津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「瀬戸内海路」について

2015-01-08 10:19:16 | 史料

2012-03-28 のブログで「鶴崎を勉強する」を書いた。偶然大分市鶴崎公民館「ふるさとの歴史教室」が発行している「平成17年度・研究小報」を、「日本の古本屋」で手に入れた折のものである。今般「立政公御参勤 道中日記をたどる」を書くに当たり、この冊子に書かれている「熊本藩鶴崎定詰船手永所持瀬戸内海路図」を再度ひもといてみた。瀬戸内の海路が描かれた絵図が掲載されているが、残念ながら詳細を知ることは不可能である。
一方「航路記--
豊後鶴崎ヨリ摂州大坂迄海上航路両道并湊附」なるものがあり、これは嘉永二年六月四日於船中寫之とあり藤原秀政と名乗る人物の書であることがわかる。

「大坂ヨリ鶴㟢迠海上」には次のようにある。

大坂五リ → 西ノ宮五リ → 兵庫二リ → 須磨三リ → 明石五リ → 高砂八リ → 二リ → 坂越二リ → 赤穂一リ → 木曽泊一リ → 太田部一リ→ 多ひ一リ → 
羊頭泊二リ → 牛窓二リ → 犬嶋三リ → 出崎一リ → 塩田原一リ → 日(目)比三リ → 下津井三リ → 手嶋四リ → 白石三リ → 一リ → 阿伏兎一リ → 
矢ノ嶋一リ → 田嶋二リ →豫崎一リ → 鷺瀬戸二リ → 青木一リ → 能地一リ → 忠海一リ → 高崎一リ → 竹原二リ → 唐松二リ → 日向泊一リ → 横嶋三リ 
→ 蒲刈三リ → 亀ケ首二リ → 加朗戸三リ → 津和二リ → 油宇三リ → 加室二リ → 安下庄五リ → 上ノ関二リ → 蔦尾三リ → 硫黄嶋
七リ → 姫嶋三リ 
→ 
竹田津三リ → 熊毛三リ → 富来二リ → 田深一リ → 武蔵一リ →安岐二リ → 簑崎一リ → 森江一リ → 深江五リ → 鶴崎
 

一方立政らの豊前小倉からの航路については、「中國路海上」で伺うことが出来る。

上ノ関二リ → 三リ → 室積三リ → 笠戸一リ → うつき崎一リ → 須■一リ → 重崎四リ → 向嶋大石四リ → 岩屋一リ → 丸尾新泊五リ → 本山七リ → 
下ノ関一リ半 → 大里

    (一部地名の読みに自信がないところがある。一つ一つを検証して地図に落とす作業をしている。間違いがあればご教示給わりたい)

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■立政公御参勤 道中日記をたどる 12 (室→大坂→大坂出発)

2015-01-08 07:03:12 | 史料

 

 ・十八日目
     同(十月)二日 曇ル
一、今日五ツ時頃室津御出帆被遊追風宜敷大坂川口江夕七ツ半時頃御着船被遊候 安治川弐丁目下ニ御船繋候也
一、中野三郎右衛門有井一馬御機嫌伺恐悦旁御船江罷出三郎右衛門より曲物一局献上有之無程被召出御用等被為聞候
一、虎屋饅頭壱箱              有井一馬
  右献上仕候三郎右衛門御前引取候上ニ而御目見被仰付候
一、金三百疋                 右同人
  右は御通行ニ付御用繁多ニ相勤候ニ付 被為拝領候
一、大阪御着船ニ付御家老衆拙者一同ニ御前ニ罷出恐悦申上候 御供席々より恐悦拙者取束申上候 尤野袴着用ニ而罷出候也

 ・十九日目
     十月三日 晴
一、今日は御船江御滞被遊明四日四ツ時頃より川御船江被為召候ニ付 其段御供中江も及沙汰候也
一、大阪御用達之類此度は御目見も無之右ニ付御目六(録)等之拝領も無之候也
一、今日御隙ニ被為在候ニ付 極御忍ニ而住吉神社江御参詣被遊候 御帰座夜五ツ時頃也

 ・二十日目
     十月四日 晴
一、                  伊田利作
                     大嶋伊三郎
                     塩沢勘吾
  右三人川船江御乗船前ニ御目見被仰付候 家老衆御取合ニ而拙者御披露仕候
一、高浜梶右衛門初御船手一同御乗船之節御通懸ニ御目見被仰付候 御取合御披露右同断梶右衛門平波ハ御意も有之候也
一、御菓子壱箱献上        伊田利作
一、金百疋              高浜梶右衛門
  右は御船中間出精相勤候ニ付被為拝領候
一、同百疋              伊田利作
  右は此度御通行ニ付御用繁多ニ相勤候 御菓子も差上申候ニ付被為拝領候
一、金弐百疋            大嶋伊三郎
  申渡右同断
一、銀三両             塩沢勘吾
  申渡右同断何れも拙者より申渡候也
一、大阪御城代様両御奉行様御船手頭様江御参勤ニ付御太刀馬代持参ニ而御使者外様河嶋市右衛門相勤御口上書等夫々ニ相渡候 御太刀馬代は大坂ニ而取計也
  供人駕迄同様也
一、昼九ツ時頃川御船江御乗船被遊候 御召船ニ乗組之面々御近習片番御医師拙者御近習片番者外船より御先番ニ参候也 

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十月二日 五ツ半(9時)室津を出船した一行は十七日目夕方七ツ半(17時)大坂川口に到着して安治川弐丁目に船を繋いだ。
大坂蔵屋敷(中之島越中橋際)は安治川の上流1キロ程でそう遠くないが、記録からは立ち寄った気配は見受けられず、蔵屋敷詰めの中野三郎左衛門がご機嫌伺いに来船する。
又同じく蔵屋敷詰めの有井一馬は「虎屋の饅頭」を持参しているが、当時京・大坂の名物であったらしい。現在の東京・虎屋の前身である。
家老を始め筆者の上羽などが安全に海路の旅を終え祝着を申し上げている。

                  
          

                 左ページ中央下部に熊本の記載がある。越中橋は現在の肥後橋。肥後藩主の越中守の官名に由来する。
                 大阪蔵屋敷-2

 

翌三日はお忍びにて住吉大社等にでかけ、帰りが夜五ツ時というからどこぞで一献ということも有ったかもしれない。

十月四日は蔵屋敷詰の者が献上の品などをもっての挨拶に御目見が許されている。
一方大坂御城代・両町奉行・御船手頭などに河嶋市左衛門をもって、定例の挨拶に参上させている。
昼九ツ時(12時)御座船に乗船して京都伏見を向けて出発となる。 

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