T家が愛蔵されている上記の絵図・地図をお借りして、コピーをさせていただいた。特に地図のほうは専門店でA0判に拡大をしてもらった(1,000円)
納得のいかなかった井芹川の川筋の元の位置関係や、古い道筋などが良く判るありがたい資料と成った。現在では古書籍店などでも入手困難で、たとえ入手できたとしても年金生活者としては躊躇するような値段であろう。
明治初年の絵図の方は、神風連の挙や西南の役に参加された方々の名前、また後年名を為された人たちの名前が見えて興味深い。
こちらも川筋が随分変わっているので現在の場所を確認するのに大変だが、そこは今も変わらぬ位置にある御寺が解決してくれる。
この絵図と地図を眺めていると、一日ゆっくり時間を過ごせそうである。コピーをお許しいただいたT様に感謝である。
筑紫廣門という人物がいる。忠興との関係がどこから始まったのか承知していないが、弟・幸隆の息女・兼を廣門の三男・筑紫左近重門(細川家家臣)に嫁がせるなど、その関係が特別であることを伺わせる。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tikusi_k.html
筑紫広門 - Wikipedia
びっくりするのは寛永十年九月頃、忠興が江戸屋敷を「廣門殿へ被遣」と言い出している。忠利の九月八日書状案(679-抜粋)は次のように記す。
江戸之御屋敷 御書付之ことく 筑紫殿へ被遣由 承届候 若不入ニおいてハ
被成御上ニてハ御座有間敷候哉 何も拝領之屋敷ハ 下ニ而人ニ遣候ハ不
成事之様ニ 承かと覚申候 筑紫殿へ被遣候儀隠密之由 奉得其意候 并い
つそや得御意候ヘハ 我々下々江戸之屋敷ニ餘申候ハゝ 御下屋敷長屋之
明候所ニ置申由 忝奉存候 若人餘候は左様ニ可仕と奉存候事
(魚住傳左衛門尉あて)
横車もここまでくればあきれるばかりである。九月九日書状案(681)尚々書ではさすがにこれを諌めている。
尚々 江戸御下やしきの事 我等のニ成候ハゝ 遣候様ニとの御書 先書ニ如
申上 とかく下にて やしきを傍輩へ進候儀ハ不成様ニ覚申候 以上
(魚住傳左衛門尉あて)
当たり前のことだが、此の後の書状に見受けられないところを見ると、一件落着といったところか。
此の時期三齋様、老耄はまだ早いと思うのだが・・・・・・・・・・・