津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大學章句「新民」と現代

2024-10-06 11:35:37 | ご挨拶

 熊本史談会の5月例会で阿田俊彦先生の「儒学、その変遷」をお聞きして少し勉強を始めたが、泥田に足をとられて七転八倒の有様である。
幕府が「朱子学」を官学と定めると、細川藩に於いては「陽明学徒の追放事件」がおきた。綱利の時代寛文年間のことである。
綱利にとっては叔父にあたる長岡元知(忠利末子)が、処分の厳しさに諫言して蟄居処分を請け、それは実に年に及んだ。
「朱子学」と「陽明学」との違いくらいは判りたいと、小島毅著「朱子学と陽明学」を読んでいる。

 長岡元知のDNAは、奥方が三卿家老米田家の是長女・吟であるため、その子・是庸が是長の継嗣子となり継承された。
私は、三卿家老の内、松井家・有吉家の保守勢力に対し米田家は「物言う家柄」ではなかったのかという気がしている。
幕末、米田是容の時代に至り、横井小楠らと藩校時習館の改革に乗り出し、其のグループは「実学党」と称することになる。
後に、実学党は是容の「坪井派」と、小楠の「沼山津派」に分かれることになるが、いわゆる大學章句にある「明徳明」と「新民」の解釈による対立が発端だとされる。
それは是容と小楠の直接対決ではなく、小楠の弟子・矢嶋源助(直方)と是容の家来・久野正頼の意見の対立が事の発端であると、蓑田勝彦氏は論考「横井小楠と米田監物」(史叢10号)で書いておられる。
その要は「乱に於いて命をかけるというのであれば、治においてもそうであるべきだ」という事に尽きるのではないか。
久野は小楠のでしでもあるのだが、自分の非力を思い知ったとその著「千日鑑」に書き残している。
 その後、源助は津田山三郎とも論争しているが、論点の合一には至らず弐派に別れたとされる。
君上に仕える「明徳」派と、人民の在り方を重視する「新(親)民」派とでは、この決別は当然の帰結であったのかもしれない。

 私はふと、水俣病の問題が明らかになったとき、渡部京二や石牟礼道子らと行動を共にした本田啓吉が「敵が目の前にいてもたたかわない者はもともとたたかうつもりなどなかった者である。」と言ったことを思い出した。
まさに親民派と同じ考え方であり、そんな人間は「従順に体制の中の下僕か子羊になるがよい」と言い切っている。
この言葉は堪える。
 

コメント
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