左衛門肝煎候ハてかなハぬ様子共御座候而、只今も吉左衛
門所ニ養て被置候、然故御次而も御座候ハゝ、何とそ申上、知行弐百
石被遣、被成御抱候様ニ仕度候由被申候、され共、我等者加様之儀
申上たる儀無御座候間、正源院まても談合可仕とまて申候而置申候
如何可有御座候哉事
( 元和六年三月廿二日忠利が三斎(長舟十右衛門宛)に宛書状 8-13抜粋)
■ 蘆村十郎左衛門 其元ニ而申談候蘆十郎左衛門尉(蘆村家勝)事 五百石可遣由
心得申候 御書中之通見申候而 知行すたり不申 満足仕候事
(寛永十年三月廿四日榊原職直宛書状 2096-抜粋)
■ 吉弘加左衛門 長岡佐渡(松井興長)所迄預使札 殊海月一桶送給候 御懇意之至候
次 加左衛門ニ知行申付候ニ付而御禮 承届候 猶佐渡可申入候
(寛永十一年九月廿六日吉弘加兵衛政定宛書状-2623)
■ 須佐美権之丞 須佐美権丞事 知行・家屋敷申付候付而 御慇懃之御書中ニ而御座候
(寛永十一年十一月十日曾我古祐宛忠利書状-2685)
■ 落合勘兵衛 一、落合勘兵衛と申者森内記殿牢人ニ而候 頓而可下候間當 森長継(美作津山藩主)
座町屋を申付松岡主税家を掃除申付賄道具不残申付候
味噌・塩・薪之類迄卅日分ありつきニ渡し扨其拵渡ハ賄道
具・薪・塩噌(ママ)已下迄注文を仕此方へ可越候事
一、勘兵衛賄ニ壹ケ月八木五石・薪五拾束宛可相渡候事
一、畳もむさく候ハゝ新敷申付可遣候事
一、十二月十日之内ニ八木百石相渡候事
越
七月五日 忠利御判
(寛永十二年七月五日 熊本縣史・近世編第二 p164)
■ 大喜多又兵衛 (後に細川光尚に殉死した、山中又兵衛・氏連)
尚々、ゑもんのかう(右衛門督)をとゝ、其方へ奉公申度と申二付而、下候故、
書状調渡候へ共、此状ハ急被脚ニ先へ下し申候、跡より右之奉公人下り可
申候、追而と書状有之付而、如此候、以上
( 寛永十五年閏七月廿九日光尚宛忠利書状(1142)追而書)
■ 門川喜右衛門 門川備中と申者一柳監物之家中江客分ニ居申候、備中娘丹後ニおゐて忠興君
ニ被召出、光千代君(細川忠利)ニ御乳を上申候、依之其弟喜右衛門を被召出、
新知百石被為拝領候 (綿考輯録・巻二十八)
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