津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■鎌倉松葉ヶ谷・妙法寺

2015-01-19 14:18:35 | 歴史

 ヤフオクに 鎌倉 松葉ヶ谷 妙法寺 本堂(細川家建立) という絵葉書が出品されている。
細川家と言っても熊本とは限らない。疑問に思いながら妙法寺を調べてみると、確かに細川家が本堂を建立したと記されている。全く知らなかった。

                       

開山は延文2年(1357年)のこととされるからずいぶん古いお寺だが、「11代将軍家斉の代将軍家および徳川御三家、肥後細川家などの尊崇を集めた。総門、仁王門、法華堂が朱塗りであるのは将軍家斉を迎えるためであったとされ、明治中期までは境内に将軍御成の間が遺されていた。また、現在の本堂は文政年間に肥後細川家により建立された。」ものであり、細川家の本堂建立は「幼くして亡くなった細川家息女の菩提を弔うため建立」された。

文政時代の細川家の当主は、齊樹か齊護である。齊樹には女子が二人有るが最初の御子は文化七年に生まれた泰(トヨ)姫で十数日後に亡くなっている。二番目の御子篤姫は翌八年の生まれ、文政三年宇土支藩の立政(後の齊護)と婚約するも同七年四月十八日に江戸で卒し妙解院に葬られた。

一方齊護の姫で文政年間に亡くなった御子が一人おられる。寅姫がその人で、文政十一年十月正室が出産翌十二年六月に亡くなっている。

さて何方なのだろうか。本堂まで建立して弔ったというのだから、将軍家齊と同じ一ツ橋家出身の齊樹夫人が、側室の腹にできた姫ながらわが養女となして立政と婚約させた篤姫が有力か・・・・・・・・・・・・・・・・何方かご存知であればご教示給わりたい。

そして「鎌倉様」と呼ばれた細川家当主があったとされるが、これが何方なのかも判然としない。なんだかこのあたりにヒントがありそうな気がしている。

 

 

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■立政公御参勤 道中日記をたどる 「おさらい編--小倉」

2015-01-19 09:50:06 | 地図散歩

小倉城下の全体図である。御城の上部が二の丸、紫川を挟んで向かい合う町を唯一結ぶのが常盤橋である。橋の左手に勢屯がみえるがその左手一角に御茶屋があった。立政一行もここに止宿したのであろうか。                    

   
お城から紫川の河口を望んでいる。常盤橋の下流左手に船溜まりが見え、立政一行約200人は鶴崎から回航された船に乗って下関へ向けて出港している。

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■立政公御参勤 道中日記をたどる 「おさらい編--柳川」

2015-01-19 08:59:31 | 史料

 「古地図に見る柳川城の歴史」という秀逸のサイトがある。これを拝見すると柳川城下の大方のところを理解できる。

          http://www.geocities.jp/bicdenki/yanagawasiro.htm 

又論考「近世町割りから見た城下町柳河の空間構成とその変容」も大変興味深い。

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