津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■秋のあせも

2024-10-25 12:56:45 | ご挨拶

 この夏は余りにも暑かったが、外に出ることを極力控えてクラーを四六時中回していたから、あまり汗をかくという事がなかった。
ようやく涼しくなったころ、長袖を着込んだりしたら右の二の腕の内側あたりに「あせも」が出来てしまった。
あまり気にせずに放っておいたが、知らず知らず掻いたらしく、10×6センチほどあちこち搔きむしり、かゆくて仕方がない。
今朝も長袖を着込んだが、段々気温が上がってきたので、短パン・半そでにあわてて着替えた。28℃くらいまで上がりそうだ。
それにしても、秋にあせもとは恐れ入った。昔は「天花粉(ボディーパウダー)」なるものをはたきつけていたものだが、何方かの句に

   天瓜粉まみれや老の喉ぼとけ  という句があるのを承知している。

「喉ぼとけ」ならずとも、汗疹の痒さは願い下げである。我が家は妻が入院中で、その天花粉があるのか無いのかさえ判らないから、ただひたすらに痒さを我慢している。

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■「東風」という風

2024-10-25 06:45:29 | 徒然

「東風=こち」といえば、「春のやわらかな東から西へと吹く風のことをいう」のだそうだが、私には日本海の荒れた東風というイメージがある。
数日前熊本ではとんでもない強い東風がひと時吹き荒れた。そんなとき「東風」という言葉に少々思いをしたのでいろいろ書きつけてみた。

 夏目漱石の「吾輩は猫である」の登場人物に越智東風という人物がある。
主人公である名もなき猫の飼い主・珍野 苦沙弥先生の元へ水野観月の紹介状を持ってやってきたのが越後東風である。
東風はその後、この作品の中で度々登場するが、この人物は「とうふう」ではなく「こち」が正しい名乗りである。
「おちこち」と韻を踏んでおり、読みを間違えるととうとうと「こち」が正解であることを言い立てるという。

「京都漱石の会」というサイトに、『吾輩は猫である』に登場する越智東風の命名について という南八枝子という方の一文がある。
この方は柳田國男のお孫さんだそうで、その柳田國男の文章を紐解きながら紹介しておられるのでお読みいただきたいが「國男によると、越智東風(おちこち)は自分のすぐ上の兄、井上通泰が歌や新体詩を発表する際に使っていた変名だというのです。」とある。
漱石は、このことをかすかな記憶の中にあって使ったのだろう。
その漱石には  東風吹くや山一ぱいの雲の影  という明治23年9月の句がある。箱根での句だと思われるが、「東風」が春の季語であることなどお構いなしである。

 さて、万葉集にある大伴家持の歌に
    東風いたく吹くらし奈呉の海士の 釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ    がある。
まさに荒れる日本海の有様が歌われていて、春の穏やかな風とは言い難い。
この東風について「越俗語東風謂之安由之可是也」(越の国の俗語で東風をあゆのかぜという)と解説している。
家持のこの歌は「東風=あゆのかぜ」と歌うべきなのだろうか。
それはともかく、井上通泰氏は何故「越智東風」と名乗られたのかを知りたいところである。

 菅原道真は、大宰府から遠い京都を想い「東風吹かば思い起こせよ梅の花・・・」と読んでいるが、これは京への思いが強く、「強い東風」というニュアンスは伺えないような気がする。

 熊本の高名な漢学者・宇野東風(とうふう)先生は、なぜ「東風」と号されたのかも知りたいと思う。京都・東京などへ雄飛したいという思いがお有りだったのだろう。その思いは成就した。

 

コメント (2)
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