肥後熊本の前国主・加藤家改易は寛永九年五月廿二日の事である。加藤忠廣は江戸参府の途上、品川に於いて入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主酒井忠勝にお預けとなった。
その後加藤忠廣の生母は江戸に在り、多くの肥後の女性がその許に在った。
細川忠利は、「我々家中下々親類之女壹人」の肥後帰国のために、関所通切手の発行を松平重則(上総百首藩主)に依頼している。
寛永十一年四月十日書状(2421)
一筆申入候 度々御六ヶ敷申入事ニ御座候へ共 我等家中下々親類之女壹人
忠廣 水野忠重女
肥後迄遣申候 御関所切手申請度候 加藤肥後母儀是ニ被居候故 肥後之女
数多御座候而 帰國仕度由申候ニ付而 切々申入候 猶此者口上ニ可申入候
恐惶謹言
卯月十日 (忠利)
松平大隅守様
人々御中
合せて、同日別に牧野信成(関宿藩主)にも同様の文面で、松平大隅守への口ぞえを依頼している。
先に何時のものかわからない書状として 往来手形之事 でこれを紹介していた。
口ぞえが効いたのか、翌十一日には「早々被成御調忝存候」状況になり、牧野信成宛の礼状(2423)が発せられている。
上記書状(2421)に加藤肥後母を水野忠重女(加藤清正正室・清浄院)とするのは、明らかな間違いである。
清浄院は加藤家の改易後熊本を離れ、清正の墓所がある京都本圀寺近くに居住している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B5%84%E9%99%A2_(%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3%E5%AE%A4)