津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大高源五右衛門の鎖帷子

2015-01-20 10:17:16 | 徒然

 史談会の終了後A様が近寄ってこられ、「歴史秘話ヒストリア」で赤穂義士のことをやっていたのを見られましたかと仰る。
心当たりがないがそう遠くない話らしい。大高源五右衛門のことも登場したらしく、話はそちらに移った。
A様のお宅に「大高源五右衛門の鎖帷子」が有ったというのである。話は古くなるが太平洋戦争で蔵が被災して燃え、大事なものを一切失ったといわれる。
御母堂の悲嘆ぶりが強く印象に残っているといわれるが、特にこの品物を失ったことを残念がられていたという。
御話からすると母屋は被災せず蔵だけが直撃弾を受けたらしい。

A家は細川家世襲三家老の一つA家の分家筋にあたられるが、こちらも家老を輩出された御家柄である。
当時の御当主が江戸詰めでもあったのだろうか。 貴重な史料がこのような形で失われた。

最近文書類がオークションなどに出品されて拡散している。研究者の膨大な資料が遺族の手により遺棄されたりしている。熊本近代文学館が歴史資料の保存や研究、公開展示をしようと組織を改編して、新しく発足する。
私は規模においていささかの不満があるが結構な話だと考えているが、文学関係者には不評らしい。 

某先生が残された膨大な資料や書籍の行方が気になって仕方ないし、知人友人が所蔵する貴重な書籍・史料などもなんとか散逸しないようにと願うばかりである。

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■真木村と合志氏

2015-01-20 09:10:13 | 歴史

 史談会の会員K氏が長瀬真幸の「山分け衣」の読み下しにチャレンジしておられる。
これは真幸自身が熊本から合志郡真木村祭に参拝のために出かけた記録であるが、私は祭りが行われたという場所真木について全く知識を持たない。肥後文献叢書・第一巻の「古城考」から「真木古城」にある内容をを全文ご紹介しようと思う。

竹迫(タカバ)代家傳に云、近江源氏佐々木四郎左衛門尉高綱、末孫四郎左衛門長綱、大友家の裁許に依りて、建長二年(1250年)に合志半郡の地頭職となり、同郡真木村 里俗今城と云 に居住し合志民(氏カ)と稱す爾来子孫相續して住吉館に居れり、合志氏両家あり、中原姓竹迫の合志氏を里俗地ノ合志と稱す、源姓佐々木氏を下り合志氏と稱す、川久保日記に云、川久保三郎と云ふ者合志侍にて梅杏を固めし者也、彼が書の日記なり、子孫枯木町にありと云 合志家基は、佐々木近江源氏也、叡山の貢物を取立つる役なるに、或時麁略有之故催促の使度重れども不出合、却つて怒り及合戦、敗弊して他国へ走り、人を顧みて向後麁略す可からすと肯ひ、復麁略ありし故山徒集り調伏す、依之様様祟り有る故、吉良、大林、石坂、渡邊等を従へ、忍んで出奔し、衆徒等の道を遮り塞く故、伊勢路に懸り、播磨より豊後竹田の津に航海して、後當郡真木村に潜居すれども、叡山の聞えを恐れ、名を隠して、二郎丸、三郎丸とて紛居たり、子孫二つに分れて、一つは中窪田(大津町)に住めり、一つは住吉(菊池市泗水町)に移り、是を山の合志、里の合志の分れと云ふ 長綱を祖とすれば年代甚だ麁略す、是非を知らず


「山分け衣」の書出しに「こうしのこほり(合志の郡)真木の村に坐す大神の御祭は神奈つきのもちの日なるをその祭りの日なむ」とあるが、その大神とは現在の真木大神宮のことであろう。
                  http://www.town.ozu.kumamoto.jp/product/kanko/siseki/_9589/_9631.html

近くに真木城という古城があったとされるが、これについても詳しい資料を知らない。 http://nihonnojoushi.digi2.jp/kumamoto/maki.htm    

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